この集会を企画し準備して下さった皆さん。司会・パネラーを引き受けて下さった方々。そして、集会に駆けつけて下さった皆さん。心からのお礼と感謝を申し上げます。
私に対する拘禁は、今日で231日になります。冬・春とすでに二つの季節を体験させられ、今は団扇一本を与えられて、猛烈な湿気と暑さの中に閉じ込められています。肉体的にも精神的にも決して楽ではありませんが、皆さんの励ましに支えられて頑固に頑張っています。
第1回公判でも言いましたとおり、私が依頼者に指示し行ったことは、賃貸部門を分離独立させて分社化し、これをもって経営者・従業員ともに生き延び、再起を期すことを提言し、これに必要な手順を説明し、賃貸人の地位の譲渡の通知と承諾のひな形を交付したことです。これはおよそ強制執行妨害行為とは関係ありません。
しかし、住管・警察・検察は一体となって、これを強制執行妨害行為としてデッチ上げました。住管は、債権回収を図るためのいかなる民事的手段をとることもなく、私の依頼者をいきなり刑事告発し、警察・検察は、これを受けて、私の依頼者を逮捕勾留し、無理矢理に罪を認めさせたうえ、私が首謀者であると供述させて本件事件を作り上げました。しかも、経理責任者らによる数億円に及ぶ着服を黙認すること等を取引条件としてです。
そもそも民事事件は、種々多様な側面を有しています。ですから、その一部を意図的にからめ取り、他を捨象してしまえば、これを刑事事件として作り上げることは決して難しくありません。しかし、このような危険性があるからこそ、民事不介入の原則があったのですし、刑事と民事の棲み分けが行われてきたのだと思います。創意工夫と自由競争を基本原理とする民事事件は、一方当事者だけを悪と決めつけて、これを取り締まりの対象とし、刑事制裁を科すという刑事事件とはおよそ相容れないものです。民事不介入の原則は警察・検察が私生活領域に入ってくることに対する防波堤の役割をも果たしてきました。ところが、住管の誕生により、そしてその膨大な自己増殖によって、この原則が一方的に偏頗な形で破られ、今回のデッチ上げに利用されたのです。
私の同僚の中には、私に対し「警察・検察に屈服して弁護士バッジをはずし、検察に謝罪し、保釈意見を取り付け、早期に保釈を獲得して、執行猶予の判決を得て、再起を期すべきだ」と助言する人もいました。しかし、私は、やっていないことをやったと認めることはできません。今回の事件で、私の「共犯」とされた依頼者の弁護人は、一審では事実を否認して無罪の主張をするも、すべての証拠に同意し、また、もう一人の依頼者の弁護人は、限りなく無罪の主張をするものの、結局は、これを情状としてまとめるにとどまったと聞いています。
これが、現在の司法の現状であり、検察は警察の言うがまま、裁判所は検察の言うがままで、ひとたび警察・検察に抗しようものなら、「罪証隠滅のおそれ」という如何ようにでも理由付けられる理由によって、しかも、弾劾も反証する機会も奪われたまま、裁判所によって長期勾留という不利益を科せられ、屈して認めれば直ちに保釈が認められ自由になるという、とんでもないことが行われており、被告人及び弁護人は、事実を違えて、これに従わざるを得なくなっています。
これらは、民事不介入の原則が取り払われれば、警察・検察によって、民事事件が刑事事件として如何ようにでも作り上げられ、その標的がいずれ弁護士に向けられること、また、これに抵抗しようものなら長期勾留という著しい不利益にさらされることを示しています。警察・検察は、これらの全体を取り仕切って、益々肥大化していくに相違ありません。
私は今まで、民事事件、刑事事件の分け隔てなく、私の持てるエネルギーと技量を最大限に駆使して、依頼者に、常により軽く、そしてより温和な解決が得られるよう努力してきました。私が唯一しなかったことは、刑事告訴・告発等、犯罪者を作ることに加担することであり、また、上場企業や金融機関や公共団体の代理人となることでした。弱い立場の人が虐げられないよう、強い立場の人が横暴を極めないよう、ミスをした人が再びミスをしないで済むよう、そして、誰にも敗者復活の妙味が確保されるよう、そしてそれが仕事の中で少しでも実現されるよう頑張ってきました。私が忘れないように心がけたのは、目の前の人が、今、危害を加えられているなら、仮にその人が昨日、これに倍する危害を加えていたとしても、これを止めさせるという、常に現場に依拠し、決して一般化・抽象化させない価値観でした。そして、その延長上にある、私にとって決して譲ることのできないもの、何よりも大切なものが、死刑廃止であったわけです。
しかし、借金を返済するか否かという民事以外の何ものでもない問題でさえ、声高に天下・国家を云々され、あるいは倫理に悖るとされて、断罪され、また、オウムというだけで住むことを拒否され、また家宅捜索を受ける事態を目の前にして、正直言って、私たちが有していた価値観と行動様式は、もはや存在できなくなった、すでに時代が変わったのか、とさえ実感させられます。
私は、愚直に、従来やってきたとおりの生き方をやり続けたいと思っています。更なるデッチ上げと弾圧があるかも知れません。どうか、無理のない範囲で、私を支えて下されば幸いです。