これは忘れ去られたアメリカである


絶対的貧困の現実を明らかに

書評・デイヴィッド・K.シプラー著『ワーキング・プア アメリカの下層社会』




2007年3月

前 田 年 昭
編集者・アジア主義研究

『週刊読書人』第2681号 2007年3月30日付掲載

 働く貧困層を意味する本書の書名は,NHK総合テレビで昨二〇〇六年七月(働いても働いても豊かになれない)と十二月(努力すれば抜け出せますか)との二回にわたって放送された「NHKスペシャル ワーキングプア」で一挙に知れわたった。
 著者はピューリッツァー賞を受賞した元ニューヨーク・タイムズ紙記者。アメリカ各地に取材してワーキング・プアの実態を描いた本書は,三年前(〇四年)に出版され,全米ベストセラーになった。二十世紀後半以降,アメリカ社会では働いても働いても貧困境界線以下という貧乏人たちへの社会政策が課題だった。一九九六年には,連邦政府の福祉受給者の二年以内の就労義務と五年以内の受給期間制限などを盛り込んだ個人責任・就労機会調整法(どこかの国の“再チャレンジ”政策そっくりではないか!)は,何ひとつ解決できなかった。本書で描かれた多くの事実は政府の“セーフティネット”の破綻を証明している。
 第三章「第三世界を輸入する」――。アメリカの縫製工場で働けばカネになるとタイから連れてこられた若い女性はエルモンテ市の二階建て共同住宅に閉じ込められ,鉄条網と合板で覆われた窓の向こうで日に一七〜一八時間,洋服の縫製・仕上げを強いられた。一ドルに満たない時給から,四〜五倍に水増しされた食料雑貨代をピンハネされ,医療保険がないため多様な病気に悩まされ,歯周病を治療できず八本歯を抜くことになった者もいた。
 第八章「体と心」――。約二・五キロで生まれた「病んだ赤ちゃん」ファン(仮名)は生後七か月でも衰弱し約五・四キロ,開かない右手は栄養失調で手術もできない。父親は非合法移民で捕まり働けないため母親は家賃を滞納,住居から追い出され,食事の出ないホームレス用シェルターに収容。また,「小さな老人のように見える赤ん坊」ヘクアンは,たとえ体がやせこけても顔は丸いままというのがふつうなのに頬までこけているという危険な兆候を示す。「家計が厳しいとき,変更のきく数少ない支出の一つが,食費である。家賃は額が決まっているし,車関係の支払いも常について回る。電気代と電話の基本サービス料金は,まけてもらったり,値切ったり,切り詰めたりする余地がない。…その結果,アメリカでは,栄養失調の子どもたちが,どっと生み出されている」(二六六ページ)。
 ある書評では「医療保険制度のあり方が異なるなど,本書の事例からの含意をすぐに日本に当てはめるのは危険」というが,国民皆保険制度という日本のタテマエはとっくに崩壊しているという目の前の現実がその書評子には見えなかっただけではないか。いま,急増する無保険無年金無貯金の人びとは病気がとことん悪化するまで病院行きを我慢している。一握りの“成り上がり”を除いて,労働者は労務者化し,マンガ喫茶はドヤ(簡易宿泊所)となった。二十一世紀に入って全国の野宿者は二万人四千人を超え,釜ヶ崎では日雇労働者の数を生活保護受給者数が上回った。ニート,フリーターを“能無し”“役立たず”“クズ”と見下ろす立場からは,この「忘れ去られた」貧乏が見えない。
 イデオロギーで現実を裁断する者は「相対的貧困はあっても絶対的貧困はない」などという。しかし,本書が明らかにしたように絶対的貧困の現実は確かに存在している。アメリカだけでなく目の前の日本に。本書は「忘れ去られた」人びとからの必読の叫びである。正視することを避けたまま視る力をなくしてしまわぬように。(森岡孝二・川人博・肥田美佐子訳)

デイヴィッド・K.シプラー
『ワーキング・プア アメリカの下層社会』
B6判・404頁・2940円
岩波書店
4-00-025759-5
(おわり)


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