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歴史の教訓に学び,盗聴法を権力による「国民/非国民」再定義の動きとしてとらえよう!
「第31回ジャーナリズムを語る会緊急シンポジウム―『盗聴』法案にレッドカードを!」における会場からの発言
1999年6月16日
前 田 年 昭
ライン・ラボ代表
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前田と申します。零細組版印刷業者です。きょうは日本のジャーナリズムの良心ともいうべき方々のお話を直接うかがうことができ,嬉しゅうございました。皆さんが「取材源の秘匿」という新聞記者としての職業倫理を守り抜きたいとの立場から,当事者として,通信の秘密の権利を踏みにじる盗聴法に対して闘っておられることに心から敬意を表します。
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ひとりひとりの力は弱いものだと知ること
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ジャーナリストの良心はどうしたら守りぬくことができるのでしょうか。最近,パパラッチだ人権侵害だと報道被害が問題になり,まじめな記者は日夜悩み,心を痛めていることと思います。ですが私はひとりひとりの記者の良心の問題に解消してしまったらけっして解決できないと思います。倫理や道徳は,個人の内面の良心と決意の問題として守りぬくことなどできないからです。たとえ徹夜明けでも職務命令で和歌山へカレー事件を取材してこいと言われたら,個人の力では拒否するのはたいへんなことというのが現実ではありませんか。
人間は間違いもおかすし,ひとりひとりばらばらでは,正しいと信じることを貫きとおすこともむずかしい,そういう弱い存在です。倫理や道徳は――超階級的な倫理や道徳などないのですがそれはここでは論じません――,団結した組織と力ある社会運動がなければ,守ることも,守りつづけることもむずかしい。記者の倫理をうちたてる闘いは,報道の職場に労働組合と労働運動の力をつくっていく闘いと一体だということです。
盗聴法案の問題もそうです。組織と闘いがなければ廃案にすることはできないと思います。組織と闘いをつくりだすためには,理論的,つまり歴史的にものごとをとらえ,世論を動かさなかったらダメだと思います。
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盗聴法を“権力による「国民/非国民」の再定義の動き”としてとらえること
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同じ政治権力がいいことも悪いこともやるということがあるのか,いい法律もあるが盗聴法案は悪法だという見方,考え方は正しいのか,見直したいと思います。
私は最近の政治の動きを,国家の側からの「国民/非国民」の再定義の動きとしてとらえています。ガイドラインも盗聴法案など組織的犯罪対策法案も日の丸・君が代,さらに他方,行政ですすむ情報公開の動きもみな一体のものとしてとらえるということです。情報公開はいいこと,という見方もあるでしょう。しかし,歴史をふりかえってみれば,公開と隠蔽はつねにセットになって持ち出されてきています。
私はここで,普通選挙法は治安維持法と同時に成立したという歴史的事実を思い起こすよう強調したいと思います。同じ1925年,普通選挙法案は3月2日衆議院可決5月5日公布,治安維持法案は3月7日衆議院可決4月22日公布,つまりふたつの法律はメダルの裏表として一体のものでした(同時に勅令で朝鮮・台湾・樺太に治安維持法を及ぼすとされています)。
ひとりひとりが国家に協力するかどうかを選んだのではなく,国家の側から「国民/非国民」を線引きし,線の内側の人間には選挙権を与えてやるが,線の外側の人間は監視下において事前の検閲や検束もやりたい放題にする,ということだったのです。いくら「自分はアカではない、善良な国民だ」と内心で信じていても,国家の側が一方的に選別をし,人民をいがみあわせた,これが歴史が教える冷厳な事実です。
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自分自身を「善良な市民」とする運動は危険であること
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さきほどもJCA-NETのユーザーの方が会場から発言され,「善良な市民を巻き込むからいかん」という排外的な主張は反対運動の発展のためにはよくないのではないかとの指摘をされました。私も同感です。ドイツの法律で報道関係者は盗聴対象から除外されているということをたてにとった反対運動では「報道の自由」は守れないと思います。対象がオウムやヤクザ,過激派ならば盗聴されても仕方ない,という論理の容認につながるからです。
第一,なぜオウムを信心してたらパソコン売ったらいかんのか,なぜヤクザやってたら事務所を使うのも自由でないのか,いまの世の中,いくら不満がたまってるからといって,そんな「いじめ」にはけ口を求めていたら,明日は我が身! ではないでしょうか。何か大切なことが忘れられてるのではないか,私はそう感じています。「市民」が松本サリン事件の第一通報者を「犯人」に決めつけた悲しい事件を二度と繰り返さないためには,襲われる側にも襲う側にも立たず,自分の目でみて心できいて判断し,行動する以外にありません。視点を「いじめ」られる側においてみれば,「他人に迷惑をかけないかぎり何をやっても自由」というせりふを「いじめ」翼賛多数派側から吐かれことが,いかに不気味で嫌なものかがわかると思います。世の中が「いじめ」多数派に流れるなら,むしろ異端であることに臆せず,孤高を保つことを恐れず,はみ出し者でありつづけることを楽しみながら人生をおくりたいものです。
ともにがんばりましょう。
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1999.6.29四訂 (おわり)
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