活動家、日比谷公園に死す
 先月30日午後6時半、東京・日比谷公園。県北出身で神奈川県に住んでいた男性(54)が、焼身自殺した。男性はイスラエルのパレスチナ侵攻に抗議していた活動家で、日本赤軍とも近かった。「侵略者」への抗議を続けた男性の根底にあったのは、花岡事件を生んだ古里秋田への愛憎だったともされる。男性は遺書を「パレスチナに続く海辺で」と締めくくり、遺書とともにあったメモには「故郷の海をたどればシオンにいたる」と書き残した。故郷とは秋田、シオンとはエルサレム市街にある丘の名前。彼が炎の中で見たのは、古里の海だったのか。


侵略への抗議 根底に「花岡」

 男性が自殺した日は、パレスチナにおける反イスラエル運動の記念日「土地の日」。この日は都内の別の場所で集会が予定され、男性は仲間に「土地の日は張り切るよ」と話していた。だが、男性は集会開始とほぼ同時刻、ひとり日比谷公園で灯油をかぶって自らに火を放った。かつて男性はこの公園で、イスラエルに抗議する72時間のハンガーストライキを行ったことがあった。

 兄(60)によると、山あいの町に生まれた男性は、地元の高校を卒業後、関西の大学に進み、やがて中退。その後十数年間、古里に寄り付くことはなかった。ひょっこり古里に戻ったのは「昭和63年か、平成元年」(兄)。以来毎年、盆と正月には帰郷していた。

 県警の警備担当によると、男性は古里と音信がなかった期間、パレスチナを支援する日本赤軍と接近。「日本赤軍のアジトも知っていた」(公安当局者)とされ、レバノンで軍事訓練を受けたことも分かっている。ボイラーマンとして生活費を稼いでいたという。

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 活動を通じて男性と親交があった同年代の知人に言わせれば、男性は「優しいまなざしを持った人物」。日本赤軍と浅からぬ縁があったとした上で、「日本赤軍への共感というより、パレスチナ民衆の救済を目指す中で、方向性が一致した結果の接近」と話した。
 
 この知人は、男性の活動の根底にあったのは、終戦直前に花岡町(現大館市)で起きた花岡事件とみる。強制労働させられ、蜂起の末に拷問を受けて死亡した中国人労働者への哀れみと、搾取を続けた日本人への怒り。「古里で起きた事件が、抑圧された人々を救う活動につながったと思う」(知人)

 男性の兄も「加害者である日本人の血を、自分も受け継いでいる―と思ったことが、弟の思想の原点のような気がする」。「(赤軍メンバー3人の襲撃で26人が死亡した1972年の)テルアビブ空港事件で亡くなった人たちのために、これからも活動していく」。男性がこう話したのを、兄は今でも覚えている。

 男性は遺書で「解放に取り組むパレスチナの人々は、私には近い友人のような気がする」「イスラエルを後押しするアメリカ、その盟友として振る舞う日本への抗議に、一人の人間として私も参加する」と記した。

 同じ活動をしてきた仲間たちは、焼身自殺についてさまざまな感慨を抱いている。「パレスチナの戦いに殉じることで、彼は自分を生きた」「彼の究極の抗議は他人の命ではなく、自分の命を犠牲にして戦うことだったのか」

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 その中で一致しているのが「パレスチナに続く海辺」は、男性が古里で見た海だったということ。故郷の海が「シオンにいたる」としたメモ。「彼が遺書の中で唯一残した詩的な表現。花岡事件への憎悪と、よく話に出てきた母親とともに暮らした地への愛着。屈折というか、古里は愛憎半ばする場所なのだと思う」。多くの仲間が共感する解釈だ。

 自殺の9日前、男性はインターネットの掲示板に、こんなメッセージを残した。「今ほど反体制が色とりどりになりつつある時代もないのではと思ったりする。人生の残りが長いか短いか分からんが、ボチボチと一つひとつに自分に正直に生きたい」。その正直な生き方の結論が、桜が散り始めた日比谷公園での最期だったのだろうか。

 知人の一人は、男性の命日を「花炎忌」と名付けた。秋田の海の向こうにあるパレスチナの民衆と自分を同化させ、命を断った活動家。その壮絶な最期に花を散らした桜前線は、間もなく男性の古里に到達する。

<写真:イスラエル軍の戦車に威圧されるパレスチナ民衆(右)。背景は男性が抗議の自殺をした東京・日比谷公園(写真は合成)>

(2002.4.14付)

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