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「人を裁く」ことを強要する悪法・裁判員法に真っ向から闘いを挑む書!
書評・高山俊吉著『裁判員制度はいらない』
2006年11月
前 田 年 昭
編集者・アジア主義研究
『週刊読書人』第2662号 2006年11月10日付掲載 |
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もし永井荷風老が生きておれば「人民の従順驚くべく悲しむべし」と言っただろうか。裁判員法――二〇〇四年五月成立,二〇〇九年五月施行予定。国民は呼び出しがかかれば指定の日に裁判所に行かねばならず,裁判員に選ばれることを拒めず,守秘義務で裁判内容は口外できず,そのいずれの場合も違反すれば懲役か罰金で処罰される。
弁護士である著者がプロローグで書いているとおり,本書は「修正提案の書ではな」く「法の施行に真っ向から反対する裁判員法全否定の書」である。
「国民の司法参加」の実体は国民の司法拘束。辞退は許さないというのに他方で裁判員は日本国民に限られ外国籍の者はシャットアウト,また問題ある場合には裁判所は裁判員を解任できる。危険な国民総動員法――著者は事実にもとづき警鐘を乱打,制度反対と廃止要求を訴えている。
また,収められたコラムで,崔洋一氏は「気分で人を裁かせる時代の産物ではなかろうか」と喝破している。嵐山光三郎氏は「人を裁くというのはげに恐るべきこと」と指摘し,蛭子能収氏は「やりたくないし,やられたくない」と表明している。
司法改革の要として用意された裁判員制度のキャッチコピーは「市民の司法参加」。「お上の司法の時代ではなくなったとか,国民と司法が近づく時代だとか言うが,いつから下々がそんなに大切にされる時代になったか」との著者の指摘は,健康増進法や自殺対策基本法などの国家による“小さな親切大きなお世話”という最近の動向をみても鋭い。
裁判員制度とは何か。第一に,裁判員制度の本質は著者が的確に断じているように「民衆統治の先頭に司法と民衆自身を立たせる」ものである。司法制度改革審議会意見書(二〇〇一年)は「国民の役割は,国民のための司法を国民自らが実現し支えること」と述べている。権利といいくるめながら本質的には義務としての強要である。
第二に,審級としての裁判や罰としての監獄は歴史的な産物である。争いごとは中世までは私戦や復讐として処理されてきた。近代になって,国家が暴力の権原を人びとから奪い,「被害者」を代理して復讐し罰するようになって以降のことである。日本では一八七三(明治六)年の江藤新平による敵討ち禁止以後であり,それ以前は復讐は文字どおり正義そのものだった。
第三に,私戦や復讐よりも裁判所という近代の産物をよりベターなものとしてこの社会が仮に選び続けるならば,民事不介入の原則,職業としての弁護士などが守られねばならない。オウム裁判が典型だが,弁護士が依頼人の思想・信条,職業,門地や事件の内容によって,バッシングされ弁護活動をできなくするような近年の状況は,その守るべき近代の自殺行為であり,魔女狩りではないのか。
哀しく悲惨な事件の際の居酒屋でのドレイたちの「犯人は重罰に」「裁判は迅速に」という囁きは,国家によって簒奪され,「改革」という言葉は記号として消費されつつある。弁護士・渡辺脩氏の『麻原を死刑にして,それで済むのか?』(三五館,二〇〇四年)と並ぶ本書のようなまっとうな主張が多数派ではない現状を憂うべきか,悪法成立後も志を貫く人びとがいることを誇りとすべきか。
一億総岡っ引きのチクリとイジメの社会はごめんであり,良心的兵役拒否の思想と同様に,良心的裁判員拒否の思想が,この「美しい国」日本に育つ――本書がそのきっかけになればと私は願う。
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(おわり)
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