句読点研究会ニュース
第5号




2001年10月5日発行

発行=句読点研究会
世話人=田中栞、前田年昭

朗読ライブ「句読点表現」

第5回例会(9月16日,牛込箪笥地域センター)報告
第5回例会は9月16日,牛込箪笥地域センターにおいて,朗読ライブ「句読点表現」として板垣正義さん(朗読家)が公演、これまでの常連参加者だけでなく、研究会のWebページを見た方など「朗読」に関心を持つ人々も加わって、交流を深めた。
 巌金四郎さんから朗読の手ほどきを受けた板垣さんは、『朗読 声の贈り物』(平凡社新書)の著者松丸春生さんと兄弟弟子にあたる。研究会では、数々の作品を朗読しつつ、その合間に会場からの質問や、企画・進行担当の田中栞との対話のなかで朗読の技術についても答えた。字が読めれば誰でもできる“朗読”とちがって、個々の作品世界を表現する“語り”は、練習を重ねなければできないこと、句読点はある程度移動が可能であることなど、師・巌さんの教えをふりかえりつつ、板垣さんは朗読の魅力について語ってくれた。(田、前)

もくじ
前田年昭 / 田中栞 / 吉田みか / 田中梓 / 前川晶彦 / 前川尚子 / 五十嵐茂 / 皆川秀 / 脇田幸子 / 高橋洋子 / 太等信行 / 多川精一


研究会点描

前田年昭
(組版者)
夏目漱石『夢十夜』(第一夜)は,朗読によくとりあげられ,人によって朗読の方法はいろいろあるという。冒頭,登場人物の対話が地の文で描かれている場面では,それらのセリフに当たる部分をカギ括弧付きで読むことが多いが,板垣さんは今回,あえて「カギ括弧なしでやります」と前置きした上で演じた。
 作品の中で,発音できる文字のないところや記号の部分は,自分なりの解釈を施して表現する。たとえば「=」のような記号はふつう,イコールとは読まない。開高健「フィッシュ・オン」にあった単独の「!」や「?」については,ひとつの方法としては,それぞれ文脈のなかで「フィッシュ・オン!」「フィッシュ・オン?」など,言葉を補って読む。「……」をどう読むかはむずかしい。久保田万太郎の作品には「……」が多いが,言葉がないことを表しているので,聴覚に訴える表現ではむずかしい。パーレンで囲まれたところは必ずしも「心のうち」とは限らない。いずれも,それぞれのケースに応じた解釈と表現をしていく。
 「間」は朗読のひとつの重要な要素である。組版では同じ切れ目や改行であっても,朗読ではその「間」に大小がある。言いかけて言い直すときの「間」,説明する場合の「間」,きどりの「間」もある。
 朗読されることをあらかじめ想定して,書かれたものは多くはない。もっとも,読みやすい文章というのはある。自身が朗読経験者であったりする作家,たとえば浅田次郎のものなどは読みやすい。句読点の呼吸,文体が朗読向きになっている。今回のクノー『文体練習』のような,視覚に訴える要素の多い作品になると,朗読するのはむずかしい。俳優が取り上げるならば,思い切って演じてしまうのであろうが。
 アナウンサー的な読みというのがあるが,これは朗読とはまた別の方法である。「アナウンス」とは「伝える」ということであり,朗読に比べると非常に流暢である。朗読は「アナウンス」ではなく,なかみの世界を表現するものである。ニュース番組の現場では,作成された原稿を受け取ったそれぞれのアナウンサーが,テンやマルをいったん全部はずし(これを「句読点取り」という),その後,自分でテンマルをつける作業を行う。アナウンサーとして,事前にそういう勉強をするという。
 板垣さんは,事前にご自分の朗読用のテキストをつくる。注意を喚起するべき場所に印をつけ,いろいろな色のマーカーで区別をする。こうしておくと,何度も同じテキストで練習することによって,目がおぽえている,という状態になる。切りたくない言葉や文脈の途中で改ページになっているときは,コピーを切り貼りするなどして,そこで「余分な間」が生じてしまわないように原稿を作っておく。使用する版は手に入りやすいもの,ということであまりこだわらないが,誤植があったりすると他の版を参考にして訂正したりする。放送劇が本になったものはけっこう誤植が多くて困ることが少なくない。黙読が前提の本を音声化するので,「読み」はわからないままにしておくわけにはいかない。人名や地名など,固有名詞の読みは事前にかなり調べるが,結局はわからないこともある。本を作る立場の編集者は,わからないままで済ませておくことも可能だが,朗読者はそれでは朗読ができないので,判断を下さなければならない。

以上のような内容から改めて確認したことは,けっして「句読点は息つぎ」などではないということである。人の声というのは、仮に、高低やアクセントから声量、さらに意味までの“すべてをコード化”したとしてもあまりにもすくいとれない要素が多いことを思うと、反面、文字という発明の偉大であることを再認識した。
「朗読」と「組版」の句読点の違い

田中栞
(校正者)
息つぎの「間」を記号化したものが組版上の句読点になるのか。組版された句読点をそのとおり音声化すれば朗読になるのか。今回の「朗読ライブ」は,それが知りたくて企画したのである。結論を記してしまえば,両者は「別物」であった。組版におけるそれは視覚表現であるのに対して,朗読は音声表現である。方法が異なれば,表現できることと表現できないことは違ってくる。従って作品は別のものになる,と私は思った。
 原則として目で見て読む組版は,本文の書体,字詰め行取り,行間やマージンの寸法,さらには書籍(または印刷物)の本文用紙や造本形態などの外装的な要素も加味されて,視覚(および触覚)から享受される情報を伴って作品を味わう。原稿用紙やワープロ,パソコンなどで作成した原稿は,書籍本文の組版の体裁に整えられ,校正刷りとなって著者と編集者の手元に届くが,通常はこの段階で仕上がりの美しさを勘案しつつ修正を行う。文章の内容訂正という話はさておいて,この時,読んだ感覚だけでなく,見た目でも自然な句読点の数や,その配分を検討し,隣り合う行で約物や同じ単語が並んだりしてしまったら,語句を変更するなどする。行頭の一字残り,ページ頭の一行残り,見出しの奇数ページ残りも直す(ことが多い)。こうしたものが残ったままであると,読者の目はその不自然な部分に引き寄せられてしまい,読書行為が中断される。読む行為それ自体を読者に意識させずに作品世界に没頭できるような,つまり一定のリズムで最後まで読書(黙読)を貫徹できるような,自然な版面を構成するために,必要な作業なのであろう。
 さて,ところでこれが「朗読」となると,こうした要素は全く消滅してしまう。「朗読者」の側には影響があるにせよ,「聞き手」にはこの情報はまずほとんど伝わらない。視覚用に用意された美は,音声化された時点で消えてしまうのである。変わって,「音声表現」としての美が,今度は新たに朗読者によってつむぎ出されることになる。
 同じ作品でも,組版が出版社,編集者,印刷所,組版者,校正者などによって変化するのと同様,朗読では語り手(および演出者)によって仕上がりが様々になる。声の質,解釈,表現技術(語り方),そして公演当日の観客層,演者の体調,講演会場やその日の天候に至るまでの要素も絡み合って,表現は変わってくるのである。
 板垣さんの語りを体験してわかったのだが,組版表現では不可能な「間」の演じ分け,そして語られたセリフや場面を味わうことで,これまで自分が黙読して想像していたのとは,明らかに異なる世界が現出した。視覚から享受する組版によって頭の中で広げていたイメージと,それはなんと違う世界であったことだろう。「朗読」を前提として書かれる作品もあるというが,たとえ句読点の位置が「朗読」でのそれと重なるものであったとしても,版面に現れた作品と,朗読作品とは同じものではない。また同じ朗読作品であっても,演者によって仕上がりは異なるであろう。
 朗読では,組版とは違う別の表現要素が存在する。朗読者の解釈によって全体の流れが決まり,個々の句読点はそれに沿って語られる。同じ記号でも表現はその場その場によって異なり,「読み分け」が行われる。「間」と「語り方」の技法による区別化は,現行の組版ではできない方法であろう。朗読ならではの表現に触れることができ,句読点に関する考えも一層深まった。有意義な体験であった。
「朗読ライブ『句読点表現』」に参加して

吉田みか
まず,この「朗読ライブ『句読点表現』」に参加した経緯から──。
私は,某社で28年余の間,販促(販売促進)用の小冊子やPR誌,機関紙・誌等の編集や校正に携わり,3年前に退職いたしました。以来,いわゆる専業主婦をしております。そして,某市の点字図書館が主催する音訳(おんやく)講座を1年間(全30回)受講し,今年の4月より点字図書館所属のボランティアグループにて音訳ボランティアを始めました。
 ちなみに,「音訳」とは,「音声訳」とも言い,墨字(すみじ=点字に対して普通に書いたり印刷したりした文字)の情報・資料等を音声化して,正確に,できるだけ客観的に,視覚障害者に伝えることです。「音訳」の対象は文芸書だけでなく,新聞・雑誌,参考書,解説書,ガイドブック……と広範囲で,さらに,図表や写真,イラスト等が載っていれば,必要に応じてそれらも簡潔に分かりやすく説明しなければなりません。
 以前は点字図書館でも「朗読」と言っていたようですが,墨字の情報・資料等をできるだけ客観的に視覚障害者に伝えるという作業は,いわゆる「朗読」とは異なるということから,「音訳(音声訳)」という言葉を使用するようになったようです。もっとも,テープ等に録音するのではなく,視覚障害者と対面で行う場合は,いまだに「対面朗読」と言っていますが……。
 ところで,「音訳」は,いわゆる「朗読」とは異なり,「正確に,できるだけ客観的に伝える」とはいうものの,校正で言うところの「読み合わせ」とも異なります。「読み合わせ」校正では,原稿どおりに一字一字それこそ句読点等の約物まで「テン」「マル」「パーレン」などと読み上げます。しかし,「音訳」では,句読点は「間(ま)」で表し(読点は無視する場合もあります),句読点以外の約物は「間」に加えて「読むスピード」や「声の高低」等でそれらが使われている部分を際立たせるなどして表現します(傍点の部分が長い場合などは「以下,傍点……傍点,終わり」等とすることもあります)。
 実は,現在,音訳中の某氏のエッセイには,やたら読点が多く,(「音訳」初心者としては)どう読んだらよいか迷う箇所が随所に出てくるので,そのたびに悩んでいました。
〈例えば──

「そのようにして,ぼくはこの,ぼくの物語を,まず進めていこう,と考える。」
「これは,アメリカ史上,初めての,停滞,である。」などなど。
この他,傍点,チョンチョン,二倍ダーシ,三点二倍リーダーなども多用。

原本タテ組み〉

そういう時に目にしたのが,「日本校正者クラブ」の会報に載っていた「句読点研究会のご案内」という記事でした。しかも第5回例会の内容が「朗読ライブ『句読点表現』」です。まさにグッドタイミング! 「音訳」初心者としては,とても期待して参加した次第です。

前置きが長くなりましたが,以下はその感想です。

まず,受け付け時にいただいたレジメ(含むテキスト)に感激しました。旧漢字で表記されたタイトルの表紙にはライブの演者・板垣正義氏のための蔵書票(田中栞さん作)が貼られており,それにより旧漢字のタイトル文字の厳めしさが緩和され,同時に,手づくりの温かさというか,幹事さんのセンスが感じられました。内容も分かりやすく,そして,なんといってもありがたかったのは,演目のテキストの掲載です。演者の板垣氏は,やりにくそうでしたが(ご自身も,そうおっしゃっていました!),単なる「朗読の鑑賞会」ではなく「朗読ライブ『句読点表現』」と銘打った,いかにも「句読点研究会の例会」らしいやり方だと思いました。
 さて「ライブ」ですが,全体を通してみて,当初の参加目的を達成したかというと,残念ながら「問題解決!」とはいきませんでした。しかし,参考(勉強)になった点はいくつかあります。中でも一番は「間のとり方」です。また,特に「文体による音声表現の変化」の中の「間投詞」の朗読(?)は,「さすがプロ!」と感じ入りました。文才のない身には,「さすがプロ!」としか書けないのが悲しいのですが……。
 それにしても,句読点をはじめとするいわゆる「約物」は,一度この使い方でいいのだろうかと迷うと,わけが分からなくなってしまいますね(この文章を書く際にも,結構,悩みました)。これだけいろいろあるということは,それぞれに存在理由と最適な使い方があるものと思われます。今後「句読点研究会」にて,それらが解明されていくことを期待しております。
 最後になりましたが,有意義な研究会に参加させていただき,ありがとうございました。
感想

田中梓
わたしが一番おもしろかったのは、バスの中の話です。とくにデザートはコートのボタンというところがおもしろかったです。
それから、くもの糸の話がそのあとどうなったかしりたいです。
港北小学校五年生(十さい)
田中梓
【画像】
句読点の存在意義を再認識

前川晶彦
他では体験できないような研究会に参加させていだだき家内共々大変嬉しく思っております。また,感想を述べさせて頂く機会まで与えて頂き恐縮ですがまた嬉しく存じます。
 私が音読に興味を持ったのは,好きなJoyceの小説で音で聴かせる要素が強いということ,またやはり好きなJ.S.Bachの音楽では逆に歌う要素が大きくということ,それらから読むことと聴くこととは相互に不可分な関係があるようだということを認識してからです。
 現在では文字を読むということがあたりまえですが,だれでもそうなったのは日本に限っても100年程度の歴史しかなくそれ以前は,多くは今でも物語というように音声でのみ伝達されていたはずで,今回の研究会での形態のように語り部の周りに車座になって聞き入っていたのではないかと思います。そういう意味で,板垣正義さんが文言一致の時代の小説である漱石や鴎外の小説が音読し易いとおっしゃっていたのが大変印象的でした。
 日本語にとって句読点の存在も今では当たり前ですが,それらがなかった時代の日本語,例えば芭蕉直筆の奥の細道等を眺めていると,逆に句読点の存在意義が改めて再認識できるように感じます。
 これからも機会があれば是非参加させていただきたいと存じます。
句読点とは「呼吸」

前川尚子
先日は貴重な講演を聴講させて頂き,ありがとうございました。当日体調が優れず,途中で席を外してしまい申し訳ございませんでした。
 感想をとのご依頼でしたので,つたないですが感じたことを書かせて頂きます。
 まず一番に感じましたのは,「話す」言葉と「書く」言葉の大きな違いでした。どちらも言葉であり,表現する,伝えるという機能を担っていながら,その隔たりは本当に大きいと思います。このことを普段意識していないだけに,余計考えさせられてしまいました。
 先生は朗読し,聴いている者に書かれている内容をいかに正確に,臨場感を持って伝えるかを第一に考えておられたと思いますので,書かれている文章をご自分の中で解釈なさったうえで声に出されると感じます。一方文章を目で追う者は,行きつ戻りつができますので,読み飛ばしもできる訳です。
 その間にあって句読点とは,やはり「呼吸」のように思います。うまく表現できませんが,著者によって読点の多寡があり,規範はないのではないでしょうか。例えば吉田健一さんのように,長い文章,読点がほとんどないまま書いておられる方もおり,頭が混乱してくるのですが読んで刺激を受けるということもあります。文章を書いた人の呼吸が伝わってくるようなら,それが一番だと思います。
 こうして言葉についてじっくり考える機会を持つことができて,本当に感謝しております。また機会がございましたら,是非参加させて頂きたいです。
 益々のご活躍をお祈りしております。ありがとうございました。
誰かがやってみなけりゃわからない

五十嵐茂
(柏書房出版部)
実にユニークな企画だ。こんなことを考えて,やらせてしまう世話人は,ほんとにすごい。句読,約物を空気の振動として伝えることができるか? という空前絶後の試みだった。
 もともと,言文一致体をめざした美妙斎らをはじめ,話し言葉の世界を書き言葉で表すためにどうしたらよいか,いろいろと句読や約物を工夫したのだから,そのときは,まだ,音読的読書の共有という時代環境もあり,音読や話し言葉の尻尾を書き言葉が十分つけていただろう。しかし,こんにちには困難がある。そういう出自はすでに忘れられ,句読は文の構造的区切りとしてしか認識されていない。小学校の教科書の分かち書きに名残を留めるくらい。
 世話人は,いつの例会でもこの規模の会にはもったいないくらいのきちんとした資料をきちんとした組版で準備していて頭が下がるのだが,今回はちょっととまどった。というのは,音読用のテキストを見ながら聞いてしまったからだ。逆に,朗読そのものに集中しながら,ここは,どう句読や約物で表現されたか,とたどるのが,句読の歴史に沿った正しい態度だったのかもしれない。朗読者も句読通りに読む,と言われてその態度は正しいのだが,縛ってしまったかな,ということも感じた。
 それでも,いろいろなことを感じさせられた。「高瀬舟」の朗読。

弟の目は「早くしろ,早くしろ」と言って……
ひどく恐れ入った様子で,「かしこまりました」と言って……

この《「 》と《 ,「 》の関係をどう表現するか。私には朗読者の呼吸の違いがあったように聞き取ったのだが。もっと,高度な技も朗読者に披露して頂いたが,聞いていないとわからない,と言うところだろう。
 その後,当日のテーマが頭に残っていて,ある人が古書店で買ったという本をみていたら,なんと,一つの文章に現れる読点に,大読点と小読点の区別があるではないか。これはなにか。ううむ,まだまだ奥は深い。
句読点戦争

皆川秀
(「彷書月刊」編集部)
一年半ほど前から隷属している田中栞さんの命令で「句読点の研究う?」といやいや参加させていただきましたが、少し頭が良くなったような気がします。
 初の朗読ライブ、板垣さんの美声に聞き惚れていると、「……」と「――」の違いは? 「!?」はどう読むのか、などなど、吉田戦車のシュールを髣髴とさせる鋭い質問。
 偶然、その一週間後には、神田愛山先生の講談を六畳一間、膝づめで拝聴するという機会に恵まれ、扇を張るタイミング、修羅場の抑揚、などに、頭にテン、マルを置きながら、変わった形で堪能しました。
 文章を話術化する二通りのテクニックに接してはっきりしたことは、句読点の使用における、時間と空間という二つの間の認識です。書き手と読者の間に双方向の媒介者が入ることで、新たな認識が生まれる。朗読者という明確な媒介に、書き手と読者の間にやはり媒介する編集者という役割を重ねて、句読点は、作品の世界観を左右しかねないものだという、大げさでしょうか、そう思いました。記号論から、個々の認識差異を分析する比較言語学まで発展しそうです。
 古本屋さんが生業(なりわい)の小誌「彷書月刊」の編集長は、文学的には詩人なので、いつも句読点で異空間を作ります。数年前には句読点という認識すらなかったという噂もあります。しかしながら、小誌は情報誌です。読者の皆様に、わかりやすく情報をお伝えしなければなりません。明日から、また、戦いが始まるのです。
織られた糸をほどく声

脇田幸子
テクストは織物であるという喩えをよく聞く。ならば朗読は織られた糸をほどいてゆく作業に似ていると思った。
 開いた頁の文字は,どれも眼から等距離にあるように思える。太陽と地球の距離を測定するとき山脈や海溝の高低をほとんど無視できると言うように,狭い頁に並んだ文字を視線は自由に切り取れるような気がする。しかしそれを声に出したとき,一つの秩序に沿ってテクストが解体されてゆく。その快感。

 朗読者の声はいつも違和感をもたらす。自分の内奥にある幻想の声ではなく,朗読者の身体を通った生々しい声となって言葉が差し出され,戸惑う。そしてそのときはじめて自分のなかに,ある声のイメージをもっていたことに気づく。その文章から聞こえてくる声はどんな声なのか。作者の声はどんな声なのか。磨き用の紙鑢,そのとがった天鵞絨のような違和感が,音の意識を研いでゆく。

気にとめたこと二つ。

『高瀬舟』の入れ子構造。罪人喜助の身上話の場面。弟が断末魔に(過去の)喜助に語りかけた言葉を,(現在の)喜助が同心庄兵衛に語る。地の文は庄兵衛に近い視点で書かれているが一人称ではなく,話を聞く庄兵衛とそれを描写する地の文という構造。そのとき弟の言葉は誰の声なのでしょう。板垣さんは喜助の弟の声で朗読されていたと感じたのですが,ここは淡々と過去を語る現在の喜助の声ではないでしょうか。

「塩昆布」(開高健「谷沢永一」)は「しおこんぶ」やなくて「しおこぶ」と読んでくれはったらよかったんやけどなあ。開高さんも谷沢さんも大阪の人やさかい,「しおこぶ」ゆうてはると思います。
朗読表現の参考になったこと

高橋洋子
(取手朗読奉仕会ぶんぶん)
板垣正義さんの「句読点表現」を聞かせて頂きました。予備知識があまり無く、完成された朗読(もしくは語り)を聞かせて頂けるものと思い込んで参りましたので、勉強会或いは研究会の様な形式であること、小人数であること、畳の部屋であることなどに少し戸惑ってしまいました。しかし、それはそれで面白い試みであり、私達の様に日頃朗読の勉強をしている者にとっても、参考になる事は色々有りました。
 “文体による表現の変化”などはその一つです。実際にこの様な物を読み分けねばならないことは、おそらく無いと思いますが、表現の勉強法の一つとして自分達も取り入れても良いなと思いました。又、句読点についての御話で、読点に「、」と「〓【シロテン】」の二種が有り、間(ま)の長さを指定するものとした時代があったという説明には、大変興味を引かれました。
 板垣さんの朗読につきましては、同行した会員達の感想も折り込んで申し上げますが、まず非常に魅力的な低音であったこと、声の良さに聞きほれてしまわない様に“朗読”の方を一生懸命聞いたこと、身近に生の朗読の息づかいが聞けて良かった、間(ま)をとっても緊張感が持続するのは流石と思った、「くもの糸」は情景が良く見えた、などが良かった点として上りました。
 苦言としては、勉強会とは言え、誤読やつっかえが多く残念、聞き手が皆原稿を持っているのはどうか、などです。御案内(チラシ)の惹句にありました「朗d句と語りの違いを実演」というのに期待を持っていたので、原稿の句読点を見ながら、その句読点をどの様に整理し直し、どの様に間(ま)や息づかいを使い分けられるのかと、皆固唾を飲んで(オーバーですが)いたのですが、あまり原作と変わらない気がしてしまいました。耳が悪かったでしょうか。出来れば今度は完成された公演の方も聞きたいネと、言い合ったことでした。
句読点こそが文章を組み立てる鎹

太等信行
(印刷組版)
印刷組版を生業としている太等です。
 私のような仕事をしている者にとって,句読点とは何よりも「調節スペース」です。文章を書く人にとっては,句読点をどう使うか大いに悩むところです。しかし私の仕事は,既にでき上がった(句読点が打たれた)原稿を印刷用のページに仕上げてゆくのですから,句読点はある時は邪魔者であり,ある時はありがたい調節スペースなのです。句読点を勝手に付けたり外したりすることが許されたら,どんなに仕事が楽になるでしょう。
 はからずも私は,「句読点研究会」という会合に誘われるまでは,句読点とは組版上の禁則処理の条件のひとつぐらいにしか意識していませんでした。しかし例会への参加を重ねるうち,句読点はなによりも文章の意味を正しく伝え,また,読み易くするための必須アイテムであることを再認識しました。日本語のようにスペーシング(分かち書き)をしない言語では,句読点こそが文章を組み立てる鎹(かすがい)のようなものであると思うようになりました。
 句読点,とくに読点をどこで用いるかということは,難しい問題です。便利な法則はないものでしょうか。
 句読点の用い方が厳格に法則化されていないということは,つまり,書き手の癖が無意識のうちに文章に反映していることでもあります。
 計量文献学の村上征勝さん(統計数理研究所教授)は,読点の打ち方で文体を分析されています。朝日新聞の記事によると,川端康成の読点の打ち方は,戦前と戦後で明瞭に変化しているとのことです。
 私は,計量文献学という学問分野があったことすら今まで知りませんでしたが,この学問の研究成果は,文献が本物か偽物かを判断したり,本人が書いたものかどうか判別するなど,鑑定・鑑識・犯罪捜査にも応用できるとのことです。こんな学問分野がある以上,うっかり点を打ってはいけませんね。
 今回の例会はこれまでとは全く趣をかえて,「朗読ライブ」というものでした。朗読家の板垣正義さんの朗読を拝聴して,いろいろ考えさせられました。
 文章を読む時,その文章が上手いか下手かということ以前に,まず文字がきれいで読みやすく書かれているか,つまり,文字として判読できるかということが前提条件となります。私は仕事がら,手書き原稿をパソコンで入力することが多いのですが,まず,何という文字なのかはっきり判読・同定できなければ入力は不可能です。
 同じことが朗読について言えそうです。文章を正しく読むという以前に,発声が明瞭であるということ,声がよく通ること,滑舌が良いことがとても大切であると感じました。
 板垣さんの声はまず明瞭であり,耳障りなところがなく,心地よさすら感じます。ちょうど,美しい文字で書かれた手紙を読むときに感ずる心地よさ,人柄すら好感してしまうことに通じるものではないでしょうか。
 板垣さんは朗読する前に,文章の句読点(点と丸)とは別に,独自に考案した記号を付けて,間(ま)の取り方,読むスピードなどを工夫されているとのことです。
 そこで考えたのですが,読点をどこに振ったらいいか迷ったときには,まず,声に出して読んでみること。そして,自分が間をとったところを強く意識して,読点を打ち直してみる。これは法則化していいことかもしれません。そう,この文章は,私が声に出して読んでみて,自分が読みやすいと感じたように読点を打ち直してみたものです。読みやすい文章になっているでしょうか。
 さて,私はこの文章で,句読点を「使う」「用いる」「打つ」「振る」「付ける」などと表記してきました。こんなに多様な表記を許していることこそ,句読法の定まり無い現状の証左かもしれません。
朗読ライブ「句読点表現」に出席して

多川精一
(エディトリアルデザイナー)
現在私たちは声を出して本を読むことは,子どもに絵本を読んでやったり,小学校の国語の授業以外ほとんどない。だから朗読家が本を朗読するとき,句読点や括弧をどう表現するのだろうかという「ヤジウマ」根性で出席した。黙読ではそうした記号は文意をとらえるために頭の中だけで消化する。だが世の中には本を読みたくても文字も記号も見えない人もいるのだ。朗読家はそうした人たちへの仲立ちをする。実際に朗読を耳で聞いて,これは立派な「翻訳」であり「演技」であることを知った。何十年も本作りにかかわりながら,耳で読む人のことを考えていなかった自分の不明を恥じた。
 だから講師が朗読されるときテキストは見ず,目をつぶって聞いていた。その結果漱石や鴎外,芥川などの昔の作家は,声を出して読まれることを意識していたのではないかと思った。それに対して現代の作家は黙読されることを前提に書いているようだ。どちらが良いかではなく,読書形態の変遷を無意識にとらえた結果であろう。
 さて私ごとになるが私の生業(なりわい)はエディトリアルデザイナーということになっている。これは本を目で見ることを前提にした仕事である。「デザインも写真も見るだけではなく読まれなければいけない」とおこがましくも主張してきたが,最近ではそれらにも飽きて,昔から読むメディアである文章に傾斜するようになった。そしてたどり着いたのが自分で雑誌をだすという古典的な「事業」であった。
 『E+D+P』を50冊刊行した時点で,出版界の大勢にアホらしくなって,現在はより遊びの要素の多い『紙魚の手帳』を出している。金がないから原稿料も出せない。ページを埋めるために自分でも書かなくてはならなくなった。今までは文章は「読む」か,デザイン処理の「組む」ことしかやっていなかったのが,書く立場になると色々気になることが多くなった。そのひとつが句読点である。
 句読点は文章を活字や写植で組むようになってから必要になった,文章組版上の補助的な記号である。手書きの手紙や,詩,短歌,俳句には通常使われない。だからといって原稿の書き手がこれにいい加減であってよいとは言えないだろう。さすがにプロの物書きにそういう人は少ないが,学者や技術者の書いたものには,どうにも意味がとれず読み手が苦労するのがときにある。編集者がよければその段階で修正されるが,最近ではパソコンからいきなり組版に廻ってしまうものもあり,校正者を泣かすことになる。だから句読点の研究は筆者,編集者,組版技術者,校正者を網羅しなければならないだろう。さらに近頃は組版も写植,パソコン,ワープロが入り交じり,百鬼夜行の感がある。そのうえその書体選択や,文字の大きさ,字詰め,行間など前提になる条件も多様で,とてもこわくて簡単には近づけない。
 しかし句読点がどうあるべきかの中心になる責任者は,やはり文章を書いた人間にあるのではないか。そういう意味で文章の推敲のときは,読者を念頭において,句読点や括弧にも神経を使うべきだろう。最近はワープロ出力の原稿が多くなったが,文章は四百字詰めの原稿用紙以外には書けないという筆者も多いから編集者も大変である。
 吹けば飛ぶような文章書き一年生の私でも,原稿はすべて組版の字詰めどおりの字数でワープロ入力している。だから句読点のブラ下がりや括弧の位置などは,推敲の時点で手を入れてFDで入稿するから組版の手間は減らせる。それでも予期出来ない原因で若干狂うことがあるが,再校の手間は圧倒的に少ない。何のためにワープロやパソコンがあるのか,文章の書き手も考えるべきだろう。
 昔は本を作るのは編集者と植字工だった。戦後デザインブームにのって出版物にもデザインが要求されるようになった。本が美しくなったのは結構だったが,商業デザインからエディトリアルに廻ったデザイナーが多かったせいか,文字のことを考えない人が多かった。出版物の商品化の傾向もそれを助長して,装丁というと包装デザインだと勘違いする出版担当者も現れ,文字組無視の伝統は今も生きている。

そんな環境の中で「句読点」などという本の原点にかかわる研究会ができたことは素敵なことだと思う。しかし出版界の現状は甘くはない。山積みされた返品の陰で冷笑する目もあることを考えて,これからも地道な研究を続けられることを期待する。

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句読点研究会連絡係・前田年昭
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