句読点研究会ニュース
第4号




2001年9月7日発行

発行=句読点研究会
世話人=郡淳一郎、田中栞、前田年昭

縦組にとっての句読点――TeX組版からの見方

第4回例会(8月19日,涵徳亭)報告
第4回例会は8月19日,小石川後楽園・涵徳亭において,「縦組にとっての句読点――TeX組版からの見方」というテーマで藤田眞作さん(京都工芸繊維大学教授)からの報告をうけ,論議した。当日配布資料は,「縦組にとっての句読点――TeX組版からの見方」(藤田眞作さん)のほか,レジュメの事前公開にもとづく予習の呼びかけにこたえて提出されたレポート「「ぶら下げ」が損なうものと救うもの」(渡辺慎太郎さん)であった。
以下は寄せられた感想と意見である。

極私的まとめ

前田年昭
(組版者)
意見の対立はすばらしい。なぜなら問題解決のカギがそこに潜んでいるからだ。まして議論が白熱するということはいっそうよいことである。なぜなら討論が問題の本質、核心に近づいたと考え得るからである。しかし問題を整理するにはいたらなかった。司会進行役としての反省とともに,自分自身の考えも新たに発展させられなかったもどかしさが残る。
 「和字間が開いてパラついた組版は読みづらい」という意見が出された。出した人は講師・藤田眞作さんの問題提起に対する反対意見として出したようなのだ。しかし私はこれを藤田さんの提起に対する賛成・補強意見と解釈した。この違いがまたおもしろいが,なぜなのだろうか。どちらにしても白熱の議論をもたらし,気の小さい司会者をはらはらさせた藤田さんの提起が事の発端になったわけであり,ここに問題の核心に近づく何かがあるのだと考えることができる。
 藤田さんによる問題設定は以下の4項目である。
  1. ベタ組は金科玉条か。
  2. 「調整箇所をできるだけ少なく」という調整原理を維持すべきか。
  3. 前項とほとんど同じことになるが、調整の優先順位を固定的に考えることの是非。優先順位の高いところで調整ができたらそれで終わりとする方法の吟味。
  4. 句読点のぶら下げは本当に必要なのか。
そして、それぞれに対する藤田さん自身の主張は以下のとおりであった。
  1. ベタ組の桎梏を取り除く。
  2. すべての調整可能な箇所にわたって、優先順位を考慮した重みづけ調整をおこなう。
  3. 行末の約物の取り扱いについて、一つの約物に対して、単一の仕上りとする。本報告では、単一行末揃えの原則という言葉で言及する。
  4. 句読点のぶら下げをおこなうかどうかは、文書の内容に応じてきめる。ただし、筆者は、ぶら下げをおこなわない方法をデフォルトとする立場である。
藤田さんによって“単一行末揃えの原則”と名づけられた提起以外はむしろ,コンピュータ処理と結びつくことができた日本語文字組版にとっては当たり前のことであって,反論の余地などない。つまり金属活字の時代ならば,字間を詰めようとすれば約物の部分で削るしかなかったし,字間を開けようとすれば当該行全体にわたって調整することなど不可能で,四分,がんばっても八分の込め物を入れるしかなかったわけだから。
 “単一行末揃えの原則”にしても,すでに写植や初期のDTPの時代から少なくない組版者によってなされていた。府川充男さんや私もそのなかに入る。写植が電算となってからも写研のSAPCOLでは,行末約物の「半角〜全角」浮動は禁止,行末は「半角固定」か「全角固定」もしくは「半角/全角」となっていた。和欧混植がいまほど多くない時代だったこともあって「半角/全角」は調整のケースを減らすために残したものと考えれば,これも“単一行末揃えの原則”だったわけだ。行末空き浮動というずさんな組版の急増は近年のことである。だからこそ「ぶら下げなし・行末空けず」と「強制ぶら下げ、ひっぱりぶら下げ」として,私はかねてから,また藤田さんとは別の立場から“単一行末揃えの原則”を強く提起しつづけてきたのである。
 にもかかわらず議論が進まず,どちらかというと感情論になってしまうのはなぜだろうか。とりあえずテーマだけ整理しておくと次の3点に要約できると考える。

1.折り返し改行(メカニックな改行)および行末を揃えることの意味

行末の諸相についての同じ組見本を見てどちらが行末のラインが揃っているかということについての感じ方が人によりちがうのか。ちがうとすれば,それはどのような「慣れ」や「なじみ」,すなわち読書の歴史的経験のどのようなちがいに起因するものなのか,ということを検討する必要がある。

2.句読点の意味

これまでの例会でも検討されたとおり,文字言語は音声言語の代用ではないし,「句読点は息継ぎ」(柴田武さん)でもない,と私は考えている。では句読点,約物とは何か,ということになる。読みやすさの土台を,もっぱら和字(漢字と両仮名)の均等な字送りに求める立場からすれば句読点の役割は主に調節弁となるし,主に一貫した強い禁則処理と行末揃えに求める立場からすれば句読点のみでなく和字間を開けたり詰めたりすることと併用され,むしろ句読点の調整量は節度が要求される。こういうことではないだろうか。

3.禁則処理と読むことの意味

読書において,目と脳は組まれた文字列のどこをどう追い,認識しているのか。神部尚武さんは「読みの眼球運動」を「跳躍,停留,逆行,行かえ」の4つの要素から成ると指摘している。和字間を開けるのがいいとか悪いとかを,行長と調整量との具体的な数値と切り離して論じても何も生まないだろうし,朗読と区別された黙読における文脈の読み取りと組版の姿との関係の検討については,まだまだ大いに検討の余地がある。
 いずれにしても句読点研究は緒に就いたばかりである。
感想

本田知亮
(plain corporation)
私はずっと理科系畑でやってきたもので,このような人文系的側面が強い集まりに参加させていただくのは初めてでした。前回までの内容をみても「デリダって誰?」(実は今もよく分かっていません)とかの状態で,これは場違いかなぁと思ってましたが,実際はそういうこともなく,Marcov chainで句読点の出現を考えるという渡辺さんの「予習レポート」のアイデアに驚愕しつつ,いろいろ楽しませて(考えさせて)いただきました。
 「和文間を調整に積極的に使う」という藤田先生のご提案に関して,いろいろ意見がありましたが,私はこの提案に,調整の程度の問題はありますが,基本的に賛成です。私は普段は横組の外国語のカタカナ表記が多い理工系書籍を扱うことが多いので,句読点は勿論,拗促音の禁則もかなり気にします。ベタ組をすることで,拗促音,音引きの禁則が乱れているもの(最近の雑誌には多いですね)は,私にとっては読みにくいです。読む立場から見ると,文字が縦横綺麗に揃っていることよりも,禁則が乱れている方が読みにくいのではないでしょうか。和文間を調整に使えば,句読点のみならず,他の禁則も実現しやすくはなります。(英単語の各文字間を妙にあけて調整しているのも見かけますが,これはあまりに読みにくすぎると思いませんか?)
 和文での縦横揃いはいわばグローバルな形式で,確かに美しいのですが,一般的な人が本(文書)を読む際はローカルに見るのではないでしょうか。ローカルに見た場合,いきなり音引きが離れたところにあると読みにくい,そのためにもこの調整を許容した方がよいのではないかと。また,ぶら下げのあり・なしはともかく,行末での句読点の振る舞いを統一することに関しては全面的に賛成です。行末に「。(半角アキ)」があると,私もどうしてもそこで改段落しているように見えてしまうのです。この(微小であるべき)調整を許容することで統一しやすくなって読みやすくなるのであれば,よいことではなかろうかと考えます。
 ただ,私自身は普段ほとんど縦組をすることがないので,どうしても横組のイメージで考えてしまいます。ずれたことを書いているのではという思いもありますが,ご寛容ください。
 果たして,縦組を実際にするとなるとどう対処するのか……,自分でも決めかねている面があります。しかし,どう対処するにも,こういう会にでなければ,意識して考えることもなかったかもしれないので,大変勉強になりました。ありがとうございました。
《資料/当日発表された予習レポート》

「ぶら下げ」が損なうものと救うもの

渡辺慎太郎
(一橋大学経済学部)

■伝統の功徳と弊害

縦組組版で伝統的に用いられてきた「ぶら下げ」という行末処理法には,調整箇所が少なくなるという末梢的な利点しかないのだろうか。ぶら下げが組版の本質部分に与える影響は皆無なのだろうか。
 ぶら下げがもらたす弊害については,藤田先生がすでに詳述されている。かんたんにまとめると,(a)行末処理のアルゴリズムが単一ではなくなる,(b)版面の下部が守られない(下にはみ出す),という2点がある。では,利点には何があるだろう。
私は,ぶら下げが組版の本質にもらたす利点として,(1)句読点が版面上部に集中することを防ぐこと,(2)文字間の過度な変化を防ぐこと,の2点があげられると考えている。以下に概略を述べよう。
 まず(1)について,ぶら下げを採用せずにすべて追い出しを行なうとき,句読点が行頭2文字目に集中する可能性のあることを指摘する。ついで(2)に関し,追い出し・追い込みの同時採用が文字間を強く変えてしまうことに触れ,欠点(b)について考察する。最後に,TeXの罰点方式が上の問題を総合的に解決しうると主張する。

■かんたんな思考実験

ものすごく単純な組版思考実験を行なってみよう。いま,句読点が出現する確率変数をXとし,Xが独立・同一の二項分布に従っているとする。生起確率は0.1としよう。つまり,平均して10文字に1文字の割合で句点か読点が出てくる。
 もちろん,これはかなり粗っぽい話だ。上の仮定だと,連続して句読点が出てくることも0.01の確率で起こってしまう。また,ほんとうに句読点が均一に分散しているかどうかはわからない。しかし,とっかかりなので許してほしい。いずれ,マルコフ連鎖を使ったまともなモデルを作成する予定だ。
 たとえばある組版において,任意のi行j文字目が句読点である確率は,先ほど仮定したとおり0.1だ。言うまでもなく,行頭にも同じ確率で句読点が出現する。
 ところが,私たちには「行頭に句読点を置いてはいけない」という組版規則があった。したがって,行頭に句読点がきたときには,その句読点を前の行の最後に配置する(「ぶら下げ」または「追い込み」)か,前の行の最終文字を借りてきて句読点を2文字目にするか(「追い出し」)しなくてはならない。
 このような事態で,「常に追い出し処理をする」という組版ルールを採用すると,どうなるだろうか?
 答は,先頭から2文字目に句読点が配置される確率が2倍になる。なぜなら,もともとその場所に句読点が配置される確率が0.1あったところに加えて,行頭に句読点がきたときには2文字目に移すので,その確率0.1も加えなくてはならないからだ。行頭から2文字目は,縦組においては行頭についで目立つ場所である。そこに句読点がいつもの2倍の頻度で出てくるのは見苦しくないだろうか。
 さらに興味深いことが推測できる。前から2文字目が句読点になってしまう行が連続することがあるだろう。こんな具合に――
る。ところが……
て,彼はその……
このような現象はいっそう見苦しいが,藤田先生は和文組版の「宿命」だと述べておられる。宿命が先頭から2文字目に発生する確率は,ぶら下げや追い込みを行なう場合0.1×0.1=0.01となる。ところが追い出しルールを採用すれば,この確率は0.2×0.2=0.04となり,一挙に4倍になる。500行の文章なら,平均して20行が宿命を背負わなくてはならない。この「痛み」は,存外大きいのではないか。まとめよう。追い出しルールを採用すれば,先頭から2文字目に句読点が配置される確率は2倍に,そのような行が連続する確率は4倍になる。

■実例

お前の言いたいことはわかった。しかしそれは机上論ではないか。実際の組みではどうなるんだ――という指摘もあるだろう。ぶら下げが行なわれていない書物を見出すのは,殊に文芸書では難しいが,幸いにも藤田先生は自らの手で夏目漱石「坊ちゃん」を組んでおられる。その例を使ってみよう。
 「坊ちゃん」に含まれている全角文字は,ぜんぶで8065文字だ。そのうち句読点は456文字。句読点の出現頻度は,およそ0.05である。漱石は一句読の長い作家として有名だから,こんなものだろう。また,組みかたは1行37文字で,1ページが40行である。組まれているのは6ページ分だ。ぶら下げはなされていないが,行頭禁則の回避には「追い込み」「追い出し」のどちらも使用されている。
 さて,先頭から2文字目に句読点はいくら現われるのが妥当だろうか。句読点均一分布の仮定をおくと,任意のj文字目に456÷37=12.3個の句読点があるのが平均的だといえる。したがって,追い出しルールを採用したときには,2倍の24.6個の句読点が先頭から2文字目に出現するであろう。実際,この組みでの出現度数は21だった。
 もうひとつ,先頭から2文字目に句読点が現われる行が連続する確率は,追い出しルール時には0.1×0.1=0.01になる。平均して240×0.01=2.4カ所ある計算だ。実際には3カ所見つかった。
 以上のように,かんたんな思考実験は実際の例からそれほど乖離していないことがわかる。しかし,追い出しルールの組版結果は実際にはもっと都合が悪い。というのは,追い出すことによって文字のアキが変わるからだ。アキの変化によって,行の中央付近は文字が横に(横組みの場合には縦に)並ぶ機会が減る。4分くらいずれていることで,句読点が横に並んでいる印象はだいぶ薄らぐ。ところが前から2文字目では,アキの蓄積は1文字分しかないため,ほとんどの行で横にそろうことになる。そのため,いっそう句読点が行頭2文字目に集中しているように見えてしまうのだ。

■伸ばすことと詰めること

上で述べた問題は,基本的には追い出し処理を行なったときに生じるものだ。ならば,追い込みに統一すればよいのではないか。たしかにそうである。しかし,現実には,追い込み一辺倒の実現は困難だろう。
 たとえば括弧と句読点が並んだとき,詰めだけで対処すると,かなり窮屈になる。また,伸ばすことにくらべると,詰めることのほうが可読性に与える影響が大きいのではないかと感じる。実際,特に大仮名の書体で詰められると,読む身にとっては視線を移動させづらい。
 そのような理由から,おそらくぶら下げを採用しない場合には,追い出しと追い込みとが同時に用いられることになるだろう。TeXでもそうである。単一行末揃えの原則は,一般に句読点の行頭禁則処理を複数化させる。
 どちらかといえば,文字間が一定であるほうが視線の移動は楽である。私たちは全角基準に慣らされてきた。そしてぶら下げは,禁則処理を行なったときに文字間の狂いを抑える方向にはたらく。ところが追い出し・追い込みの同時採用を行なうと,追い出し・追い込みの片方を採用した場合にくらべ,より大きく文字間が変わる。ある行では伸びていて,別の行では詰まっている――そのような行が連続してしまうのは,できれば避けたくないだろうか。

■天と地と

私はずっと横でばかり組んできており,実はTeXを使って縦に組んだ経験はいちどもなかった。TeXはデフォルトでぶら下げをしないが,横組みにおいてはそれほど気にならなかった。ところが,縦でぶら下げをしていないものは,気になる。
 このように感じる原因は,横組みの行頭・行末は左右だが,縦組のそれらは天地にあたるからだと考えている。左右の概念をもたない言語はこの世に1/3ほどあるそうだが,天地の概念をもたない言語は存在しない。天地のあいだには重力が存在するからだろうか。
 その点を考慮に入れて組版に立ち戻ろう。版面において,天地左右を重要な順に並べるとしたら,どうなるか。和文組版の伝統を見るかぎり,天>左右>地であるように私には見受けられる。すなわち,天と地とでは天が圧倒的に重要視されている。
 版面の天から文字がはみ出すことは,けっして許されない。そもそも句読点のぶら下げや追い込みといった行末処理は,版面の天に句読点が位置するという不体裁を阻止することに端を発しているのだ。
 天にくらべると,左右の版面を守ることに関しては,多少ゆるやかになる。藤田先生が実現なさっているとおり,ルビや返り点などは版面からはみ出して行間を守るほうが一般的である。そして伝統的なぶら下げは,版面の地が重要でないことを利用して文字間を守る役割をはたしているのである。ぶら下げを排して版面の地を守ることもひとつの考えではあるが,それにともなう犠牲の大きさを考えると,安易に捨て去ってしまってよいものかと躊躇してしまう。

■罰点方式と広域調整

私がpLaTeXを使いはじめたのは大学1年の春で,教則本として使用した書籍は藤田先生の『LaTeX2ε階梯』だった。その後も先生の書籍を買い求め,割り注など数多くのすばらしいマクロパッケージに感嘆している。
 ところで,私がTEXの処理方法で最もすばらしいと感じているのは,罰点方式による広域調整だ。罰点方式による最適化のいいところは,すべてのルールが普遍化できる点である。むかし習った英文法のように,ルールのほかに例外が満載だったりすると,たしかにばつが悪い。それを「例外のないルールはない」などとうそぶくよりは,すべてのルールが合理的だと認めたあとで,それぞれの最適値を推測して妥協をはかるほうが建設的だろう。
 句読点の罰点方式を調整すれば,上にかかげた問題は総合的に解決できるはずである。たとえば行頭に句読点がくるのは論外だから法外な罰点とし(これは現在でもそうなっている),行頭から2行目に句読点がくるのは,やや見苦しいが妥協できるということで上の1/10ていどの罰点にする。以下,3文字目はその1/100の罰点――というような方式も可能だろう。同様に文字間についても,単に伸び縮みの許容範囲を指定するだけでなく,単調増加の関数を考えて罰点を定めればよい。
 以上のような広域調整を行なう際,ぶら下げもオプションのひとつとしてとっておくほうが望ましいのではないか。私の考えを端的に述べると,上のようになる。
《読者からのおたより》

往信 : 句読点についてお教え下さい

渡辺一玄
句読点研究会 前田様

突然メールで失礼いたします

句読点についてWebを検索したところ貴研究会を知りました
最近 句読点について周辺の人と意見が合わないことがあり実際のところはどうなのか ご意見をお聞かせ願えませんでしょうか

1.カンマ(,)・ピリオド(.)か テン(、)・マル(。)か

高校性の時 国語の授業で「横書きの時はカンマ・ピリオドを使い縦書きの時はテン・マルを使う
嘘だと思ったら教科書を見てみなさい」と教わりました
確かにその通りで今まで気がつかなかった自分に悔しい思いをしたことが25年ほどたった今でも鮮烈に憶えています
以来 横書きの文章の句読点はカンマ・ピリオドを使用しているのですが「カンマ・ピリオドは欧文の記号だから日本語はテン・マルを使うべきだ」と強く主張されることがあります
確かに最近は横書きでもテン・マルを使用している例を多く見ます(最近の教科書はどうなんでしょうか?)
高校の授業の説明では「テン・マルの活字は原稿用紙のマスメの右上に位置しておりカンマ・ピリオドの活字は左下に位置している」というのが縦書き・横書きの使い分けの理由でしたがやはり四半世紀も経てばその辺の事情はだいぶ変わっているのでしょうか

貴研究会のHPはカンマ・マルが基本のようですがやはりピリオドだとカンマと紛らわしいからなのでしょうか

2.手紙における句読点

最近(たぶんここ2〜3年のうち)何かで(おそらく朝日新聞)「本来 句読点とは読むための息継ぎの場所を示すものであるから手紙などでは読み手に息継ぎを指図する句読点はつけないのが礼儀である」ということを読んだ記憶があります
この主張には一理あると思い 以来 メールでも原則としてカンマ・ピリオドは使用しないように心掛けています
しかしながら 同調してくれる人が周辺に一人もいないというのも淋しいもので啓蒙しようにも出典があやふやなので説得力に欠けています
上記のような主張に心当たりはございませんでしょうか?

貴研究会の第6回例会はまさに私の疑問に応えていただけそうなのですが残念ながら時間の都合がつきません

誠に勝手なお願いではありますが何かの折りにご意見をお知らせ下さりますようお願いいたします
返信 : Re: 句読点についてお教え下さい

前田年昭
渡辺 一玄さま

メール拝受いたしました。
研究会のページにお立ちよりいただき、ありがとうございました。

> 最近 句読点について周辺の人と意見が合わないことがあり
> 実際のところはどうなのか ご意見をお聞かせ願えませんでしょうか

ときどき未知の方からお問い合わせをいただくのですが、「うつりゆくこそ ことばなれ」という言語観からすれば何が「正しい」のかという意見を述べることはでき得ないと考えています。

> 1.カンマ(,)・ピリオド(.)か テン(、)・マル(。)か

横書きでは「,。」「,.」「、。」があります。日本の国語政策(あくまで、現在の!ですが)では、公用文の書き方もJISも「,。」を中心にしています。詳しくは文部省編「国語の書き表わし方」1950他を参照。

> 貴研究会のHPはカンマ・マルが基本のようですが
> やはりピリオドだとカンマと紛らわしいからなのでしょうか

現状の日本の文字デザインでは、という限定付きですが、句点という大きな区切りを示す記号がピリオドだとコンマよりも目立たなくなってしまうからです。

> 2.手紙における句読点
【中略】
> 上記のような主張に心当たりはございませんでしょうか?

冒頭に申し上げたように「うつりゆくこそ ことばなれ」ですから、どのようにするべきだということを歴史と文脈とからはなれたところで論じることは適当ではない、と私はかんがえています。手紙や賞状などはひと時代前の形式(あいまいな言い方ですが)が保存されている側面が強いので、句読点をあまり使わないこともあります。
またそういう種類の文書は筆で書かれることがいまだ多いということも介在しているでしょう。
歴史と文脈、書字の技術(手書き/活字)、慣れとなじみ、などを含めて研究、検討なさってはいかがでしょうか。

> 貴研究会の第6回例会はまさに私の疑問に応えていただけそうなのですが
> 残念ながら時間の都合がつきません

それはほんとうに残念です。
私などとちがって編集や校正、辞書史、組版、デザインなどに“うるさい”参加者からもっと役に立つ示唆が得られるのではないか、と確信します。

ご参加をお待ち申し上げます。
とり急ぎのご返事まで。

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句読点研究会連絡係・前田年昭
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