句読点研究会ニュース
第2号




2001年7月1日発行

発行=句読点研究会
世話人=郡淳一郎、田中栞、前田年昭

エクリチュールとしての句読点から「代補」としての句読点へ

第2回例会(6月10日,涵徳亭)報告


第2回例会は6月10日,小石川後楽園・涵徳亭において「エクリチュールとしての句読点――デリダの議論から」というテーマで松葉祥一さん(神戸市看護大)からの報告をうけ,論議した。
松葉さんは,娘さんが小学校の国語教育でテンを「うん」,マルを「うんうん」とそれぞれ教わってくるという話を導入に,松葉さん自身による本邦初訳のジャック・デリダ『論文の時――句読点』(1980)を手がかりにデリダの著作を「第1期=現象学,第2期=散種,第3期=哲学教育とイェール学派の形成,第4期=法と正義,第5期=政治的デリダ」と概観したうえで第1期と第2期におけるエクリチュール論をたどり,そこから句読点について考えてみるというものであった。現象学とマルクス主義とをむすびつけようとしたデリダは第1期に句読点をエクリチュールとしてとらえるという立場からロゴス中心主義を批判,それを理論的に深化させた第2期に導入した「代補」という概念による「音声言語の代補としての文字言語」という視点は,音声言語が始源だとの主張に対し文字言語を対置してただ逆転させるのではなく,句読点や括弧,余白などがそれなしには本文が成り立たないという意味で、本文と同等の資格をもった代補(=本物にとってかわる可能性をもった代役)としたわけである。
参加者は文字どおり単線構造のテキストでなく組版された,松葉さん持参の『弔鐘(グラ)』(1974)原書のコピーをかこんで活発に質疑と討論をおこなった。
――文中の『アポストロフ』はどのような意味か?
「前と後ろとをつなぐとともに切り離す,連結器のようなもの」
――編集者として読者の解釈を一義的にしばる本はよくないと考えているが,デリダの言葉は逆説的に読者をしばるのではないか?
「両義性を認めよとポジティブに言っている。けっして相対主義ではない」
――著作年表の中の「/」はどういう意味か?
「どちらからでも読んでくれという意味でデリダは回転扉だと言っている」
――フランス語原文の符号は翻訳でどうするか?
「ギュメは二重山括弧に,ハイフンは全角ドリの二分二重ダーシに,大文字は山括弧付きに,イタリックは傍点に,それぞれ置き換え,訳者の補足は亀甲括弧の中に入れている」
――デリダが括弧に持たせている意味は?
「つかんでとりだす効果であり,私のものと主張すること(我有化)である」
(ま)


句読点の可能性は汲み尽くされていない

五十嵐茂
(編集者)
初めて参加させていただく。でも,デリダを論議するという。句読点とデリダ? ??状態のまま小石川後楽園へ。20分前に着いたので園内散歩。そういえば,初めて就職した出版社の人たちと来て以来,五十有数年のわが人生で二回目だなあ,最初のが読点だったとすると今日は句点を打つことなのかなあ,それとももう一つの読点になるのかなあ,などと埒もないことを考えながら会場へ。松葉先生の前振りを聞いたら,テキスト「句読点――論文の時」も句読点を論じたのでなく,人生の区切りの意味で付けたタイトルだということで,心のなかで,ふふ,と笑ってしまった。もちろん,デリダは偉大だ。直接論じなくても,編集者の仕事の句読点をぐりぐりえぐる,仕掛けをちゃんと用意していることはよーくわかった。松葉先生のレクチャーを聴きながら,テキストにぎっしりと書き込んだ私の赤字を見ると一目瞭然だ。「空白をレイアウトする編集作業のある種の恐ろしさ」とか「テキストから《 》がひきはがすもの」などの言葉が頭のなかに踊っていたらしい。句読点の可能性は汲み尽くされていないなあ,という確信が生じたことは収穫であった。
第2回句読点研究会で考えたこと

鈴木一誌
(ブックデザイナー)
〈句読点〉という観点による,と生硬に言うよりは,〈句読点〉の磁力に包まれた場で,松葉祥一によって語られたジャック・デリダ像は,弾道のようには単純ではないがすばらしいシュートを見るようなドライブ感にあふれるものだった。そこでトレースされたデリダの軌跡については,いろいろに語れようし,また語らなければならないが,印象を人生論風に記せば,やるべきことをやっているな,という感嘆だった。「やるべきこと」とは,すでに私のなかにいくつかの点が配置されてありそこを巧妙にかつ果敢に辿るのを眺めて言っているのではなく,デリダが一歩を進めることが必然的に「やるべきこと」を喚起していく精密さを指している。人生論風に受けとめたくなったのは,時系列に沿って語られたせいもあるが,一歩が「やるべきこと」を生みだしていく過程は,「やるべきこと」がはじめの一歩を歓待しているようであり,松葉は,時間のなかで逆流するデリダをわたしに伝えた。
逆流するデリダは,わたしに「やるべきこと」をやっているのか,と問う。自分の足元を見たとき,もっぱら西欧文についての考察であるデリダの論考を,どの程度,日本文に適用してよいのかを考えざるをえない。グーテンベルクの事例は,どうしたら日本の書物に当てはまるのか。即座には結論が出ない問題だろう。そこでわたしたちは,たとえばフランス語の約物は日本語組版に置き換えられるのかという,手近で着実なテーマにまず取りかかることになるだろう。大きな問題と微細な問題に引き裂かれることになる。
句読点は,基底材なのではないか,と思う。基底材とは,文字や絵画を下方から支える紙や布のことだととりあえず理解しておく。デリダは,「基底材」は,「作品の唯一の肉体」であり,それは「反復されえぬもの」だと書く(『基底材を猛り狂わせる』松浦寿輝訳,一九九九年,みすず書房)。句読点が,意味の連なりの「肉体」であるとしたら,それは「反復されえぬもの」なのだから,わたしたちが自身で考えざるをえないことになる。大きな問題と微細な問題は,わたし自身を回廊にして垂直に連絡するのだ。同じ本でデリダはこう書く。「基底材――それ自体,二つの場の間にあるものだ」
松葉祥一さんとの往復メール

田中栞
(校正者)
松葉祥一様
昨日は,大変面白いお話をありがとうございました。白状しますと,私は実際にお話をお伺いするまで,不安のかたまりでした。世話人になってしまった手前,欠席は許されないだろうし,だから一応,行くには行くけれども,聞いてもまずまったく理解できずに,苦痛に耐える4時間だろうなあ,と想像していたのです。
私は,大学では近世江戸文学を専攻しました。在学中の4年間,「哲学」と「西洋史」については,絶対に理解できまいという理由から,全面的に避けて通ってきた人間です。ですから,松葉さんのお話を伺っても,理解することはおそらく不可能だろうと諦めていた,というところがあります。しかし,飯田橋駅へお迎えに上がり,涵徳亭までの道すがらのお話しぶりに接していて,「これはひょっとすると,少しは(私にも)わかるような話をしてくださる方かもしれない」と感じました。
お恥ずかしいことですが,実際,驚きました。基礎知識ゼロの私が,なんと「聞いていて面白い!」。面白いということは,(もちろん,充分とは「ほど遠い」にしても,多少は)わかったということです。あのレジユメを拝見した時,今回は具体的な話題は一切出ないで,いわゆる禅問答みたいな言葉が飛び交うだけなのだろうと思っていましたが,嬉しいことに予想は裏切られ,とても親しみやすい内容でした。たとえば,これまでは思ってもみなかったような,「代補」というような言葉は非常に新鮮でした。「補う」ということは,補われるべき「欠如」があるからだ……言われてみればその通りです。こういう表現で句読点の大切さを表現するなんて,デリダってなんてお洒落なんでしょう!(門外漢の感心は,所詮こんなレベルであります) フランス語表記における約物の組み方や名称についても,今後の仕事に大いに役立つ情報満載でした。しっかりノートしました。自分からは絶対に踏み込まないであろう世界でしたが,昨日のお話で興味を持つことができ,世界がひとつ広がったという満足感を得ました。前田・郡両氏のような高度なリアクションはできなくて当然ですが,ほんの少しでもお話に加われたことを,とても喜ばしく感じています。ただ,こうして松葉さんのお話をお聞きすることができた私は幸運でしたが,当初の私のように「どうせ聞いてもわからん」と感じて欠席してしまった方々には,世話人の一人としては申し訳ないことをした,という気持ちがあります。こんなに良いお話だということを,事前に伝えることができなかったのは残念でなりません。これは今後,例会案内文を作成する折の重要な課題として,心に留めておきたいと思います。どうもありがとうございました。御礼まで。 田中栞

田中栞様
丁重なメール,深謝いたします。こちらこそ,ご招待いただき有り難うございました。「わかった」とおっしゃっていただけることが,小生にとっては何よりうれしいことです。有り難うございました。小生の方も,お引き受けはしたものの,あまり準備の時間もなく,わかっていただけるような話しができるかどうか,少々不安でした。今後とも是非よろしくお願いいたします。以上,取り急ぎ心よりのお礼まで。 松葉祥一

Jump to

[HOME]
ご意見をお待ちしております。 電子メールにてお寄せください。
句読点研究会連絡係・前田年昭
[E-mail] tmaeda@linelabo.com