第8回例会の感想




2004年8月

太等信行


第8回例会の感想ですが,もうかなり経ちましたので,細かいことは覚えていません。ただ,楽しい例会であったという印象はあります。司会の不手際はお許しください。
何事も,深く追究してこられた方の話というものは,聴く価値のあるものです。屋名池先生の横書き論考は前田さんから『図書』の掲載ページがファックスで送られてきて知りました。それで,岩波書店で全連載分の『図書』を購入し読みました。「文字表記」という観点からも,この先生からは是非お話を聴かねば,と思いました。それで,会員諸氏にコピーを送付した次第です。
ちょうど,私の住んでいる三鷹は屋名池先生の職場である東京女子大学に近いので,研究室にでも伺おうと電話をしたところ,三鷹の牟礼キャンパスには学部は残っていないとのことで,おまけに研究休暇中とのこと,連絡がつくまでにかなり時間を要しました。ともかくも,好意的に例会への参加を引き受けて下さったのは嬉しい限りです。
「横書き」が日本語表記の歴史上,革命的な変化であるにもかかわらず,これまでさしたる研究がなされてこなかったことのほうが不思議です。国語学や文学史の研究が,表記という形式よりも,記述された内容に偏重していることが分かります。

「流線横書き」は文字の擬人化である さて,私は現在『字幕』をテーマにいろいろ取材しているのですが,研究会のホームページに載せていただいている『街角の句読点』や,現在準備している『街角の横書き』などにも通底するものがあることが分かりました。つまり,文字は個人的に読まれるものと,公共的に読まれるものとがあるということです。そして,これまで日本語の文字表記・表現といっているものは,つまるところ書籍・雑誌・新聞・手紙・日記など,個人的に読まれるものを対象にしているということです。私は『街角』シリーズの経験から,公共的文字表現においては個人的文字表現とは異なる法則性があるのでは,と思うようになりました。『横書き登場』でいえば「第13章 走る横書き」の「先頭からの横書き」という部分です。私は三鷹・吉祥寺周辺の街角の看板や貼り紙などを撮影し,それを分類したのですが,右横書きの看板は老舗の「うどんや」のものだけでした。街角から右横書きは完全に駆逐されてしまっています(個人的文字表現ではとっくの昔に駆逐されている)。ところが,自動車の右側面の表記だけには「右横書き」(私は「流線横書き」と呼んでいる)が存続しているのです。これは三崎漁港の漁船においても確認できました。
屋名池氏は「人間を見れば一番最初に顔に目がゆく。乗り物でも視線はまず先頭へ誘導されるから,そこに行のはじめがあれば読みやすいという事情もはたらいていたかも知れない」(110ページ)と推測されているが,これには異議があります。
乗り物に表記された文字を「読みやすくするため」ならば,現在では右横書きに不慣れな人たちにとって「読みにくい」ものであるはずです。しかし,トラックやタクシーでかなりの比率で右側面の右横書きが現在でも採用されている(特に個人タクシーでは90%以上が「流線横書き」を採用している)ことと矛盾しているのではないでしょうか。
また,『横書き登場』には掲載されなかった『図書』の連載の中で「絵馬」の例が紹介されています(例会では掲載された『図書』が配布された)。この絵馬は私のふるさと飛騨高山の松倉馬頭さまの絵馬で(ちなみに私は松倉中学校の出身),描かれた馬は玄関の入り口を向いていなければならず,玄関が左にあれば馬の上に「奉納」と書かれ,右にあれば「納奉」と書かれるという例が紹介されています。
この絵馬の横書きと交通手段における「流線横書き」は同じ原理に基づいているのではないでしょうか。
私が推測するのは「文字の擬人化」です。馬もまた古来交通手段でした。「人馬一体」ということばがありますが,自動車も漁船もこれに乗る持ち主にとって,自分と運命を共にする大切な存在であると考えられないでしょうか。
文字もまた「書は人なり」ということばがあるように,極めて擬人的に捉えられているものです。特に会社名や船名などの表記に「流線横書き」が採用されていることを考えると,文字もまた人や車・船と一体となって,進行方向に立ち向かっているものと考えられているのではないでしょうか。
私はまた,右翼の街宣車も取材しました。90%以上の街宣車が「流線横書き」を採用していました。これも「打倒!日教組」などというスローガンが,あたかも自分たちといっしょに前方に叫ぶかのように擬人化されているからではないでしょうか。

右横書きか左横書きかはゲシュタルト・チェンジの問題 世界には右横書きで記述する言語があり,とくにアラビア語,ヘブライ語などは使用している人口が億単位で存在しているのですから無視できません。これら右横書きをする言語にあっては,欧米の左横書きの文明の輸入もあるわけで,その場合は右横書きと左横書きを使い分けていると考えられます。しかし,これは意外と困難ではないことなのかも知れません。
私たちの網膜に映し出された像は倒立しているのですが,私たちはそれをまったく意識しません。「逆さ眼鏡」というものがあって,その眼鏡をかけると見るもの全てが180度倒立して見えるのです。また,「左右反転眼鏡」というものもあって,これは文字通り左右が逆になります。どちらも,かけはじめた当座は迷い,悩むのですが,一週間くらい装着しつづけると何ら支障なく生活できるようになります。この反転眼鏡を外すと,今度はまた迷いはじめ,慣れるまで時間を要します。
これらの現象は何を意味するのでしょうか。これらの現象は「知覚体制の可塑性」の例として研究されてきました。
私たちは個々の文字を認識する以前に,文章やパラグラフ単位での認知があるのであって,つまり書字方向というゲシュタルトが個々の文字の認識に先行しているのです。
アメリカやヨーロッパのユダヤ人は,左横書きで新聞を読み,右横書きでタルムードを読むことにそれほどの苦痛はないと考えられるのです。
府川氏が「d-SIGN」で示した右横書きの文章は,左横書きで馴致された私たちにとって「驚異的」なものでしたが,こうした右横書きの文章を一週間も読み続ければ,違和感なく読めるようになる筈です。
私たち日本人が現在,縦書きと左横書きを自由に使い分けているのも,書字方向というゲシュタルトのなせる技です。
日本は明治維新以来,入欧脱亜の国是で進んできたのであり,曲折はあったものの欧米と同じ左横書きを標準横書きとすることを選択したのは自然な流れであり,また幸運なことでした。戦時中に見られたような右横書きの強制・奨励というようなことが強大な政治権力によって進められたとしても,私たちはきっとそれに慣れて,縦書き・右横書き・左横書きを自在に駆使できる稀有な民族となっていたことでしょう。



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句読点研究会連絡係・前田年昭
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