1996年12月,「日本語の文字と組版を考える会」は活動を開始した。始まりは,デザイナー・鈴木一誌さんの「ページネーション・マニュアル」の提案である。その提案を「セミナー開催という行動」や「考える会という組織」に具体化したのは私たち世話人であり,毎回熱心に参加している200人を超える人びとである。世話人の杏橋達麿,逆井克己,柴田忠男,向井祐一の各氏と私の5人はページネーションにかかわってはいても職種も出身もちがうが,提案された「ページネーション・マニュアル」の新しさと実践性,さらに公開の精神への共鳴という1点で共同して集まり,「勝手に」活動を始めた。
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活動の趣旨と経緯
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1997年2月には笠井享さんを迎え画像の扱いについての提起をうけ,4月には府川充男さんと聚珍社による自動組版の実演,および和文活字書体史の講演をうけた。6月22日には,出版や印刷,写植,出力,校正などの各スピーカーからの話をたたき台にしてワークフローについての論議の予定だ。1周年の1997年12月には「ページネーション・マニュアル」のとりあえずのまとめを出せれば,と考えている。
文字と組版というフィールド自体,基盤とするアーキテクチャーの変化につれて変わる。従来の組版という概念は活版や写植を基盤にしたものであるが,DTPについては,さまざまなデータの交換から画像のコントロール,さらにデジタルパブリッシングまでをも含む作業範囲を扱うものとして,つまりDTPをデスクトップパブリッシングではなくいわばデスクトップページネーションとしてとらえ,日本語というおおもとの特質に立ち返って考えてみたい。デザインから編集,文字組版,製版,印刷にいたる広くページネーションにかかわる人びとの,現場で日々ぶつかるさまざまな問題をとりあげ,役立つ情報を共有していきたい。このような趣旨で考える会は生まれた。
さらにもうひとつ,私たちの心をとらえたのは,情報を公開する技術という鈴木さんの提案だった。1996年12月12日の第1回の公開セミナーで鈴木一誌さんは次のように述べている。
【ページネーションとは,さらに言い換えれば情報を公開する技術です。情報というのは厚生省の書棚の中に薬害エイズの書類があったままでは情報にならないので,やはり誰かが勇気をもって公開したことによって情報になったと思うんです。たとえば,必要なところだけを抜き書きして公開するという方法もあったと思うし,そうでなくファイルのまま生で出してしまうという公開方法をとったわけですが,そのように情報をどう公開するかには技術が必要になる。
われわれの携わっているのは,情報を公開する技術にほかならない。マニュアルというのは,その情報を公開する技術を実現させるための技術に関わっていると思う。だから,マニュアルそのものも公開されなくてはいけないし,公開されるに値するものでなければいけない。……(中略)……おだやかな組版ルールへの適応と,過激な組版ルールへの適応とがあって,組版ルールがわかっているからこそ越えてはいけない一線あ見える。これらの書物は,その一線との戯れ方を見せている。つまり,組版ルールとは,ある種の法律みたいに人々を不自由にするのではなく,自由にする場そのものになりうるのではないかと思います。組版ルールを積極的に捉えてみたいというのが,マニュアルを作ったもうひとつの動機ですね】(1996年12月,『会報』第1号,p.4)
ページネーションにおける業態の変化は急激である。人の問題を抜きに“DTPは文字から画像まですべてを処理できる”との幻想と信仰が幅をきかせているが,「何でもできる」という言葉は「何にもできない」という現実を覆い隠すいちじくの葉っぱだ。異体字を知らないデザイナーが文字を入力し,製版を知らないオペレーターがトーンカーブを補正するという無茶が大手を振ってまかりとおり,日本のDTPは混乱の極みにある。餅は餅屋というではないか。分業はなくすのではなく,新しい分業へと組み変えられるべきなのだ。個々の分野の実践と経験に裏づけられた職人技は,切り捨てるべきでなく,新しいアーキテクチャーのなかに引き継ぎ,発展させていく必要がある。
隣り合う作業者同士が見失ってしまった共通の「言葉」を取り戻そうとするとき,このマニュアルは《橋》になる。レイアウトを指定し,指示する側と,実際のオペレート作業をする側との双方が共通の約束をつくりだし,データの受け渡しなどでの日常的に繰り返される無用の摩擦や対立という無駄をなくしていく,そういう《橋》になるのだ。
公開ページネーション・マニュアル運動は始まったばかりだが,すでにインターネット上ではJPC(URLはhttp://www.jpc.gr.jp/ 1999.7変更につき訂正)やモリサワのホームページから,だれでも最新のページネーション・マニュアルをダウンロードできるようになった。また,東京・新宿のある印刷会社は1997年5月につくった『会社案内』に積極的に自社アレンジ版を掲載し,お客さんとの意思疎通に役立てている。まえがきには【このマニュアルは,グラフィックデザイナーの鈴木一誌氏が「DTP組版のルール」化のために「提唱」しているページネーションマニュアル(略称)で,それをベースに当社の「組版ルール」を加味して,アレンジしたものです】と記されている。
マニュアルもまた,単位,データ受け渡し,本文文字組み,タイトル・見出し・リード,画像・色彩の5項目にわたりバージョンアップを重ねている。追加や変更などの提案や意見は,ファックスや電子メールを通じて続々と寄せられている。日本語デスクトップ・ページネーション・ルールを,個別のハウス・ルールを止揚した日本版「シカゴ・ルール」として作り出せれば,と考えている。
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公開への考え方
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動燃の事故隠し批判をはじめ,「隠蔽」を批判し,公開を促す動きがでてきていることはよいことである。しかし,公開の意味はどこにあるのか。JISやユニコードをめぐる論議をみても,論じようとする相手の文献にすら目を通さず「又聞き」や「憶測」にもとづいた主張も少なくない。JIS批判やユニコード批判の多くがそうだ。「JISは経済効率優先で異体字を切り捨てた」「JISは簡略化したウソ字を創作した」という非難と,「実字形の規定は工業規格にはなじまない」「文字の交換は常に包摂を伴い,包摂こそが伝統的」という反論は,どこまでもスレ違い,議論にすらなっていない。
文字や組版をめぐる技術をどうとらえるか。佐々木力さんが「フォン・ノイマン問題」と名付けている問題(『科学論入門』1996年,岩波新書)が,ここにも存在する。
数学の天才フォン・ノイマンはコンピューターの実現に寄与するとともに原子爆弾製造の理論も解いたが,倫理的・社会的痛みはもたなかったらしい。技術が果たす社会的役割が機能について狭い視野しかもたず,社会的モラルを欠く科学者の問題を,佐々木さんはフォン・ノイマンにちなんでそう名づけている。
もちろん技術を見る立場は多様だ。一方には,善し悪しは目的であって,技術という手段は道具であり罪はないという「道具説」,技術決定論がある。他方には,技術を歴史的・社会的に構成されたもの,目的を内在させた存在であると見る「実体説」がある。私は後者の立場だ。ある哲学者はすでに19世紀に「自然科学は産業を介してますます実践的に人間生活の中に入りこみ,それを改造し,そして人間的解放を準備したのであるが,それだけますます直接的には自然科学は,非人間化を完成させずにはやまなかった」と喝破した。
文字コードの問題について「効率優先で包摂した」などと誰も主張していない。にもかかわらず,相手の主張をそうねじまげ,経済効率優先か伝統保護か,と論点をでっち上げたとき,すでに“経済効率優先という悪”に対する“伝統保護という善”という答えが用意されている。しかし,ここにも人間的と標榜する側がそうではなく,非人間的と非難される側が逆に人間的であるという,パラドックスがある。加藤弘一さんは「技術はどんどん進歩し…ているのだから,もはや選定などせず,存在する限りの文字をコード化すべき」といい,日本文芸家協会・島田雅彦さんは「この世に存在する文字はすべて文字コードに割り当てていこう」といい,朝日新聞AERA・臼倉恒介さんは「米国大手メーカーの決定に,日本の漢字は圧死寸前」という。繰り返されるこれらのウソはやがて「事実」に化け,ことの本質は隠蔽されていく。「効率重視でなく文化の保存」との主張の大御所は東京大学の坂村健さんだ。すべての文字をコード化する,とか,無限に追加登録できる,と得意満面に説明する姿は,コンピュータという道具に支配され視野狭搾になった技術決定論者の姿でしかない。くさかんむりの3画と4画の違いをはじめ1点1画のちがいをおろそかにせず(!)10万字をコード化するというような闇鍋集合がいったいだれのために,何のために役に立つというのか。目的と動機を失った技術ほど危険なものはない。情報社会ではいかに大量のデータを集めるかどうかだなどと称してデータ収集に熱中するコレクターが出現する。しかし情報社会だからこそ,いかに少ないデータで最良の結論を出せるかどうかこそ問われている。
「人間の顔をしたコンピュータ」という甘い囁きはいかにも心地好く耳に入りやすい。しかし,そこには,だれのため,何のため,という問いかけが欠如してはいないだろうか。「必要は発明の母」は「発明は必要の母」へと転倒させられてしまっていないだろうか。「すべての文字のコード化こそ文化保護」という一見もっともらしい言葉が隠蔽してしまっているのは,文字は情報交換用記号であるという本質だ。
ページネーションにおけるコンピュータ化のなかで「熟練の後継者の育成か,熟練の技術のコンピュータ化か」(星野芳郎『インターネットの虚像』1997年,技術と人間),私たちはしっかりと見すえる必要があろう。熟練の手動写植機の職人・筆安雅夫さんから教わった,手動写植機のラチェットの音のちがいで文字の大きさの差を耳で聞き分けるという職人技の話は,コンピュータは人間の熟練を越えることはできるのかと問いかけている。
技術の畸形的「発展」を防ぐためにも,公開の精神と公開の技術が積極的に広められてよいのではないか。
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幅広い意見集約と議論の深化を
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JISは現在,日本規格協会情報技術標準化研究センターのもとで,公開レビューというすばらしい方法をとって標準化作業をすすめている。
1995年10月改正の「JIS X 4051-1995 日本語文書の行組版方法」では,1994年9月から11月末まで公開レビューを実施。組版処理に関係する22人の人びとから合計156件のコメントが寄せられた。1997年1月改正の「JIS X 0208:1997 7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符合化漢字集合」でも,1995年11月から1996年2月まで公開レビューが実施され,33人からコメントが寄せられた。私もコメントしたが,コメントのすべてに対して,検討のうえ回答が返されていることは素晴らしい。にもかかわらず,他方では非常に間違った,かたくなな態度もあることは残念だ。
JISの主査・芝野耕司さんは,最近,パソコン通信のなかで次のように発言している。
【最近出版された書籍,中西秀彦著,晶文社刊,“印刷はどこへ行くのか”の中で……次のような記述があります。……(中略−引用者)……
また,p.97では,「ユニコードは国際標準コードという性格にもかかわらず,実態はアメリカの,それも西海岸のわずか数社のコンピュータのハード・ソフトメーカーが作ったものである。」「それでも,ユニコードの設定にはもうすこし時間をかけて欲しかった。二〇数年前の最初のJISの制定のときにわれわれが居あわせなかったのはしかたがないにしても,ユニコードのときには,より広い国民的議論を引き起こせたはずだ。いまや漢字コードは一情報処理業界だけのものではない。文字文化,漢字文化の未来をになうものといっても過言ではない。この決定に印刷人や出版人がほとんど影響をもちえなかったというより,知らなかったというのは,なにか釈然としない。今度,何か動きがあったら,絶対に見据えてやろうと思っている。」(p.102-103)
と書かれていますが,もうすぐ漢字拡張案ができあがる10646の拡張に対して,この著者の前著を読んで,提案を出してくださいと直接お願いしていますが,断られました。東の精興社さんからは,外字リストを提出していただきましたが,この著者の方の会社からは商売上の資産であるとのことで,断られています。これで,アメリカ西海岸で開発したものを公開している会社を批判できるのでしょうか。
JIS X 0208:1997の公開レビューや新JIS漢字コードについても,きっと見据えておられるのでしょうが,見据えるだけで,行動はなされないようです。……(中略−引用者)……これが現状で,かなり注意深く,電子化データを取り扱わなければ,少なくとも文字や字体やコードの議論はできません。】
文字と組版をめぐる技術もまた力である。技術の政治学がいまほど必要とされているときはない。私は,この社会でようやく根づきつつある公開の精神を大切にし,「ページネーション・マニュアル」を育てていきたいと考えている。
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