オキナワ自身との対話

米軍ヘリの墜落、爆発炎上により沖国大本館は焼け焦げ、プロペラの傷が残った。米軍が機体を搬出後、現場にはフェンスがはられている(撮影・岡本由希子)
米軍ヘリの墜落、爆発炎上により沖国大本館は焼け焦げ、プロペラの傷が残った。米軍が機体を搬出後、現場にはフェンスがはられている(撮影・岡本由希子)


2004年9月

岡本由希子

編集者

比嘉豊光『赤いゴーヤー 比嘉豊光写真集1970〜1972』2004年9月,発行:ゆめあ〜る(〒904-0305沖縄県読谷村都屋436)に収載されたものを許諾を得て転載

 この写真たちは,シマがみている夢である。夢の〈オキナワ〉である。まばたきのうちに捉えられた,シマの姿である。

 これらの写真は,琉球大学写真クラブに入部し初めてカメラを手にした青年が,「復帰」を目前にして揺れ動くシマを彷徨した,その精神の記録である。アメリカ世からヤマトゥ世へ,自らの意志とかかわりなく,あるいは裏腹に,とどめようもなく押し流されてゆくシマの行方への,深い怒りと哀しみを湛え,苛烈な抒情に溢れている。

 写真の大半は,移動する車の助手席から,路線バスの客席から,ノーファインダーで撮られたものだ。構図もピントも放りだし,シャッターを無作為に押した,ブレ,ボケの写真である。従来,写真という表現は膨大な選択の果てに一枚が成立するものであって,撮る対象,カメラの機種,レンズ,フィルム,構図,絞り,ピント,シャッタースピード……シャッターを押すまでにもこれほど様々な瞬時の判断・選択があり,その選択こそが写真および写真家の思想であると言えよう。だが,これらの写真はその選択をしない,できない地点で成り立っていて,さらには,車の助手席も,路線バスの客席も,行く先を決めるのは自分ではないのだ。シートに身をうずめ,窓外を茫然と見やりながら,ファインダーを覗くことなくまばたきのようにシャッターは押されてゆく。

 ノーファインダーは匿名性の思想である,ということができる。ここでは撮る対象は特定されず,撮る主体も被写体に対して受動的である。意志の関与を限りなく零度に近づけながら動きの中に身を任すことになる。ただ,意志の関与のかすかな痕跡があるとすれば,それはシャッターを押す刹那だけである。比嘉の眼はレンズという光学的な眼に委ねられる。(仲里効「ラディカルな〈風景〉の思想」)

 こうした「匿名性」「無作為」ゆえに,これらの写真には写真家の情動の深い場所,その激しさが滲み出て,見る者を強く揺さぶる。意志の関与を限りなくなくしていくことで初めて共振したシマの,意識,姿が,〈風景〉として写り込んでいる。時代と切り結んだところで撮られた,稀有な写真といえるだろう。

  *

 このような写真がなぜ可能となったのか。当時の比嘉豊光について,同時期に沖縄に滞在していた東松照明が『アサヒカメラ』にレポートを残している。「比嘉豊光の写真を通した最も本質的な転換期の沖縄論の一つ」(仲里効)であるこの「沖縄通信」(『朱もどろの華』所収)に即しながら,本写真集の写真が撮られた前後をトレースしてみよう。

 比嘉豊光が大学に入った一九七〇年は,沖縄の日本への「復帰」が現実化していくにつれ,その欺瞞的な内容を露わにしていった時期である。六七年一一月,佐藤・ジョンソン共同声明は,日米両政府が三年以内に返還時期について合意すべき,と発表。六八年四月,基地従業員の組織・全軍労が「十割年休闘争」。同年一一月,初の主席公選実施。同月,嘉手納基地でベトナムへ出撃するB52が離陸に失敗,大爆発事故を起こしたのを受けて「命を守る県民共闘会議」発足,全島ゼネストによる撤去闘争へと盛り上がるが,この「二・四ゼネスト」は,革新主席と労働者代表の回避工作でつぶされ,日本政府主導による「復帰」が決定的となった。四月,返還を睨んで基地労働者の大量解雇がはじまる。六月,全軍労全面ストでピケ隊と米兵が衝突。七月,米軍が基地内に密かに持ち込んでいた毒ガス(サリン,VXガスなど)が漏れる事故発生。一一月,佐藤・ニクソン会談において「七二年返還」が合意される。

 七〇年一月,全軍労の全面ストによる大量解雇撤回闘争。四月,米軍大型機の墜落事故。五月,毒ガス撤去要求県民大会。それまでサロン写真が支配的だったという琉大写真クラブも,時代の波を受けて闘争のルポルタージュ写真が主流になり,比嘉豊光もまた揺れ動く時代の渦中に身を置くこととなる。六月二二日,「安保廃棄・基地撤去要求県民総決起大会」に,那覇軍港でバイトしたお金で買ったアサヒペンタックスを持って撮りにでかけた。その後も全軍労四八時間スト,中曾根防衛庁長官訪沖阻止,国政参加選挙ボイコット,毒ガス兵器即時完全撤去要求,コザ暴動,射撃訓練演習実力阻止……休みなく闘争は続き,そのたびごとに写真クラブの面々は撮影にあたった。「しかし,比嘉さんのカメラは,休みなく起こる出来事の外郭をトレースするにとどまっていた」(『朱もどろの華』)。

 そのような比嘉の写真に転機が訪れる。七一年二月一〇日から四月一五日までの三回に及ぶ全軍労四八時間波状ストの際,比嘉は全軍労牧港青年部に密着,寝食をともにして撮影した。

 全軍労闘争は“展望なき闘い”といわれている。軍雇用員の“基地撤去”要求は,それがもし実現すれば職場を失うという矛盾に満ちているからだ。が,この矛盾こそ,二七年間にわたって米軍支配下に置かれてきた沖縄のあらゆる問題の集約点だった。/基地に囲まれた村で生まれ,軍雇用員の父を通して支払われるドルで育ち,取り上げられた土地の代金によって大学生でありつづける比嘉さんにとって,全軍労の抱える矛盾は自己矛盾とピッタリ重なっていた。“展望なき闘い”は比嘉さん自身の闘いでもあった。(『朱もどろの華』)
 「全軍労ストに加わって,ようやく写真がわかりかけてきた。結局,写真は,闘争の役に立たず,自分のためにだけあるような気がした」(同前)

 以来,六・一七返還協定阻止のため毎日行われるデモに身を投げだし,「デモることと写真を撮ることが不思議と一致した時期」の昂揚を過ごすが,体制ベースの「返還」は微動だにしなかった。この「ついに報われることのない徒労の日々」にあって写真を撮る行為そのものへの疑問を深くくぐり抜け,写真家・比嘉豊光が誕生した,と思う。

 この時期,「復帰」を通して,「沖縄」が,「日本」,「アメリカ」が,その歴史,その関係の矛盾の極みとしての「沖縄戦」が,問われ,捉え返されていった。ベトナムを爆撃するB52は沖縄から飛び立っていく。「我らも抑圧者」――「祖国復帰」から「反戦・反基地」へと闘争はその質を転換していった。「戻るべき〈祖国〉とはどこか」「沖縄とは何か」。同化への違和を梃子に「日本」を相対化し,「沖縄」を掘り下げていくことが,シマに生きる人びとの実存の課題となっていく。比嘉もまた,「沖縄」に向き合うことになる。

 僕らが七〇年を記録するということは,金網があり,ヘルメットがあり,それは復帰闘争だから,いろんなことがある。そこから始まっているから,何を撮ろうがそこにいく。基地の金網を撮ろうが,女を撮ろうが,〈沖縄〉になる。
 復帰の前後に,マスコミとかジャーナリストの撮る沖縄に対して,それは違うんだと,僕なんかは「フザケルナ!」と思っていた。まあ彼らは仕事だからということだけど,何か,納得できるものではなかった。それに対して,自分たちは違うんだということを。そこにあるものをいつも意識しながら,沖縄を記録する。いつも意識に〈沖縄〉というのはあるから。
 結局,「復帰」というのがだんだん見えてくるから。今だから言えるけれど,運動の欺瞞さと,あるいはマスコミ,報道の欺瞞さと。その前から,極端に言えば日本へ還る為に,国政選挙とか,そんなことがたくさんあるわけです。月に何回も全軍労とか,闘争ばっかりやっていた。それをカメラの側から見ていて,いつも〈沖縄〉を考えていた。(「南風の光と言葉」)

 七二年六月二三日から三日間の「琉大写真クラブ」展(琉球新報ホール)では,比嘉の写真二〇〇点あまりで壁の一面が埋められた。会場を訪れた東松は以下のように記述する。

 会場に並べられてある比嘉さんの写真は,明快さを欠いていて,一つとして割り切れるものはなかった。写真の集積はまさに整合と意味づけを拒否した地点で成り立っていた。ばらばらに解体された記号が,投げ出されて,ただそこに在るというだけだ。あれでもなければこれでもない,といった否定のモメントが,切れ切れに伝わってくる。それは,乱雑に語られた沈黙の思想だ。沖縄とは,現実とは,基地とは,闘争とは,大学とは,写真とは何か! 疑問符とは,求めても得られぬ答えの謂だ。(『朱もどろの華』)

 「復帰」への疑問,「闘争」への疑問,「写真」への疑問。しかし比嘉は写真をやめなかった。もしかしたらやめることすら選べなかったのかもしれない。

 カメラを持つから自分があるというのも,自分の存在ではあるよね。カメラがあるからそこにいれる。そこでシャッターを押すから自分が在る,と。(「現場に立つこと,現場に戻すこと」)

 何も選ぶことができず,ただただ運ばれていくなかで,無作為に押すシャッターのみに自分の存在がかろうじて賭けられる。そこまで無力をさらけだし受信に徹した者にこそ,シマはその姿を表し,写し込ませたのではないだろうか。泣きながら,ここではない,「あれでもなければこれでもない」とあてどなく彷徨する青年はしかし同時に,まるでシマの大きな懐に抱きしめられているようなのだ。

 〈原・風景〉としてのシマ。写真にそっと写り込んだ,待つ人,働く人,子供たち,擦過してゆく「あたり前の風景」のひとつひとつが,限りなくいとおしい。

 人びとの労働も闘争も抵抗も,怒り,哀しみ,歓び,幸福もすべて,シマは知っている。疲れこみ身体をこわばらせたままつかの間の休息をとる全軍労のあなた,摩文仁の丘で深々とお辞儀をし祈りを捧げるあなた,黙認耕作地を耕すあなた,基地の歓楽街で働くあなた,ジェラルミンの盾を持つあなたのことも,みな,シマは知っている。このシマがくぐってきた経験が,〈風景〉としてそこにある,あなたがたの姿に映し出されている。「どのような境涯におかれていても,その精神を掘りすすめていくときに突き当たる沖縄人としてのアイデンティティの岩盤」(新川明),その核心であるところの情動という最も微細なものに,これらの写真は,眼に見える形を与えてしまったのだ。

 写真に定着されたシマびとの仕草,何かを「待ち」「運び」「座り込み」「ゆんたくする」身振りに,他所ではあり得なかった独自の過酷な経験を通して鍛えあげられたシマの精神が刻み込まれている。座り込み(伊江島から辺野古まで!),待たれ,運ばれ,語り合われている思い,その願い。希求されている,夢の〈オキナワ〉。

 これらの写真を見たあとではシマを見る眼が変容しているのに気づかされる。「復帰」後三〇年がたち,海洋博,ナナサンマル,二度の国体,SACO,サミット。軍事と経済。資本主義。開発,観光。次から次へ押し寄せる波に洗われ,このシマは変貌してしまったかのように見えるかもしれない。しかし薄皮一枚めくればそこに変わらないシマの姿を認めることができるような,重層する視覚をこれらの写真はもたらしてくれるのだ。

 ためしに,58号線でも330号線でもどこでもいい,バスにゆられてみればよい。横丁の道筋から現れた自転車,日傘をさして歩く人,汗をかき働く人,バス停に座り込む子供たち,挑むような眼をした女子高生,みな「写真のあの人」に見えてきて,人びとも,過ぎ去る町,フェンス,モクマオウの並木,山,きび畑,海,風景すべてに写真の光景が重なりあい,響きあう。

 変わりゆくシマを嘆くのはたやすい。「どうしようもないこと」と物わかりよいふりをして,意識にのぼらせることもなく日々をやり過ごすことも可能だ。それでも,忘れられないこと,手放したくないこと,わかち合いたいことが,ある。日々のゆんたくに,くりかえしがえしよみがえるシマが,ある。

 車から瞬きで捕らえられた風景は,脳裏には記録されず残像でフィルムに記録される。そして現像され新たなる風景,写真として現れる。それらは現場に戻され太陽に照らされ,匂いのある風景,写真になる。/いま沖縄には戻す現場が無くなってきていると思います。(本写真集を作るに際しての私信)

 写真が世に出ることで,よみがえる現場もあるのではないか。そんな賭けのような気持ちを,この写真たちは抱かせる。シマの痕跡,シマの記憶が,写真によって喚び起こされ,私たちは記憶を再び記憶しだす,再記憶の作業をここからはじめてゆくだろう。それは私たちがどのようなシマを(つまりは生を)望むのかという,シマからの問いかけに応える作業に他ならない。

 七〇年代に「否定のモメント」であった写真の群れが二〇〇四年現在,写真集という形で世に出されるとき,その意味は大きく転回していく。「あれでもなければこれでもない」写真の集積によって,シマはその姿を浮かびあがらせる。否定ではなく,大いなる肯定として。シマはここに,「ある」。

  *

 七〇年から七二年にかけて徹底した受動性によってシマを捉え得た写真家は,いま,シマの記憶を掘り起こし記録しつづけている。八〇年代後半から生まれ島読谷・楚辺の字誌の編纂に携わり,字の歴史,字の人びとの戦争体験を当事者同士の語りによって記録する過程で島クトゥバの持つ力に目覚める。同じ頃に偶然ビデオカメラを入手し,言葉やうたを記録するにはこれだと確信。祭祀世界探求の先輩写真家・比嘉康雄,『楚辺誌』を共に編纂した地域史記録家・村山友江,ビデオ編集の山城吉徳を中心メンバーとして「琉球弧を記録する会」を立ち上げ,祭祀を,戦争体験を,島クトゥバで記録し始める。その活動の一端は,それぞれ六時間のビデオ作品『島クトゥバで語る戦世』『ナナムイ』としていったんまとめられ,二〇〇三年の山形国際ドキュメンタリー映画祭・沖縄特集「琉球電影列伝」にて公開され,その豊饒な世界は観る者を驚愕せしめた。

 民話とか祭祀行事も含めて島クトゥバで記録しているが,今,重要視しているのが,戦争体験を島クトゥバで記録することである。戦争体験は普段は語られないことで,日常的に子供たちに聞かせるようなものではない。しかし,改めて島クトゥバで記憶を呼び起こして話し始めると,その時の感情や風景まで表情に出て来るのが一番感動的である。(「言葉と映像」)
 目の前で喋っている人が六十年前にふーっと行くんだ,これはスゴイことだよ。言葉の記憶,方言というのは「あの現場」に戻すということで,一瞬たりでもあの現場にいさせたいということがひとつの原点だと思う。(中略)戦争をどうのこうのではなく,現場を,六十年前にそこに居た時というのを撮っているんだよ。(「現場…」)

 戦争の傷跡を,人びとの生きる姿を,撮り続ける比嘉は,ことあるごとに「いまはうすっぺらい沖縄しかないよー」と言い放つ。そう言いながらも一方では,うすぺらになってきている沖縄の中でもどこかで待っているものがあるからこそ自分は撮り続けるのだ,と明言するのだ。

 残っているものほど濃ゆいよ! だからそこをこそ,やらなくっちゃあなぁ(「現場…」)。

 『島クトゥバ』も『ナナムイ』も,完成品ではなく撮り続けられるもの,撮りたいものは次々出て来る,と比嘉は言う。「これを撮ったから展示会して終わり,という発想ではないということと,『沖縄,沖縄』とこだわっているから,それはずっとあり続けるんじゃないか」(「現場…」)。

 「沖縄,沖縄」とこだわり続け,撮り続ける比嘉豊光。写真集『光るナナムイの神々』に東松照明が「この写真集に編まれた宮古島西原の神事は,豊光さんがこれまで撮ってきた沖縄の風景,その多様性のなかの一つなのか,それとも,30年かけて捜し求めた沖縄の精粋なのか,私の知るところではないが,比嘉豊光の存在そのものが沖縄,という思いを消し去ることはできない」と書いていたのがずっと気になっていた。ある機会に「多様性の一つか,精粋か」という問いを写真家自身に訊ねたところ,「そりゃあ一部だヨー,沖縄はまだまだいっぱいあるヨー」と笑っていた。彼自身が沖縄かもしれないと私も思うが,それは,オキナワ自身が彼の写真を通して自らのユメを表わそうとしているのであって,七〇年代の,「復帰」前後の地獄めぐりにも似た彷徨の中で,そのようにシマに選ばれてしまったのだと思えてならない。

 選ばれてしまった者の「孤独」についても考えないわけではないが,カメラとビデオを手に嬉々と撮影にいそしむ写真家を見ていると,その「孤独」にはせいぜい「幸せモノ」とルビを振っておくとしよう。

  主要引用文献
比嘉豊光「南風の光と言葉」(インタビュー)『ユリイカ』二〇〇一年八月号。
比嘉豊光「言葉と映像」(インタビュー)『沖縄を深く知る辞典』日外アソシエーツ,二〇〇三年。のち,『島クトゥバで語る戦世――100人の記憶』琉球弧を記録する会,二〇〇三年,に再録。
比嘉豊光「現場に立つこと,現場に戻すこと」(インタビュー)『EDGE』一三号,二〇〇四年。
東松照明「沖縄通信」『朱もどろの華』三省堂,一九七六年。
東松照明「結実した豊穣の記録」『光るナナムイの神々』風土社,二〇〇一年。
仲里効「ラディカルな〈風景〉の思想」『EDGE』一一号,二〇〇一年。

『赤いゴーヤー』表紙比嘉豊光
『赤いゴーヤー 比嘉豊光写真集1970〜1972』
2004年9月
発行:ゆめあ〜る(〒904-0305沖縄県読谷村都屋436)
※購入は、直接申し込みのほか書肆アクセス(神保町)・模索舎(新宿)または地方・小出版流通センター扱いで注文

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(おわり)


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