仏造って魂入れずとは誰のことか




2002年10月

前 田 年 昭

立教開宗750年記念シンポジウム「日蓮聖人 その行動と思想」(2002.10.30、東京・石橋湛山記念講堂、共催:立正大学日蓮教学研究所+福神研究所)会場にて発表配布

立教開宗七百五十年記念シンポジウム「日蓮聖人 その行動と思想」にご参集のみなさま!
 さきの関西大震災のとき,いくつかのお寺は門を閉めきり,被災者を追い返したということです。慈悲の精神があればこのようなことはおきないはずであり,残念でなりません。
 十三世紀,地震や台風,飢饉,疫病のなかで人びとが呻吟していたとき,日蓮聖人は法華経の行者として生きたといいます。高木先生は『日蓮 その行動と思想(増補改訂)』のなかで「法華経を読誦したり、説法をしたりしている日蓮の草庵のかたわらを、死体を担ぎ、運ぶ人たちの群れがよぎって行く様子がイメージアップ出来ましょう。死者とともに過ぎて行く人びとの姿を目にするばかりではなく、鬼哭啾々、人びとの悲しみの声も日蓮の耳には届いていたことでしょう。」(261ページ)と書いておられます。そして,高木先生その人もまた誠実な行者として生涯を全うされました。
 マルクスの切手を集めてウハウハ喜んでいるような「マルクス学者」がマルクスの人類解放の原点を踏みにじったように,日蓮の花押や紙の研究にたとえ精進しても,日蓮の魂が正しく受け継がれなければ,その学問研究や教学は何のため,誰のためのものか,問われることとなるのではないでしょうか?
 跡継ぎ坊主ということばがありますが,いっそう混迷を深める現代の乱世における振る舞いによって,法の本来の尊さは事実で試されるでしょう。全国の神社は歌舞音曲大道芸の広場として解放されなければならず,全国のお寺は野宿者(ホームレス)や難民の宿所として解放されなければならないと,私はみなさまに訴えます。
 仏教は,必然の理に則しつつ,実践によって愛と平等と自由とを体証されたる仏陀への渇仰であるといいます。であるなら,今こそ,「一切衆生の異の苦を受くるは,悉くこれ如来一人の苦なり」として〈共受苦〉の立場をつらぬきとおした日蓮聖人の立教開宗の精神に立ち返るべきことが現下の焦眉の課題ではないでしょうか。
(おわり)


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前田年昭 MAEDA Toshiaki
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