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なぜ今また日蓮か
宗教は実践の信仰として輝きを取り戻し得るか
2002年7月
前 田 年 昭
句読点研究会世話人
『週刊読書人』第2449号 2002年8月9日付掲載
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| 九・一一以降の論調は宗教への嫌悪,原理主義と一神教への非難で塗り潰されたが,私は異議を申し立てる。現状変革の志と情熱を欠いた「共生」論など誰一人救い得ないからだ。『増補改訂日蓮 その行動と思想』(太田出版)『偽書の精神史』(講談社)の相次ぐ刊行は,なぜ今また日蓮か,宗教は実践の信仰として輝きを取り戻し得るか,との問いかけである。戦闘的無神論の立場にたつ私は「共産党宣言」に倣って呟く,ひとつの妖怪が日本にあらわれている,日蓮という妖怪が,と。
人は如何に生き如何に死すべきかとの問いに戦後の政治と宗教,文学と哲学は何と応えてきたか。戦後社会運動は差別と抑圧の解消をめざし,沖縄を本土並みに,労務者を労働者並みに,部落民を一般民並みに,同等の扱いを要求して資本と国家からの経済的“恩恵”を引き出したが,これ等の同情と勦りの運動はかえって無産の異議申し立て者たちをして初心を忘れさせ、利権に堕させたりはしなかっただろうか。“介護”を産業と化した国家は家族関係から感傷のヴェールを剥ぎ取ってただの金銭関係に還元し,生老病死のすべてを資本の支配下に置いた。“落伍”し“排除”されて,公園や河原に溢れる野宿者(ホームレス)となっても,息をしても金勘定,死後も臓器売買という資本の管理から逃れる術はない。宗教が人びとを救うというならば,介護の産業化は宗教の敗北ではないのか。
『増補改訂日蓮』は,いかに生きるべきかを多くの青年が問うた激動の一九七〇年評論社刊の旧版にその後発表された二篇の論文を追加し,以降の研究成果を盛り込んだものである。旧版は日蓮の行動と思想を緻密な史料批判と考証によって明らかにした名著として発表時,歴史学界で高い評価を得た(史學雑誌八〇ノ五他)。
『偽書の精神史』で佐藤弘夫氏は,日蓮研究者の多くが認めてきた「日蓮の文献主義」対「本覚思想の主観主義」という構図を問い直し,既存教学の自明性を問い“権威あるテキスト”を自己の信念に基づいて読み替え原点への回帰を目指す点で両者は共通だと断じ,未来記や偽書が氾濫した歴史的背景に神仏との通路が国家や特権的宗教者による独占から民衆の手に委ねられていく古代から中世への転換があると指摘している。大飢饉や地震,疫病の流行を前に伝統教学が退廃と世俗化に陥り人びとを救い得なかったのはなぜか,と問い,タブーを恐れず権力批判や他宗誹謗に踏み込んだ日蓮には,仏教を知識としてでなく実践の信仰として復権しようという志があった。
高木豊氏は『増補改訂日蓮』で,日蓮思想の特徴の一つである予言は「実践的な主体性の確立」を前提とし「予言が予言として受けとられることは,予言の実現がそこになければならない」と指摘した。臨終怨念での野垂れ死に状況にある当時の人びとと共に生き,地震・台風・飢饉・疫病を鎌倉の住民として共にした日蓮は「受苦による滅罪・受苦による連帯・救済のための受苦」を柱とする受苦の思想を「いなかことば」で具体化に表現し,現世での救済=現状変革を訴えた。「信仰の寸心を改める」=改信=正法ヘの回帰に基づき現実世界の「仏国土化」を目指す闘いに殉じた日蓮の,戦闘的というより寧ろ根源的という意味においてラディカルな行動と思想がそこにあったのである。
日蓮の真蹟を誠実に書誌学的に見極めようとする高木氏と,むしろ偽書の精神世界への想像力を展ばそうとする佐藤氏とは,研究方法として一見対照的であるかにみえる。が,両者とも地下水のように脈々と生きる日蓮と鎌倉仏教の精神を現代に復興し,今一度,宗教に実践の信仰として輝きを取り戻そうとの呼びかけていて共鳴しあっている。過去が現在を支配し,死者の無念が生者を縛る。いま一握りの“成り上がり”を除いて本土は沖縄化し,労働者は労務者化し,全国の野宿者は二万人四千人を超えた(厚労省、昨年九月調査)。
宗教人は日蓮から現状変革の志と情熱を学び,まずすべての寺の境内を野宿者に開放すべきではないか!
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(おわり)
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