奈倉哲三「招魂」(前半)からのつづき

「招」・「不招」の分岐点は何か?  新政府が「偽官軍」の汚名を着せ,斬首・梟首した者を,六一年後に靖国神社が「合祀」と決定したのは,その前年一九二八(昭和三)年一一月一〇日に京都御所で挙行された,新天皇裕仁ひろひと(追号昭和)の,即位礼大典式にあわせた贈位の一環として,相楽総三を贈正五位とした,その決定を受けてのものであった。だから,亀太郎にとっても,祖父らの雪冤はそのときにすでに果たされていたのである。「木村亀太郎泣血記きゅうけつき」から,雪冤なるの瞬間を再現してみよう。折しも「大礼使たいれいし主膳しゅぜん舎人とねり〕」として,京都供奉ぐふを命じられていた宮内省宗秩寮そうちつりょう爵位課勤務の亀太郎は,京都発向の直前,一一月五日,偶然にも贈位選考書類発表準備の内命を受け,同僚とともにその事務を宗秩寮総裁室で執ることになった。もちろん,即位当日の発表までは極秘の書類である。

 長野県の書類に指をかけたとき相楽の孫だという私情がこみあげて来た。第一枚をめくった。そこには贈正五位相楽総三とあって略伝が附してあった。息をつくのを忘れて第二枚目をめくった。贈従五位渋谷総司とあってこれも略伝がついていた。かたじけなさに眼が霞んだが気を取り直し第三枚目をめくった。
 あとには相楽らの同志の名はなく,祖父の部下たちすべての雪冤も等しく願っていた亀太郎にとって,決して満足のいくものではなかったが,それでも祖父と渋谷の雪冤だけは叶ったのである。この時点で,亀太郎の半生をかけた闘いは終わったといってよい。
 では,政府が下したこの贈位決定に追随したものとはいえ,翌年,軍の管理する靖国神社が,その「魂」を招いて「神」とする「合祀」を決定した,その根拠は,一体何であったのか? この根拠を見定めることで,六〇年前の招魂・不招魂の分岐点が明瞭となる。
 それは,「赤報隊」の隊名に込めた相楽らの意志を,死して天皇の恩に報いる意を決し,戦ったのだと読み替えることで,「合祀」に値すると判断したこと以外にない。証拠を示そう。
 六〇年前の六月二九日,東京招魂社で軍務官知事仁和寺宮にんなじのみや嘉彰よしあき親王(のち,一八八二年三月に小松宮こまつのみや彰仁あきひとと改める)が祭主となり,軍務官副知事大村益次郎が副祭主となって執行された招魂祭において,仁和寺宮は,次の祝詞のりとをあげていた。
 天皇すめらみこと大御詔おおおんみことのりに因りて軍務官知事宮嘉彰みやよしあきもうさく。去年こぞのとしの伏見のえきのより始まりて今年箱館の役に至るまで,国々所々の戦場に立ちて,「海かば水付みづくかばね,山行かば草生くさむすかばねひたいには矢は立つとも背には矢は立てず」と言立ことだて……[靖国神社編『靖国神社誌』一九一一年。助詞などの漢字はすべて現代表記による仮名に直し,漢字には読み仮名を付し,適宜「 」を付した]
 ここに,最初の招魂,三五八八名の「魂」を招き降ろすという祭儀における,最も中心的な思想が凝縮している。
 「海行かば水付屍,山行かば草生屍,額には矢は立つとも背には矢は立てず」とは,『万葉集』大伴おおともの家持やかもちの歌,「海ゆかば水漬みづく屍,山ゆかば草むす屍,大君のにこそ死なめ,顧みはせじ」の,下の句を,さらに強烈な方向へ転換させたものである。
 海へ行こうと山へゆこうと,天皇のためには命を捨て屍となる。敵と相対すれば,必ず正面から戦い,背を向けずに死ぬまで戦う。こう誓って戦死した「魂」を招いているのだ,というのである。
 新政権の中枢を担った者たちにとっての「勤王」とはこのような「勤王」であった。否,そうあるべきとしたのだ。六〇年後に相楽らを合祀したのも,この精神だったのだと解釈し直したからである。
 だが,戊辰戦争一年半余りの戦闘において,新政府側に立って斃れた者が,皆このように心に誓って戦っていた,と本気で主張することはかなり難しい。もちろん,幕末来の尊王思想の展開において,例えば会沢正志斎せいしさい以後の水戸学から,あるいは平田派の国学から,さらには津和野神道学などのなかから,こうした「天皇のために戦って死ぬ」思想を引き出すことは可能である。だが,そのような思想が,幕末〜戊辰戦争の時点において,広く根を張っていたなどと主張することが,いかに根拠のないことかは,すでに安丸良夫氏などによって,余すことなく論証されている通りである。
 それは,そもそも,肝腎の天皇の権威自体が,国民的規模においてはもちろん,武士階級のなかにおいてさえ,いまだ十全な形では確立していなかったからである。
 「天皇の権威」,歴史を多少なりとも事実に即して冷静に見つめようとするならば,そうしたものもまた,歴史の具体的な展開のなかで激しく浮沈するものであることを認めざるを得ないであろう。後醍醐天皇が隠岐に「流刑」とされたことを思い出しただけでも、また,後水尾ごみずのお天皇以後,孝明天皇に至る間の江戸時代の天皇の名を,多くの人が想起し得ない,といったこと一つをとってみても,それは納得できることであろう。
幕末維新期における諷刺的天皇観  幕末の政治抗争・権力抗争を表面からのみ見るならば,たしかに,幕府支配が弱まるにつれ,尊王思想の潮流はどんどん強まっているかにみえる。だが,幕府膝元の江戸で生活する民衆にはもちろん,朝廷の存在する京都町衆にとっても,天壌てんじょう無窮むきゅう神勅しんちょくによって,天皇の民へのつつがない統治が未来永劫えいごうにわたって約束される,などといった思想は,当時はまだ遥かに遠いものであった。それどころか,激動する政局のなかで立場の定まらない孝明天皇や,幕府倒壊寸前の慶応三年一月に数え年一六歳で踐祚せんそした天皇睦仁むつひと(追号明治)を直接諷刺するような,多様な文芸・錦絵諸作品が,江戸を中心に各地に多量に出回っていたのである。この事実はまだほとんど知られていないが,ここでは,数多くの諷刺作品のなかから,少しだけ引くことで,当時の民衆のなかにあった,天皇・朝廷に対する意識の一端を紹介しておこう。
 一八五八(安政五)年,将軍継嗣問題・条約勅許問題を契機として,その後多くの傑作を生み出す諷刺文芸様式,「見立ていろはたとへ」が爆発的に成立する。それは,「いろはにほへと……えひもせす京」の四八音をそれぞれ頭とする四八の諺に,事件や人物を一つ一つ見立て(「みなす」「あてはめる」の意),政治を鋭く諷刺したものである。
 安政五年の「見立ていろはたとへ」一つから,一つの見立を引く。

  眼の上のこぶ京都

 これは,老中堀田正睦まさよしが条約調印の勅許を願い出たものの,それが三月二〇日に孝明天皇の勅答によって斥けられたことを指す。すなわち,条約調印を推進する視点から,勅許を拒否した京都朝廷を「眼の上の癌」だ,邪魔だ目障りだ,と言っているのである。
 これが,管見の限り,幕末期以降,「見立ていろはたとへ」を含むすべての諷刺文芸における,最初の天皇諷刺である。
 これ以後の流れを概観すると,一部の思想家によって尊王がやかましく喧伝けんでんされればされるほど,それへの反発も強まって,それが諷刺文芸に反映されるという傾向があきらかに見られる。
 一八六四(元治元)年三月に大流行した都々逸どどいつに,うたい手を「みやこの御君」とした,次の謡がある。

 なるはいやなり おもふはならず ほんにしんきな苦の世界

 この都々逸は,朝廷内攘夷激派が強く要求していた攘夷親征・大和行幸など,攘夷即行の頭と「なる」のを「いや」と斥けたものの,その一方で,一橋慶喜よしのぶ・松平容保かたもり・島津久光ひさみつ・松平春嶽しゅんがくらを呼んで朝議に参予させ,あらたな権力体制創出を模索し始めた方策が,なかなか「おもふはならず」という,この一八六四(元治元)年春の,天皇統仁おさひと(諡号孝明)の苦しい心境を,「ほんにしんきな苦の世界」と,「苦界くがい」に沈む遊女の言葉で謡ってみせたものなのである。
 また,一八六五(慶応元)年閏五月過ぎ,京から流れ出た都々逸に,

 けふの天気かくらつくゆへに 萩と薄のもつれ会

 というのがある。慶応元年五月一二日,幕府は紀州和歌山藩主徳川茂承もちつぐを長州再征の先鋒総督に任命,一六日に将軍家茂いえもち自身が江戸を出発,閏五月二二日に参内さんだい,再征を奏上している。「萩」が長州(萩藩),「すすき(芒)」は幕府。「けふの天気」は「今日の天気」に「京都の天皇の気分」を掛けた語。「天気(天機)」は,もともと諷刺語とは関係なく,漢語で天子の気色・機嫌の意であり,日本でも,天皇の機嫌・気分の意として,当時よく使われた通常の語である。
 つまり,この都々逸は,幕長対決・内乱状況をみて,その責任は立場の定まらない天皇統仁にあると言っているのである。この都々逸を含む四節の謡全体の表題は「童謡」となっている。孝明天皇の揺れ動く政治姿勢,「動揺」にかけたのである。この童謡は,京から流れ出て,江戸でも記され,諸国に流れていっている。
 今一つ,一八六七(慶応三)年の「見立ていろはたとへ」から。

  聞いて極楽見て地獄 王政復古

 一二月九日に京都で王政復古が決行されるまだ前,一一月に江戸で出回ったものである。討幕派や岩倉らが呼号している「王政復古」は,聞こえは良くともその実現は「地獄」的状況を招くことになるとみて,クーデター遂行直前の段階で激しく警鐘乱打したものである。元浪士峰尾小一郎の回想は予言されていたのである。
 こうした鋭い諷刺が江戸や各地に飛び交っていた。この小論では紹介し得ないが,もっともっと多くの諷刺文芸が,あるいは公然と,あるいは秘密裏に出て,多数の風説留に記録されたのである。
 そして,戊辰戦争が勃発し,とくに江戸開城前後から江戸の市民が熱中し,大変な売れ行きとなったのが,諷刺錦絵である。


「子供あそび百ものがたり」(東京大学史料編纂所蔵)
拙著『諷刺眼維新変革――民衆は天皇をどう見ていたか』(校倉書房)
口絵カラーNo.8、本文357〜370頁参照。

〔所蔵元:書誌リンク〕
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal
/yokoyama/nishikie/isin2063.htm
〔所蔵元:画像リンク(拡大可能)〕
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal
/yokoyama/nishikie/istn2063.htm

 戊辰戦争を主題とした諷刺錦絵は,現在まで一三五点を確認した。その内,天皇が描き込まれているのは六一点ある。ここでは,そのなかで,上図一点だけを,ごく簡略な解説にとどめて紹介する。
 屏風の向こうに列藩同盟の諸藩を意味する子が描かれ,こちら側に新政府側の諸藩・人物を意味する子が描かれている。同盟側が次々と担ぎ出すお化けに,新政府側の子は腰を抜かして倒れたり,逃げ出したりしている。旧幕府側に期待を寄せている絵師が,列藩同盟の反攻を新政府軍が怖がっているとして描いた諷刺錦絵である。屏風は新政府軍が南側から北上してきた白河関周辺を意味する。会津戦争の項で記したように,白河城を占領した会津藩と新政府軍は五月一日に全面衝突,新政府側が白河城を奪還する。が,その後も会津攻略は容易には進まず,奪還した白河城をめぐる緊張は数ヶ月も続く。その過程において江戸で発行された錦絵である。
 このなかに天皇はどう描かれているか?
 天皇睦仁むつひとは薩摩におんぶされ,「もふいやだはやくかいろふよう」と言っている。おぶった薩摩が「それだつても内へいくとしかられます」と言っている。
 天皇は白河などへはもちろん,江戸にさえまだ来ていない。確実に「内」に居るわけである(「内」は「内裏」の意)。白河城攻防の真っ最中の東北の入り口に,来てないはずの天皇を,百も承知の上で,「帰りたい」とまで言わせて描き込んだ。
 ここには,奥羽親征計画への反発が込められている。天皇に向けてダイレクトに投げられた鋭い牽制球である。もしも奥羽親征を決行すれば,天皇は帰りたくなって進退きわまることになりますぞ,との脅しを込めたメッセージなのである。
 以上,僅かな紹介であるが,天皇統仁おさひとの揺れ動く姿勢を批判する諷刺文芸が江戸や京のちまたに溢れ,戊辰戦争中には,列藩同盟に期待する諷刺錦絵が,江戸で大変な売れ行きを見せていたのである[諷刺錦絵の詳細な解説を含め,本節全体については,拙著『諷刺眼維新変革――民衆は天皇をどう見ていたか』(校倉書房)を参照されたい]。
 こうした状況を考えれば,天皇のために一命を捨てても新政府樹立のために戦う,などといった思想が,戊辰戦争時においてはいかに特殊なものであったかが見えてくる。
 その戊辰戦争において新政府の軍事総裁として戦争全体を統括,征討大将軍として鳥羽・伏見戦を指揮,六月には会津征討越後口総督として北越に出陣していたのが,仁和寺宮嘉彰親王だったのである。また,戊辰戦争勃発後に,新政府太政官から軍務事務局加勢を命じられて軍制改革を指導,上野戦争で彰義隊を壊滅させ,奥羽・北陸戦線でも「軍功」をあげたのが大村益二郎だったのである。
 だからこそ,軍務官知事嘉彰親王が祭主となり,軍務官副知事大村益次郎が副祭主となって執行した「招魂祭」では,なんとしても,新政府側に立って戦った兵が,「海へ行こうと山へゆこうと,天皇のためには命を捨て屍となる,敵と相対すれば,必ず正面から戦い,背を向けずに死ぬまで戦う」,こう誓って戦死したのだ,としたかったのである。
 その基準に従って「味方の魂●●●●をさらに選み●●●●●●,招魂したのである。当時の天皇に対する多様な意識のあり方からすれば,いかに特殊な思想によって,「勝手に」招いたものであったかがよくわかる。
 だが,当時はまだ特殊・特異な思想であったものが,その後の日本近代の歩みのなかで,国民の意識を捉え,一般的なものといえるほどにまでなっていく。この「一般化」には,戊辰戦争の「勝利」によって近代国家をスタートさせた日本が,日清戦争・日露戦争・第一次大戦,そして運命の「大東亜戦争」・「太平洋戦争」と,戦争を繰り返すごとに,軍が統括する靖国神社が,戦地での日本軍兵隊戦死者の「魂」を「招」くことを基本とする「合祀」を,幾たびも重ね,その「霊」の前で「天皇のために戦って死ぬ」ことを誓う大祭をくり返し執行してきたことが,大きく関わっている。
 一八六九(明治二)年六月二九日の最初の招魂から一九四五(昭和二〇)年八月一五日の敗戦までの七六年間,実に六六回の合祀が執行されている(なお,「A級戦犯」一四名の追加合祀は一九七八[昭和五三]年一〇月であり,それは通算第一〇六回目の合祀である)。
 かの,仁和寺宮嘉彰親王が,初めての招魂祭であげたあの祝詞のりと,「海ゆかば水漬く屍,山ゆかば草むす屍」は,その本歌,大伴家持の歌に戻ってではあるが,戦時中に日本軍兵士として出征した経験のあるものなら,今なお歌うことのできるほど,歌わされていったのは,こうした戊辰戦争以来の「靖国の思想」によってなのである。

 《戊辰戦争から靖国を考える》その基本点についてはすでに書き終えた。が,もう一点,付け加えておきたい点がある。
 それは,こうした「靖国の思想」は,日本人の「伝統」精神などではない極めて異例な精神である,という点についてである。
 このことは,すでに古くは村上重良氏が指摘しており,最近では梅原猛氏によっても強調されていることではあるが,日本人の精神史を考えるうえで大切な点であるので,付けくわえておきたい。
 「天皇のために戦って死んだ者だけを集めて祀る」神社が極めて特殊なものであることは,すでに述べたことであきらかであろう。それ以前に,戦闘の終結後に,「敵方」の「魂」を排除し,「味方」の「魂」だけを招き,祀る,ということ自体が特殊なのである。
 日本人の精神史は,それほどに貧しいものではなかった。それほどに情けない――情けの無い――ものではなかった。
 「天神様」を見よ。あれは,菅原道真みちざねの死後,道真の「政敵」であった藤原氏が祀った神社である。もちろんそれは,時平ときひらによって太宰府に追われた道真が配所で没し,その怨霊おんりょうが時平はじめ藤原一門を襲ったという怨霊信仰に基づいたものではあるが,決して,道真の勢力が,道真の「魂」を招いて建てた神社ではないのである。この怨霊信仰は,その後,仏教の怨親おんしん平等びょうどう思想とあわさることで,崇りの発想が薄まり,戦乱が起こるたびごとに,戦死者の敵も味方も,ともにあつく供養するという習俗を生み出していく。
 一三三八(暦応元)年,南北朝内乱のさなか,足利尊氏・直義ただよし兄弟は,夢窓むそう疎石そせきの勧めにより,元寇以来の敵味方すべての戦没者を供養するため,国ごとに一寺一塔の建立を決めた。一三四五(貞和元)年,光厳こうごん上皇の院宣いんぜんを得,寺を安国あんこく,塔を利生りしょうとうと決定,その後,南北朝期を通じて,室町政権によって,ほぼ全国に設置された。
 維新政権の中心を担った薩摩藩,その藩祖と仰がれる家久いえひさの父,義弘よしひろは秀吉の命に従って朝鮮に出陣,帰陣後の一五九九(慶長四)年,家久とともに,高野山に「弔魂碑ちょうこんひ」――「忠魂碑」ではない――を建立,「為高麗国在陣之間敵味方●●●鬨死こうし軍兵令入仏道也ぶつどうにいらしむるためなり」と,碑文にはっきりと記したのである(鬨死は戦死の意)。こうして,敵味方無く供養するという精神が広まり,「死ねば敵も味方もない」との言葉で表される観念が,日本人一般のものとなっていくのである。
成り立たない不戦の誓い  小泉首相は,この原稿をほぼ書き終えた今(七月四日現在)もなお,靖国への参拝に固執している。首相はその理由として幾度となく,「不戦の誓いをするためだ」と述べている。
 だが,神社創建時の,「敵方」の「魂」をすべて排除し,「味方」の「魂」のみを招くという原則は,その後の靖国神社においても完全に貫かれていった。それも,戦闘の場で,戦うことで「天皇」のために命を捨てた者の「魂」だけを撰びとることを第一原則とした。そして,その者の「魂」を「英霊」として慰め,褒め称える「大祭」をくり返しくり返し行ってきた。そうすることにより,合祀の大祭,「慰霊」に連なる者が,おのれもあとに続くことをその「魂」に誓う,つまりは,招集された若い兵隊たちが,「靖国で会おう」と,天皇のために一命を捨てることを誓って戦地へ散っていくという,そのための施設,戦争完遂を誓うための施設へと,その軍国主義的性格を強めていったのである。
 さればこそ,日中戦争・太平洋戦争における戦死者の内,「敵方」である中国・朝鮮・東南アジア各地の,一七〇〇万にのぼると言われる軍民の「魂」や,サイパンや沖縄戦などで死去した米兵数万の「魂」を「招」いてなどいないのはもちろん,「味方」であるはずでも,戦地ではないところでの戦争の犠牲者,広島約二〇万・長崎一四万の原爆犠牲者(ともに終戦数年後の死者を含む)や,東京大空襲約一〇万八〇〇〇を含む全国各地の空襲での犠牲者約三〇万,また,その姿が会津藩の「自決」と重なる,あの沖縄戦の約九万五〇〇〇(軍部に戦闘協力者と認められた五万五〇〇〇を除外した数)の一般住民犠牲者たちは,すべて「招魂」=「合祀」から排除されたのである。
 また,さればこそ,戦争に重大な責任有りとして国際法廷において「戦犯」とされた者を,その極東軍事裁判の結果を受け入れることで国際社会に復帰できたことなども一切無視し,英雄扱いし,その「魂」を,ひそかにでも,「招」くことが必要だったのである。かつて,戊辰戦争終結時の松前藩で,榎本隊に占領されたためにやむを得ず協力した商人たちまでをも「戦犯」として処刑し,彼らの「魂」を「招」いたりは,もちろんしなかったのに,である。
 これら一切が,戊辰戦争時の「招魂」に発する「靖国の思想」なのである。
 このような靖国の地で,不戦の誓いなどが成り立つはずもない。「A級戦犯」合祀云々以前の問題である。
 もしも,首相が本気で不戦の誓いをしたいと願うなら,近代日本が歩んだ戦争のすべての,とまでは無理としても,せめて日中戦争・太平洋戦争中の文字通りのすべての「戦争による犠牲者」,すなわち,「敵」「味方」,「軍」「民間」一切の差別なく,全死者の,氏名は無理であろうから,わかる限りの数を,年月日・場所(事由)ごとに記した「不戦の碑」,もしくは「平和祈念碑」を建て,その碑の前に誓うべきであろう(「慰霊碑」という語は,何のために慰霊するのかが暖味となるだけでなく,「霊」という多少なりとも宗教的な観念を認めることが前提となるので適切ではない)。
 それが今すぐは無理だというなら,今すぐにできる不戦の誓いがある。日本が二度と再び戦争をしないと,国際社会に対して誓った,あの憲法第九条だけは,たとえ憲法を変えることがあっても,絶対に変えません,と首相の名において宣言するごとである。

 この原稿を書いていた六月二八日昼,天皇が「玉砕」で知られるサイパンに行き,日本人遺族を見舞っただけでなく,サイパンで戦死した沖縄県民の碑・韓国系住民の碑・アメリカ兵の碑へも足を運び,「慰霊」の意を捧げたというニュースが飛び込んできた。
 天皇が自らの意志に基づいて行っているこの行動は,私には,首相が靖国参拝にこだわる姿勢を戒めているようにみえる。
 翌日,天皇・皇后のサイパン訪問を報じた朝日新聞記事は,「玉砕の軍隊」を生み出したものへの怒りを込め,戦後も体験を語り続けた元日本兵の著書から,次の言葉を引いて締めくくっていた。
 「彼らが犬死であったと言ってすましてしまうのはあまりにもやりきれない。その死を無駄にしない道は,かつて日本国家の道をふたたび歩まないことである」「庶民個々人の人権よりも『国家』を担ぎまわる人々を警戒し,願い下げにする」(山内武夫「怯兵記」,「朝日新聞」二〇〇五年六月二九日朝刊,岩井克己編集委員記事より)。
 原稿依頼から締め切りまで短時日であったため,戊辰戦争殉難者の内,創建時の招魂者と不招魂者を数えるには,明田氏の前掲書のみに頼らざるを得なかったので,明田氏の書刊行後の地方史研究の成果を,数としては反映できていない。また,氏が指摘しているように,新政府の中心的な軍を構成した藩にあって,新政府側ではなく,しかしあきらかに戊辰戦争のために殉難した者は,なお多数が埋もれている可能性がある。そうした地域での今後の研究いかんによって,「招かれざる魂」の数は,なお増大するものと思われる。

参考文献
『三百藩戊辰戦争事典』上・下(二〇〇〇年,新人物往来社)
長谷川伸『相楽総三とその同志』上・下(一九八一年,中央公論社)
村上重良『慰霊と招魂』(一九七四年,岩波書店)

(なぐら てつぞう・日本近世〜近代思想史)
(おわり)


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