招魂
戊辰戦争から靖国を考える


2005年7月

奈倉哲三
跡見学園女子大学文学部人文学科教授
日本近世〜近代思想史


『現代思想』2005年8月号(特集・靖国問題)pp.107-121掲載、著者の許諾を得、若干の誤植を訂正して転載


創建=招魂  靖国神社は毎年六月二九日に創建祭を行っている。今年の創建祭は一三六年祭。今から一三六年前の明治二年六月二九日,その日から七月三日まで,東京九段に創建された神社で執行された祭祀の名は「招魂祭」。神社の名称は「東京招魂社」。この東京招魂社が明治一二年六月に靖国神社と改称される。つまり,靖国神社は,招魂祭を執行するために建てられたというのが,その始まりであった。
 招魂祭,魂を招く祭。合理的な思考に慣れた多くの現代人の耳には多少不気味な響きが残る。だが,神社を創建し,最初に招魂の祭をしようというのであるから,創建者にとっては,もっとも大切な祭である。それは,亡くなった者を神として祀るにあたり,「招魂」という神事を執行して祀ることにこそ,神社創建の第一かつ緊急の目的があったことを意味している。明治二年六月二九日から五日間にわたり,「魂」を急ぎ招いた招魂祭とはいったい何であったのか。そこにはどのような思想が貫かれていたのか。ここに焦点を据えることで,靖国問題のある部分が見えてくる。
 「招かれた」のは,慶応四年戊辰の年,正月三日の鳥羽・伏見での戦闘開始から,翌明治二年(明治への改元は慶応四年九月八日)五月一八日の箱館五稜郭での戦闘終結まで,つまりは,わずか一ヶ月あまり前に終結したばかりの戊辰戦争一年半の,その戦闘においてたおれた者の「魂」である。その際,それらの非常に多くの「魂」の内,旧幕府側で闘って斃れた者の「魂」はすべて排除された。すなわち,新政府側に立って斃れた者の「魂」だけが選ばれたのである。
 これが,東京招魂社に招かれ,「神」となった(させられた)最初の「魂」である。「招いた」のは新政府。祭主は仁和寺宮にんなじのみや嘉彰よしあき親王であり,天皇の勅使として弾正だんじょう大弼だいひつ五辻安仲が参向している。
 つまり,旧幕府権力との武力抗争に勝利した新しい権力――少年天皇睦仁むつひと(追号明治,戊辰の年数え年一七歳)を担いだ薩長中心の権力――は,その権力樹立のために戦って斃れた者,つまりは,味方の「魂」だけを大急ぎで招いたのであった。
「味方の『魂』だけを招く」。そこにこそ,招魂祭の目的があったのであり,そのためにこそ神社を創建したのであった。
招かれざる魂の総数  創建の日,六月二九日,その日「招かれた魂」の総数は三五八八(靖国神社編『靖国神社誌』一九一一年,同神社)。では,同じ戊辰戦争のために死去しながらも,「招かれなかった魂」の総数は?
 この問に正確に答えることは今なお不可能である。だが,この難問に対し,現在の研究時点でわかりうるおおよその数を把握しようとするうえで,大変有用な書がある。明田鉄男氏が精魂込めて作成された『幕末維新全殉難者名鑑』全四巻(一九八六年,新人物往来社,以下『全殉難者名鑑』と略記)である。明田氏は靖国神社編『靖国神社忠魂史』第一巻(一九三五年,同神社)と,史談会編『戦亡殉難志士人名録』(一九〇七年,共同出版)を参考としつつも,全国の地方史研究の成果を隈無く汲み上げ,かつ独自の調査をも加え,先の書を刊行された。明田氏はこの書で全殉難者の一人一人について,靖国に祀られたか否かを一々記されているが,あくまでも全殉難者を平等に扱われる立場から,靖国か否かのそれぞれの計は記されなかった。そこで,明田氏の書にしたがって戊辰戦争期の死者の内,まずは旧幕府側に立って戦い斃れた者の数をひたすら数えていく。
 が,この作業もそれほど容易ではない。『全殉難者名鑑』中には,戦争が原因と判断された病死・事故死・行方不明者も,郷土史研究の成果にしたがって入れてある。が,病死原因の判断は困難と考え,戦闘負傷による死者や戦争に直結する事故死以外は一応取り除く。
 また,新政府側にありながらも招魂祭に招かれなかった者を数える作業も簡単ではない。明田氏は明治二年六月の招魂祭に招かれた「魂」だけでなく,その後靖国神社が一〇数回にわたって合祀した戊辰戦争戦死者も,等しく「靖国」と記されたので,新政府側死者の内の,「靖国」と記していない数だけを数えたのでは二年六月時に招かれなかった新政府側「魂」の数がわからない。そこで,新政府側の全戦死者・負傷後の死者を数えたうえで,そこから三五五八名を引くことで,新政府側で戦って斃れながらも招かれなかった「魂」の総数を出すことにする。
 ところで,旧幕府側か新政府側か,と今では一口に言うが,当時,渦中の藩の多くにとっては,藩論を決めるのはそれほど容易なことではなかった。それは,一人の人間にとっても同じことであった。だから,どちら側とも言い難い死者もいるし,紛糾の末に藩論がどちらかに定まっても,藩論にはくみし得ずにいたために,処刑・殺害された者も多数いた。
 『全殉難者名鑑』に記された個人情報を頼りに,これらを注意深く選び分けた結果,旧幕府側で戦って斃れた者,もしくは負傷死した者,また佐幕の意志を貫いたために処刑・殺害された者など,基本的に旧幕府側であったために招かれなかった「魂」は,八六二五名余りにのぼった。「余り」としたのは,例えば会津などで「一家全員自決する」とあって人数が不明な場合があるからである。
 また,新政府側にあって招かれなかった「魂」も一三五九名にのぼった。また,どちら側とも言い難いが,あきらかに戊辰内乱のために亡くなった者で,招かれなかった「魂」は一二名を数えた。
 こうして,「招かれざる魂」はほぼ一万名に及ぶことが判明した。
 では,この一万の「魂」たちは,いかなる「死」を余儀なくされたのか? 状況の一端を具体的に知ることが,《「招魂」・「不招魂」の境》を知る――靖国の思想を知る――ために必要と思われる。
招かれざる魂たち(1) 藩論統一による犠牲  将軍家に最も近いはずの尾張・紀伊・水戸の,いわゆる御三家,この御三家のいずれもが,藩としては,旧幕府側に立たなかった。そのなかで,早くから新政府恭順の立場を明確にし,藩としての軍事行動も果敢であったのが尾張藩である。
 尾張藩は,藩主義宜よしのり(戊辰時一一歳)の父徳川慶勝よしかつが実権を掌握。嘉永二(一八四九)年の襲封以来,何かと幕府と対立していた慶勝は,慶応三年には独自の立場から大政奉還へと動き,一二月九日の王政復古による新政府樹立と同時に,政府議定職に就任する。
 だが御三家筆頭としての藩内には,当然のことながら,将軍家に忠義を尽くす立場を堅持し,慶勝には批判的な重臣たちも多かった。藩としての立場を,一日も早く旗幟きし鮮明せんめいにする必要のあった慶勝は,家老成瀬なるせ隼人正はやとのかみ正肥まさみつ(尾張犬山藩主)らと謀り,新政府副総裁議定職の岩倉具視ともみに上申,岩倉から反政府派粛清の許諾を得て,一月二〇日から二五日にかけて,年寄列渡辺新左衛門しんざえもん・大番頭榊原勘解由かげゆら,計一四名を,あるいは城内で,あるいは屋敷内で,あるいは評定所内で,それぞれ「斬」に処した。この一四名の「魂」は,翌明治二年の六月二九日にはもちろん招かれず,その後の一〇数回にわたる追加合祀に際しても,ついに招かれることはなかった。
 類似の悲劇的事件は,いたるところで起きている。
 三河刈谷藩(藩主土井利教としのり,譜代二万三〇〇〇石)。この藩は,勃発前から恭順か否かで大揺れに揺れ,勃発後も藩内抗争が激しかった。だが,状況はすでに新政府側に有利と判断した重臣倉田圭太郎ら藩首脳は,藩論を恭順に統一するため,二月八日夜,反政府派と目された三人の家老,多米ためい新左衛門・津田新十郎・黒田浜右衛門を刈谷城外で殺害,首級をあげ,ただちに尾張藩に運んだ。それは,すでに新政府軍側に立った尾張藩に首を示すことにより,刈谷藩も新政府側に立ったことを示し,新政府軍へのとりなしを頼んだものであった。その後,三人の首は刈谷藩の刑場にさらされたが,刑場にはいつしか,「土井の家老に七家老 三家老死んであとがよかろう(四家老)」という,痛烈な藩上層部諷刺の落書が貼られていた。
 久留米藩(藩主有馬頼咸よりしげ,外様二一万石)。文久三年以降藩政の中枢にいた開国論者の不破美作みまさかが,慶応四年一月二六日,攘夷派に暗殺されて以後,恭順派の水野正名まさならは非恭順派を弾圧,四月には不破と共に藩政の中心にいた吉村武兵衛が切腹に追い込まれた。また,二月以降,新政府軍の一翼を担いだした久留米藩の中心部隊,有馬蔵人くろうどを総督とする隊が,関東や奥州での戦闘で多くの犠牲者を出しながらも,「官軍」として数々の「戦果」を挙げ,明治二年一月に久留米藩へ凱旋したのだが,その直後,それまで藩内にあって戦闘に消極的であった,主に藩校明善堂の教官たちや,かつて不破の協力者であった者たち九名が切腹を命ぜられた。その間,獄死した者も含め,計一二名が反政府派として死に追い込まれている。
 新政府軍の中では,もともと大政奉還を幕府に進言し,本来が非戦論であった土佐藩においてさえ,東征に反対した野中太内(元少林塾吉田東洋門人)が,江戸開城後の五月に切腹に追い込まれている。
 以下類似の事件として,柳生藩で七名が切腹・一名が獄死,姫路藩で四名が切腹・二名が自刃・一名が斬,村松藩で四人が獄死・三人がそれぞれ斬・切腹・自刃,福岡藩で家老三人が切腹,関宿せきやど藩で一人が切腹,といった具合である。
 これらは,いずれも藩論を「勤王」もしくは「恭順」に統一させたことによる犠牲という点で共通しているが,類似の事件のなかで最大かつ凄惨を極めた事件が,蝦夷地松前藩で起こった。
 松前藩(藩主松前[蠣崎かきざき徳広のりひろ,外様三万石)は,奥羽列藩同盟が結成されると,家老松前勘解由らが中心になって同盟に加盟,蠣崎監三・山下雄城らとともに藩政を取り仕切った。これに対し,同盟加盟に反対した藩士鈴木織太郎らが結成した「正議隊」は,慶応四年七月下旬から八月にかけ,蠣崎監三ら三人を斬殺,さらに二日には松前勘解由を切腹に追い込み,藩権力を掌握した。権力を掌握した「正議隊」はさらに同盟派を追及,六名が斬殺され,一三名が切腹・自刃に追い込まれ,獄死一名を含み,二四名もが「正議隊」によって命を奪われた。牢内で縊死いしした山下雄城の場合は,死後に「斬首」され,「梟首きゅうしゅ」のうえ,胴部も立石野にさらされたという。
 松前藩の「恭順」統一による犠牲はこれに留まらなかった。箱館戦争が終結すると,松前城下が旧幕府軍榎本隊の占領下にあった時に協力を強いられた者たちを「戦犯」として徹底捜査。明治二年七月一七日に元江差奉行所の下級役人一三人を捕らえ,江差市中を「引廻し」て「斬」のうえ「梟首」,一八日には八人の松前城下商人までも捕らえ,福山市中を「引廻し」,同様に「斬」・「梟首」し,さらに八月二日には元江差奉行所町方頭取ら三人を捕らえ,「斬」・「梟首」,入牢後に死亡した者一人を含め,計二五名を「戦犯」として扱い,残忍な殺し方をした。彼らの場合,招魂祭後のことであるから,もちろんその「魂」が招かれることはなかったが,その後の一〇数回にわたる追加合祀に際しても,無視されたままであった。「靖国の思想」にとっては,それが当然であった。
招かれざる魂たち(2) 旧幕府軍側であったために  旧幕府軍側であったために招かれなかった「魂」は,先にも記した通り,計八六二五名余りもあるので,その事例を一々挙げることは不可能であるが,戊辰戦争のなかのよく知られた戦闘については,わかる限りの死者数を示し,具体例を数例挙げておこう。
 まず内乱勃発の慶応四年正月三日から六日にかけての戊辰緒戦,鳥羽・伏見戦闘での旧幕府側戦死者は多数に上るが,その内,幕府歩兵奉行下の兵など,旧幕府兵はほぼ一〇〇名を数える。「新選組」関係者ではほぼ三〇名,また,旧幕府軍側で戦った諸藩兵では,旧京都守護職松平容保かたもり麾下きかの会津藩兵が一三三名を数え,他に桑名藩一一名,大垣藩一〇名,浜田藩五名,淀藩三名の戦死を数えた。なお淀藩では,他に家老の二男田辺治之助が自刃している。これは,戦場間近にあった淀藩城内が中立を守るも,藩兵が旧幕府陣営にいたため敗走の幕兵が閉門していた門内に逃げ込んだ,その責任をとったもの。結局,鳥羽・伏見戦では旧幕府側計二九二名が戦死した。
 五月一五日の上野戦争ではどうか,上野戦争は,四月一一日の江戸城明け渡しに反対する幕臣たちが結成した彰義隊を中心に戦われたわけだが,その彰義隊から,一七〇名もの戦死者が出た(多くは南千住円通寺に墓がある)。そのなかに,歴代将軍の位牌を必死に守護しつつ壮絶な死を遂げた,砲兵差図役の後藤松次郎も含まれている。彰義隊に合流した諸藩兵では,高田藩一七名,小浜藩一三名,浜田藩一〇名,桑名藩八名,関宿藩五名,会津藩と明石藩がともに三名,和歌山藩二名,その他の諸藩から計五名と,結局,諸藩計六六名,旧幕府側総計二三六名が戦死している。
 会津戦争ではどうか?
 戊辰戦争における最大の被害藩,会津藩の全戦死者は,三〇六〇名余りを数えるが(「余り」と記したのは先述の通り),鳥羽・伏見の戦死者一三三名はすでに数えた。その後の戦闘でも,会津藩は旧幕府軍側の先頭に立っていたため,各地で多くの命を失っているが,会津藩が占拠し,列藩同盟の根城となった白河城をめぐる攻防では,閏四月二四日から二六日にかけての戦闘で,新政府軍を斥けたものの,一六名が戦死した。新政府軍の再攻撃を受けた五月一日の戦闘では,二三五名もの戦死者を出し,白河城から退却している。
 その後の東北や北越の戦線でも数多くの命を失っているが,会津藩の悲劇,そして,戊辰戦争中の最大の悲劇は,なんといっても,八月二三日に開始された新政府軍による会津若松城(鶴ヶ丘城)とその城下総攻撃に始まる会津落城である。
 運命の八月二三日,早朝に始まった土佐・薩摩・長州を主力とする新政府軍の猛攻により,この日一日だけで,実に五八六名の死者を出した。すでに敗戦と観念した藩兵の老父母・妻の自害も多い。なかに,五歳・三歳・二歳といった,いたいけな子供たちが道連れとされたケースも目立つ。以下,二例だけを挙げよう。
 京都で学び,帰藩して国産奉行を務めた河原善左衛門(四三歳)は,弟の岩次郎(三九歳)・息子勝太郎(一五歳)とともに,城外滝沢村で戦死,残された善左衛門の母キク(六八歳)は,孫のクニ(九歳)とともに自害している。また,すでに六月二四日の磐城棚倉地域の戦闘で,孫の朱雀隊員,大学(二一歳)を失っていた小山田多門(八〇歳)は敗戦を自覚し,妻シシ(六八歳),大学の母ナミ(四五歳),大学の姉ミネ(三〇歳)らとともに,一家四人で自刃している。
 二三日の激戦で一挙に敗色の濃くなった会津藩は,それでも屈せず,二四日・二五日・二六日と日を重ねるたびに戦死者が累積していくのであるが,再び激戦のあった二九日には,またも一日で二一九名の戦死者を出している。また,戦闘後半の九月に入って以降ますます増えていく,一七歳・一六歳・一五歳といった白虎隊の死は,なんとも痛ましい限りである。
 こうして,八月二三日の総攻撃に始まり,九月二二日に会津藩が白旗を掲げて降伏するまでの一ヶ月間,総計一六五二名の会津藩兵・農兵らが戦死している。戦死月日の不明な藩領農民などを入れると,この一ヶ月間の戦死者の数はさらに膨大な数に膨れあがる。
 会津藩と行動をともにし,八月二三日の激戦を中心に若松城周辺で命を落とした会津藩以外の者も多数いる。一貫して会津と行動をともにしていた桑名藩が一八名,新選組関係で一二名,藩首脳が新政府恭順を決定したことに反対し,江戸詰藩士らが結成して会津藩に合流した郡上ぐじょう藩の「凌霜りょうそうたい」から五名の者が命を落としている。また,戊辰戦争勃発後の二月まで幕府老中を三度にわたって歴任した(内一度は老中格)唐津藩世子せいし小笠原長行ながみちが,藩主長国ながくに(長行の養父)の恭順方針に反対して江戸から家臣一八名を連れて会津へ亡命,六名が戦闘で命を失っている。
 では,戊辰戦争の最終局面,箱館戦争ではどうか?
 元幕府海軍副総裁の榎本武揚たけあきは,慶応四年八月,開陽丸以下八隻の軍艦を率いて江戸湾を脱出,途中の仙台で旧幕府歩兵隊らを糾合,一〇月に蝦夷地箱館に入る。箱館・江差ほかを占領して一時的な地方政権を樹立していた榎本軍らに対し,新政府軍は明治二年五月八日に総攻撃を開始した。一一日・一六日の激戦を経て,一八日に榎本以下が降伏するまで,旧幕府兵は計一三八名が戦死した。ほかに戦死月日の不明な者が二二七名もあり,また,蝦夷地に入った前年一〇月以来からの戦死者も多く,とりわけ二年四月二四日に箱館湾で始まった旧幕府軍艦に対する砲撃や各地の戦闘でも,すでに八日以前に一八二名が戦死しており,結局,蝦夷地での旧幕府軍戦死者は五四七名にものぼる。
 五稜郭に結集した旧幕府側の諸隊も戦死者を出した。新選組関係では五月一一日の戦闘を含め,二七名が蝦夷地で戦死している。
 このなかに,箱館政権の陸軍奉行並を担った土方ひじかた歳三としぞうがいる。五月一一日の戦死,三五歳であった。また,会津戦で辛うじて逃れ,小笠原長行に随って箱館入りした元唐津藩藩士も新選組隊に入っており,六名が戦死している。なお,長行の実弟,小笠原(三好)なかばは,箱館政権陸軍奉行を担当した大鳥圭介配下にあって,前年一〇月二四日に蝦夷地七重村で戦死している,一七歳であった。このほかに,盛岡藩二名吉田藩二名,岡崎藩一名,桑名藩一名がそれぞれ旧幕府側兵として蝦夷地で戦死している。
 以上,鳥羽・伏見開戦から箱館戦争終結まで,比較的知られた戦闘において,旧幕府側で戦死した者の数,その状況を見てきた。
 いずれの非業の死も,相手の新政府側と何ら変わらない死である。だが,そのすべての「魂」が,招魂祭に招かれることはなかった。
 会津藩の自決は事情が違うというならば,七二年後の一九四一年、東条英機ひでき陸軍大臣が全陸軍兵に下した「戦陣訓」で,「生きて虜囚りょしゅうはずかしめを受けず」と教えたのは何だったのか? あれは「会津魂」から学んだのではなかったのか? その教えに従って「玉砕」したサイパンの日本兵は「英霊」として靖国に祀られている。
招かれざる魂たち(3) 新政府側でありながら  先に記したように,新政府側でありながら招かれなかった「魂」も一三五九を数えた。招かれた「魂」は三五八八であった。だが,創建一三六年目の現在,数次にわたる追加合祀によって靖国に招かれた戊辰戦争時戦死者の「魂」総数は,三六〇八以上となっている(靖国神社編『靖国神社祭神祭日暦略』一九三二年同社,以後『暦略』と略記)。その後二〇名以上を追加合祀したことになる。「以上」,としたのは,維新政府樹立に貢献したとみなされた者の内に,嘉永六(一八六八)年以後戊辰戦争の勃発以前に非業の死を遂げた者も,『暦略』以後の資料では,一括して「維新前後殉難者」と括られているため,『暦略』刊行の一九三二(昭和七)年以後,一九三三年と三五年に「維新前後殉難者」として一括合祀された「魂」の内に,戊辰戦争期に限られる戦死者が何人なのかがわからないためである(それ以後「維新前後殉難者」の合祀は,現在に至るまでない)。
 そこで,新政府側にありながら明治二年六月の創建時に招かれず,その後もついに招かれなかった者と,その後の追加合祀に招かれた者とのなかから,事情のわかる僅かな例を数例拾い上げ,そのことによって,《何が「招魂」・「不招魂」の分岐点であったのか》を検討することにしよう。
 まず,その後も招かれることのなかった者から。
 秋田藩,評定奉行鈴木吉左衛門きちざえもん。秋田藩(藩主佐竹義堯よしたか,外様二〇万五八〇〇石)は平田篤胤を輩出した藩。藩内下士層にその流れを汲んで勤王を唱える勢力があった。そこに着目した新政府は早くから政府側に立つよう強く働きかけ,四月に入ると庄内征討の命を下した。去就を決めかね藩内は揺れ動いたが,閏四月下旬には列藩同盟が成立,周囲にならって秋田藩もこれに加盟。だが,七月一日には奥羽鎮撫総督九条道孝みちたか・副総督沢為量ためかず・参謀醍醐忠敬ただゆきらが,藩校明徳館を本営として入る。同じ日,列藩同盟の仙台藩からも同盟側で闘うよう説得に来る。両者の説得に挟まれ,重臣会議は連日連夜におよぶも定まらず。ついに七月三日朝,裁定を下さなければならない位置にあった評定奉行,鈴木吉左衛門が責任をとって自刃した。
 そのためか,同日夜藩論は新政府側で参戦と決まり,七月六日から出兵する。結果的には,吉左衛門は藩論を恭順に導くために一命を捨てたとみえる。同じ藩論統一のための犠牲とはいえ,尾張藩や刈谷藩また久留米藩のように,反政府派とみなされたため,政府派によって殺害されたり,切腹に追い込まれたのとはあきらかに事情が違う。にもかかわらず「魂」を招く基準にはなお入らない。
 それは,切腹によって藩論を恭順に決したとはみなされず,藩論を統一できなかったための切腹だとみなされたためであった。
 ほかに,新政府側にありながら招かれなかった一例。
 羽後矢島領,士卒相庭あいば順平。領高八〇〇〇石にすぎなかった羽後矢島領が,一万石を超えて藩屏に列したのは,庄内追討戦において功を上げたためであり,それは,東北戦争がほぼ終結した明治元年一一月五日のことであった。その間,寛永年間に失った大名の地位に復するため,領主生駒いこま親敬ちかゆき以下は,藩領相接する庄内藩の征討に死力を尽くす戦闘を展開した。だが,一士卒相庭あいば順平は庄内藩に内通したとの嫌疑を受け,同僚に斬首された。真相は定かではないが,内通の嫌疑が晴れなかったため,ついにその「魂」が招かれることはなかった。斬首の月日は定かでない。
 比較のため,逆の事例があることを示す。旧幕府側にあって,新政府側に通じたとされたために殺され,靖国に祀られた例である。名は伏せるが米沢藩で三名いる。合祀の時期は不明だが,あらかじめ新政府軍によって放たれた間諜かんちょう(スパイ)であったためであろう。
 「藩論統一の犠牲」の逆の事例もある。
 二本松藩(藩主丹羽にわ長国ながくに,外様,一〇万一〇〇〇石)は,列藩同盟成立の閏四月下旬に同盟に加わり,旧幕府軍側の戦列に加わる。だが南隣の三春藩が七月中旬に同盟を裏切り,新政府軍へ寝返ったため,戦況は危うくなる。が,それでも会津藩とともに闘うことに藩論を再度決定,七月二九日,新政府軍と激しい交戦となる。そのさなか,農兵司令士として出陣していた三浦権太夫は,勤王論者としては王師おうし(天皇の軍隊)へ弓を引くことはできぬとして交戦を拒否,阿武隈川東岸で空矢を放って自刃した。合祀年月は不明であるが,靖国に祀られている。
 同様の事例が泉藩(藩主忠紀ただとし,譜代二万石)にある。列藩同盟加盟に反対していた郡奉行松井兵馬は,藩論を同盟加盟に決定したことに抗議,六月二二日に自刃。これも合祀年月は不明であるが,靖国に祀られている。
 さて,すでに招・不招の分岐点は明らかになりつつあるが,より明確にするためには,創建時に招かれず,その後に合祀された二〇名余りの新政府側戦死者の事例を検証することが必要である。
 もちろん,府藩県の報告に基づいての「招魂」である以上,たんに調査漏れであった者も含まれていよう。だが,この二〇名余りのなかには,戊辰戦争の歴史的性格を考える場合に,見落としてはならない重要な人物がいる。赤報せきほうたい総裁,相楽さがら総三そうぞう,その人である。
 赤報隊相楽総三(本名小島四郎将満まさみつ)は慶応三年一〇月,西郷吉之助(隆盛)の密命を受け,江戸三田の薩摩藩邸に入り関東浪士を糾合,幕府を挑発する目的で江戸市中の治安を撹乱した。一二月二五日,上山藩・庄内藩兵による薩摩藩邸焼き討ちを招き,薩摩藩・浪士側に多くの戦死者を出しつつも,脱出して京へ向かう。明けて正月三日の鳥羽・伏見開戦以後,東征軍先鋒隊として発つよう西郷から命を受け出陣を準備,さらに太政官から年貢半減を約束され,感涙した相楽は出陣後,公家の綾小路あやのこうじ俊実としざねらを擁し,近江おうみ湖東ことう金剛輪こんごうりん寺で赤報隊(赤誠報国の略,まごころを尽くし国恩に報いるの意)を結成,年貢半減を触れつつ,中山道を先頭に立って東進した。
 がその後,新政府は財政難から年貢半減はできないと判断,相楽ら赤報隊に「偽官軍」の汚名を着せ,隊員渋谷総司らとともに捕らえ,三月三日,信州下諏訪で七名の隊員とともに,斬首のうえ,梟首に処し,多数の隊員を追放に処した。総三は三〇歳であった。
 「偽官軍」として梟首に処した新政府の立場からすれば,翌二年六月に,その「魂」を「招」くことなどはあり得なかった。だが,それからちょうど満六〇年の一九二九(昭和四)年四月二四日,第四五回の合祀に相楽総三と渋谷総司の「魂」が「招」かれた。
 相楽らが靖国に合祀されたということは,「偽官軍」として処断したのは誤りであったと,時の政府が認めたこと,軍部管理の靖国がその決定を追認したことを意味する。だがしかし,政府決定の背景には総三の孫,木村亀太郎の,筆舌に尽くし難い辛苦が隠されていた。一二歳の時,母栄子に祖父の「梟首」を聞かされて以来,亀太郎が己の半生をかけ,ひたすら祖父とその下で働いた同志らの雪冤せつえんを成し遂げるため,奔走に奔走を重ねた,その結果であった。
 その一切の経過は,作家長谷川伸による「木村亀太郎泣血きゅうけつ記」に詳しい。ここでは,薩摩屋敷で相楽の下で働いていた元浪士,峰尾小一郎を捜しあてたとき,峰尾が病の床から起き直り,総裁の孫,亀太郎に姿勢を正して語った次の言葉を記しておこう。
 われわれが若いときに夢みていた王政復古の実現を見ますと,薩長が権をみだりにいたし,われわれ関東武士が血みどろになって働いた功はすべて奪われて,彼らのものとなりました。明治維新の火蓋を切らすに至った功は,闇から闇です。(中略)彼らはわれわれのような関東武士の生き残りが,一人二人ずつ,世の中から消えてゆくのが望みでしょう。(中略)将来とも相楽総三の名は世間に出ないでしょう,必ず私のこの言葉は間違いますまい
 一九一八(大正七)年秋のことである。峰尾は間もなく亡くなった。亀太郎はこの絶望の言葉にも負けずなお活動。政界に隠然たる力を有していた渋沢栄一の力も得,やがて雪冤を成し遂げるのである。
 だが,相楽らの望んでいた生き方は,すでに六一年前に絶たれていた。斬首され,梟首された祖父と,その祖父の下で働いた者たちの,雪冤を果たすことのみが目的だった亀太郎にとって,靖国に祀ることは目的にはなかった。まして,相楽本人たちは,死して靖国に祀られるために戦ったわけではまったくなかった。「赤報隊」と命名したのも,天皇の恩に報いるためには死んでも良いなどという意味ではなかった。年貢半減の実現のために誠心誠意戦い,新政府軍を勝利させ,国恩に報いる,その意味を込めた命名だった。相楽らは,最後まで年貢半減の約束を信じて戦っていたのだった。

奈倉哲三「招魂」(後半)へつづく



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