|
組版からみた読みやすさとは何か
2004年9月
前 田 年 昭
句読点研究会世話人
『現代の図書館』第42巻第2号(2004.6.25)掲載
|
|
|
読みやすさを科学しようとするとたちまち壁にぶつかる。読みやすさっていってもねぇ,本をよく読む人とあまり読まない人とは同じじゃないだろうし,ブックデザインの好き嫌いはひとそれぞれじゃないの,という“個性と感性の壁”だ。
「どういう紙面が読みやすいか」を理論的に説明する難しさを,編集・組版・校正の立場から野村保惠は次のように端的に指摘した。
「いい仕事をたくさんみていないと判断は難しいのです。昔からの職人の世界に通じるものがあります。いい絵を,いい作品をたくさん見ているから,良し悪しの判断ができるのでしょう。あえてアーティストとはいいません。アルチザンの世界で,問題意識をもってみているかどうかが大切です。もっと科学的な理論的な説明をしろといわれそうですが,感性の世界はなかなか難しいものがあります」[注1]
読みやすさをカッコつけて可読性と言い換えても,問題は依然として先送りされるだけだ。読みにくいなと感じたとき,その理由を分析して説明することなく「可読性に欠ける」と断定しても,言われた側は気分がよくないだろうし,しょせん主観的なもの言いではないかと感情的にもなりかねない。論理として明示できなければ,本来は発展の契機であるはずの否定には節度が求められるゆえんである。
はたして,読みやすさは説明できるのか。 |
|
| ■ 読みやすさの先行研究 |
読みやすさについての先行研究は多くはない。そのひとつに,藤村和男(財団法人教科書研究センター研究部長)を代表とする「小・中学校の教科書の読みやすさ・わかりやすさに関する調査研究」(2000年度〜2003年度)がある。報告書のはしがきに「この調査研究は,現行教科書が児童・生徒の側から見ると,必ずしも読みやすい,わかりやすい教科書になっていないのではないかという問題意識から出発し,アメリカのreadabilityなどを念頭において研究を開始したのだが,未開拓の分野だけに苦労の連続であった」と書かれている。調査研究は総括,国語,社会科,算数・数学,理科の五つの部会をもうけて行われ,研究報告書も5分冊となっている[注2]。
ここで注目すべきは,読みやすさに関する先行研究として欧米における研究に言及し,その定義をとりあげているところである。
DaleとChall(1948)は,リーダビリティーを「集団の読み手に印刷された読み物を与えた場合,どれほどうまく理解できるか,その影響する要素の全数値(相互作用も含めて)をあらわすものであり,うまく理解するというのは読み手が内容を理解しているか,最も適切な速さで読みまたは内容が面白いと感じているかという程度を表すものである」として,主に言語学上の要素,いわゆる単語や文章の長さに関するものであるとし,他方,レジビリティーは,主に印刷の刷り具合やレイアウトに関するものであるとする。
しかし,Jill(1984)は,それ以外にもリーダビリティーについて考慮すべき要因として次の7点を挙げる。
(1)語彙:語彙が単純。(2)文章と段落の構成:文章が単純で短い。(3)簡潔な表現対装飾的な表現:不必要な情報は排除されている。(4)概念の積載:難しい概念を入れていない。(5)概念の深さ:あまり難しすぎない。(6)具体性対抽象性:わかるような例を挙げている。(7)情緒性:つまらない,理解できなくなるようなものを排除している。(同報告書,pp.136-137)
Anthony Haynes(2001)は,教科書執筆の入門書において,テキスト分析にもとづくリーダビリティー・フォーミュラのような統計的方法と常識的方法との融合を主張した。常識的方法とは,(1)語句の難しさ(2)文章構造から来る難しさ(3)概念的難しさ(4)デザインの難しさ――の四つから分析するというものだ。デザインの難しさとは,サイズやフォント,ページ・レイアウト,不明瞭な図表からくる難しさである。
そして現在,編集者,研究者,教員のいずれも,読み手の関心を惹く工夫に,つまりアクセシビリティー(accessibility)というキーワードで表現されることに研究の関心は移っているという(教科別最終報告書「国語科」,pp.110-111)。
読みやすさがテクストの語句や文体を総合したものであることは確かだ。リーダビリティという定義は興味深い。だが,学校のつまらない授業のなかで教科書が読みやすくなってどうするんだなどと毒づきたくもなる。
それはともかく,文は短いほうがよいなどの文章講座的な「読みやすさ」とは別のものとしての,組版にとっての読みやすさを考えてみたい。端的にいえば,もっとも読みにくいテクストをもっとも読みやすく組版するということが成り立つのかどうか,ということなのだ。 |
|
| ■ 中島らも原作の映画から |
「(……)書物は置き物ではありません。手に取って読むためのものです。ここから先の方がむしろ我々にとっては問題なわけでして,本来,読み易いことを至上とするべきはずの本が,実にいま読みにくいものになっています。ことに,日本の書物が。ここ半世紀に亘ってです」
地道な写植オペレーター波多野のところに転がり込んだ詐欺師相川。2人が医師協同組合の40周年記念誌のプレゼンテーションで売り込みのポイントにしたのは,丈夫で長持ちする造本と読みやすい紙面,つまり製本と組版の2点だ。四谷印刷が仕事をとることができたのは,2人のいささかおおげさな書物論の“演説”が効を奏したためだった……。これは,さる7月26日に急逝した中島らもの小説『永遠〔ルビ:とわ〕も半ばを過ぎて』[注3]である。この作品は映画化され,波多野を佐藤浩市が,相川を豊川悦司が好演,封切りがDTPへの業態変化のため写植がなくなっていく時期でもあったため,組版業界でもおおいに話題をよんだ[注4]。
昔の本,とくに昭和10年以前の本は,今の本にくらべて大きな活字で組まれており,読みやすかった,と波多野はいう。プレゼンテーションではコピーを2種類配る。1枚は明治23年に出た幸田露伴の『露団々』,五号活字(10.5ポイント,15級相当)でゆったり組まれている。もう1枚,昭和30年に出た『正宗白鳥集』は8ポイント(12級相当)で3段組でページいっぱいに組まれている。では,どうしてこうなったのか? それは先の戦争で物資の統制が行われ,出版用紙が払底。出版界は,ページあたりの文字数を増やす,つまり活字を小さくするしかなかったからだ。
「問題は,終戦から半世紀たっているのに,文字の組み方は当時と変わっていないということです。(……)戦争時代の用紙不足がですよ,戦後の出版界の価格競争に引き継がれて,今の子供たちの近視の要因になってるわけです。よく出版文化ということを言いますが,この国の出版は文化以前の問題をかかえているんじゃないでしょうか」
では,読みやすい組版のためには,文字サイズを戦争の影響の少なかった昭和10年以前に戻せばよいのだろうか。いずれにしても,読みやすさが文字の大きさにもとづくのなら,読みやすさの客観的定義はそう難しくないということになるが……。 |
|
| ■ 文字サイズという要素 |
出版社自身は「読みやすさ」をどう捉えているのだろうか。「読みやすさ」をキーワードにして検索してみると,キーワードを書名に含むシリーズものが見つかった。
「大きな活字で読みやすい本」と題されたもので,ひとつは作品社の『いまに語りつぐ日本民話集』全15巻。いまひとつはリブリオ出版の『怪奇・ホラーワールド』全15巻。後者は姉妹シリーズとして『ポピュラーミステリーワールド』『げんだいミステリーワールド』『もだんミステリーワールド』『ほっとミステリーワールド』がそれぞれ15巻ずつ出ている。
組版は作品社,リブリオ出版ともになぜかかなり類似している。判型はA5,本文はほぼ20級(14ポイント)31字詰め12行である。高齢者や弱視者を対象にした,出版業界で「大活字本」といわれるものである。
ここから導きだされるひとつの結論は,読みやすい本とは文字サイズを大きくしたもの,本文の文字をほぼ20級(14ポイント)で組んだものということだ。
また,岩波文庫にはワイド版があり,永井荷風『断腸亭日乗 上・下』はじめ200点近く刊行されている。判型はB6で文字サイズは通常版の約1.22倍。通常版で8.5ポイントのものなら約10.4ポイントに,9ポイントのものは約11ポイントになる。ウェブページには「特に50代以上の方々にご好評いただいております」と書かれており,文字サイズは異なるが,前記「大活字本」と同じ趣旨のものと考えられる。
はたして,大きい文字の組版は本当に読みやすいのだろうか。
高齢者や弱視者にとって大きい文字への要求は切実であろう。反論しにくい「正論」にはしばしば嘘がひそんでいる。高齢者や弱視者にとって読みやすい紙面が,高齢者や弱視者以外の人びとにとっても読みやすい紙面なのか。読みやすさを誰にとっても共通したものとして捉え得るという考えがあやしい。 |
|
| ■ 眼のはたらきという視点 |
先に紹介した小説『永遠も半ばを過ぎて』(映画『Lie Lie Lie』)の“書物論”,これは印刷会社の営業経験もある原作者中島自身の体験もあるが,実はアンチョコがあったのだ。原作の巻末に18冊挙げられている「引用ならびに参考文献」のひとつ,『造本の科学 上:造本篇』[注5]がそれで,収録された藤森善貢「本の読みやすさについて」の要点を作中人物にしゃべらせていたのである。
藤森はこのなかで「原稿指定とよばれる技術」の必要性を強調したうえで,「結論的にいえば,A5判で一段組とするならば,現在(引用者注:本書は1982刊)では10ポイント活字を使うのが理想的であり,四六判・B6判の一段組の場合は9ポイントがよいでしょう。行間については,可読性の面から原則として全角行間とし,つめても1ポイントくらい」としている。
文字サイズや行間の数値の根拠について藤森は,「明治初期から今日まで,わが国の書籍の代表的な判型にはどのような大きさの活字が使われてきたか。その組方はどのように変化してきたか」として51冊について検討を加え(pp.64-80),次のように説明している。
「脳科学者の研究によりますと,眼球の静止した状態でどれだけ読みうるかといいますと,大体1インチ(2.54センチ)平方のスペースがはっきり確認できる程度であるといいます。したがって,視線を動かさずには,5,6字先の文字はもう読めないことになるわけです。また,眼球の視力の限界は,活字の大小によっても相違はありますが,大体3インチから4インチ,すなわち8センチから10センチぐらいで,それ以上の長さを読むためには特別の努力(首を動かす)を必要とするといわれています。
これらのことから,活字を読みやすくするためには,その組方が問題となります。たとえば,1行の字詰を極度に長くすることは,眼球の疲労を早め,可読性を減少させますから,できるだけさけなければなりません。宣伝物のレイアウトで,とくに広告文の1行の字詰の長さをできる限り30字以内ぐらいにせよ,といわれているのは,この点からくるわけです。
また,戦前の書籍,とくに昭和10年以前の書籍が読みやすかったのは,菊判の判型でほとんど五号(10.5ポ)活字が使われ,しかもゆったり組まれていたからです。今日のA5判をみると,9ポイント活字を使って,しかも比較的版面を大きく組んでおり,非常に読みづらく感ぜられます。これは,単に活字が小さくなったという理由だけでなく,前に述べた眼のはたらきと大いに関係があるといえましょう」(pp.63-64) |
|
| ■ ツブ揃いの文字という要素 |
そして戦後,ワープロが普及した今,一般文書は「読みやすく」なった。ひとりひとり異なる手書きのクセが消失したからだろう。少し寄り道をして,手書き文字を手がかりに印刷文字がもつ特性を考えることにしよう。
「読みやすい細字,書姿の徹底的研究」との副題を持つ池田守哉・石井きよ子・松岡信子(共著)『細字レタリング』[注6]は,手づくりの新聞や雑誌などで用いる細字(ほそじ)レタリングの技法書である。ワープロが普及する前は学級新聞は手書きだった[図1]。
図1 手書きの新聞(前掲『細字レタリング』から):省略
「この場合の,表現や運筆の基準は,上手さや巧みさを求めることではなくて,新聞や雑誌を読む人,読者にとっての読みやすさ,何の抵抗もなくスラスラと読み流していける,クセのない,ツブ揃いの文字のことなのです」として,文字の大きさについては,「マス目の大きさでいえば,1字あたり3ミリから4ミリの文字が細字とよばれるもので,(……)4ミリから5ミリ前後の文字になると,中見出しにも使う大きさになるので,中文字と呼びます」とする。つまり,12級(8ポイント)から16級(11ポイント)ということで,大活字本の20級(14ポイント)より二まわり小さい。ここでは「ツブ揃いの文字が,一斉に並んでいる整った美しさ」という表現で「紙面の整列美が一番のポイント」としているのである。
読みやすい組版のためには適当な文字サイズを選ぶだけでなく文字の姿,大きさとバランスを選ぶ必要があるという。清書の道具としてのワープロ普及の理由のひとつには,やはり「読みやすさ」があった。
先の,藤森善貢「本の読みやすさについて」は「活字の選定(印刷所の選定)に当たっては,まずその印刷所の活字が設計されたのがいつごろであるかを知っておく必要があります。なぜかといいますと,活字というものは,その活字がつくられた時代の組版に適合するようにつくられているものだからです」(藤森前掲書,pp.81-82)と,含蓄のある指摘をしている。
それでは,今という時代の,読みやすい文字と組版はどこにあるのだろうか。 |
|
| ■ 組版とは何かという原点からの再考 |
組版とは何か。組版は言語を扱う技芸(芸術ではない)であり,文字をページに配置する技(わざ)であり,したがって絶えざる変化とともにある。この組版の哲学については,拙稿「組版の哲学を考える 規範的ルール観からの解放を!」[注7]で詳しく述べたので参照していただければ幸いである。
最初の問いにもどろう。組版からみた読みやすさとは何か。
結論からいえば,読みやすい/美しい組版一般など存在しない。組版にとって読みやすさ/美とは何か,へと問いを転換しなければならない。
府川充男は『組版原論』[注8]で,読みやすく,美しく文字列を「排列する技術」としてタイポグラフィがあると定義づけ,次のように端的に述べた。
「タイポグラフィの“素材”としての「すでにある出来合いの〈文字〉」は各々固有の字体・書体・書風の三指標の組み合わせの中に位置づけられている。(……)タイポグラフィが成立する場所は「すでにある出来合いの文字」と「すでにある出来合いの組版システム(ハードウェア−ソフトウェア)」,さらに「すでにある出来合いの組版規則」の組み合わせのなかにのみ存在する。(……)「デザイナー」や「編輯者」が恣意的に組版ルールの轍を脱するのは,極めて例外的な場合を除いて「タイポグラフィへの破壊行為」となる外ないのである」
その時代と社会の,できあいの,文字・組版システム・組版規則にたちかえれ,ということだ。文字がある(本文用か見出し用か,横組み用か縦組み用か)。基本フォーマットがある(ページの大きさに対する版面サイズ,天地ノド小口の余白,文字サイズ,字送り,行長,行間)。組版規則がある(さまざまな調整)。これらの総合した力が,組版の姿をつくりだすのである。『PREMedia Part11』(印刷出版研究所,1999年4月)が片塩二朗,谷口廣基,向井裕一らの労作を収めた“可読性って何だ?”という特集を組んでおり,参照されたい。 |
|
| ■ 好みや美という切り口 |
異なる分野ではあるが,笹原宏之らは漢字の字体と字形をめぐる研究[注9]において「好み」と「なじみ」というキーワードを導入している。最初から,主観的なひとりひとりの好みだと開き直っているようにも思える。読みやすさ,というモノサシは正否,上下をともない,読みにくい=ダメと断じたことになる。好みというモノサシは上下を生まない。しかし,読みやすさを好みやなじみと言ってしまうと,どこまでも統計的にはこうだということしかいえない。多数の人が好みやなじみとして意識したことがらを寄せ集めてみても,「アルチザンの世界で,問題意識をもってみているかどうか」(野村)という意味での読みやすさとは距離があろう。
ブックデザイナー鈴木一誌は「デザイナーにとって可読性はなんの決定の支えにならないです。それは最後はデザイナーの感覚しかないですね。(……)いい組版,いい書体とはなにかについて,可読性で逃げ切れなくなって,今度は美しい文字,美しい組版となるのですね。美しい文字,美しい組版とはなんだというと,これはなかなか難しい」と述べている[注10]。
美とは何か。美は言葉にならない。佐々木健一は「美は言語化の挑発であり,言葉にならないということは,この言語化の挫折」だとしたうえで,「近代美学は藝術美を美の典型として考えてきたが,この美の包越性の考えに従えば,藝術以下と見なされてきた職人仕事(craft)にも,また単なる実用品と見られてきた工業製品にも,また善の領域とされてきた行為にも,美をみとめることができる。だが,美の本領は自然美にこそあり,藝術を初めとする文化的な美は自然美の影のごときものである」と指摘している[注11]。
組版は芸術なのか。ブックデザイナーは芸術家なのか(これはブックデザインを売り切りと考えるのか,フォーマットの貸与と捉えるのかということともかかわってくる)。組版=芸術とする立場から美しい組版を定義づけようとすることは愚かしい。美しい絵画一般がないように美しい組版一般などどこにも存在せず,存在するのはあれこれの個別の美しさでしかないからだ。私は組版は芸術ではない,技芸である,と考えている。 |
|
| ■ 余白、字間、行間…… |
19世紀,ヴィクトリア朝時代のイギリスにウィリアム・モリスという工芸家・デザイナーがいた(1834-1896)。モリスはアーツ&クラフツ運動を率い,近代デザインの創始者といわれた。“民衆により民衆のためにつくられる芸術”をうたい,理論的にもカッコよくわかりやすそうな内容を説いたのだが,モリスが主導したケルムスコット本は,コテコテで装飾過剰ともいわれてきた[図2]。
図2 モリスがデザインした『チョーサー著作集』(『たて組ヨコ組』39,モリサワ,1993から):省略
このモリスの理論と実際について検討した小野二郎の「書物の「読み易さ」について」という論考がある[注12]。小野は,モリスが主導したケルムスコット本の実際は,モリス自身の書物についての自らの理想を裏切っているのかと正面から問うている。
「美しい書物をつくる上で,何よりも肝心なのは間隔あけ〔ルビ:スペーシング〕と位置どり〔ルビ:ポジション〕であるという。字と字の間の,語と語の間の,行と行との間の間隔のあけ方と版面のページ全体の中の位置どり,つまり四方の余白の大きさとその相互関係である。これらが正しく行われているならば,きわめてありふれた活字を使用しても,すくなくとも見苦しくはならないという」(「ケルムスコット・プレス設立趣意書」,小野前掲書p.45から孫引き)
そして,字間の白はできるだけ小さくなくてはならず,語と語の間隔は語と語が区別できる最小限以上の白は不必要である,と説明がつづく。文字がそこそこでも余白が重要という指摘だ。しかし,挙げられた例は語と語の間隔(ワードスペース)の調整によって姿が一変する欧米語系の文字体系であり,日本語組版にはそのままあてはめることにはいささか無理があるように思う。日本語組版は改行の位置決めの規則とそれにともなう文字間隔の調整が紙面の姿を形づくっている。
しかし読みながら同時に,他方で私は,ブックデザイン,とりわけ本文設計,フォーマット・デザインの分野で現代日本の一部に横行している本文組版がどうしても浮かんでくるのである。
括弧類の(ときに約物の階層性を無視した)一律半角取り,括弧内文字の(文脈を無視した)一律サイズ下げ,本文のカナ詰め(プロポーショナル組み)などの傾向を特徴とする組版は,テクストからできるだけその意味を捨象して機械的に処理しようとしたものである[図3]。これは,私にはモリスの機能主義的な発想とそっくりにおもえるのだ。そして,地の平アミや罫線などの“過剰な”装飾とあいまって,とくに縦組みの,単線構造の本文組版では,読み手に苛立ちを与えることが少なくない。
図3 最近の本文組版の事例〔原寸,2002年7月〕:省略
だがしかし,小野はモリスの過剰な装飾はモリス自身の機能主義的な理論を裏切っているのではないかという見方に対して,それは何か見落としているのではないかと指摘し,さきの論考をこうむすんでいる。
「「読みにくい」などといっている時は,たいていは「読めない」のであって,読めないときは「見る」ことさえ出来ないだろうと思う。「読むための本でなくて,見るそのための本だ」などという未練がましい批評は,事実に反するだろう。実際はケルムスコット・チョーサーを,全ページを読まずに見ることはない。読まなくて見ないだけのことだ。モリスは読まれもせず見られもしない「機能主義」的書物をつくったということになるのだろうか」(小野前掲書pp.50-51) |
|
| ■ 結論 |
組版からみた読みやすさとは,日常のなかで繰り返され,変化しながらもゆっくりと流れる,できあいの歴史(文字と組版)のなかにあり,読みやすいフォーマット・デザインとは,今という時代の,できあいのあれこれの組み合わせの妙,バランス感覚にある。
テクストの受容には表記から組版までが密接にかかわっていること――こうした観点から近年,テクストの科学とも言うべき研究が進み,また認知や記憶などの分野では自然科学からのアプローチが深められている。とはいえ,私たちは私たち自身が生きるこの時代の文字と組版について,まだまだよくわかっていない。
その本は読みやすいか?
(敬称略)
〈注〉
[注1]「日本語の文字と組版を考える会会報」第9号,同会事務局,1998,p.5
[注2]科学研究費補助金(特別研究促進費(1))研究成果報告書『小・中学校の教科書の読みやすさ・わかりやすさに関する調査研究』課題番号12800005,藤村和男(東京都江東区千石1-9-28(財)教科書研究センター内),2004
[注3]中島らも『永遠も半ばを過ぎて』文藝春秋,1994(文春文庫,1997,で読むことができる)
[注4]中原俊監督『Lie Lie Lie(ライ・ライ・ライ)』東映,1997(ビデオVRZF00390,ポニーキャニオン,で見ることができる)
[注5]日本エディタースクール編『造本の科学 上:造本篇』日本エディタースクール出版部,1982,pp.61-82
[注6]池田守哉・石井きよ子・松岡信子(共著)『細字レタリング』日本機関紙出版センター,1980,p.10
[注7]拙稿「組版の哲学を考える 規範的ルール観からの解放を!」〔『WindowsDTP PRESS』vol.8,技術評論社,2000,pp.34-41〕(http://www.linelabo.com/wdtp0008.htmで読むことができる)
[注8]府川充男『組版原論』太田出版,1996,pp.213-216
[注9]笹原宏之,横山詔一,エリク・ロング『現代日本の異体字 漢字環境学序説』(国立国語研究所プロジェクト選書2)三省堂,2003
[注10]「日本語の文字と組版を考える会会報」第6号,同会事務局,1997,p.8
[注11]『事典 哲学の木』講談社,2002,pp.801-803(「美」の項)
[注12]小野二郎『小野二郎の書物論』晶文社,2001,pp.43-51 |
| (おわり)
|
Jump to
|
[Top Page] [BACK]
|
| ご意見をお待ちしております。 |
電子メールにてお寄せください。
前田年昭 MAEDA Toshiaki
[E-mail] tmaeda@linelabo.com |
|