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破綻しないルールは役に立たない能書きだ!
「日本語の文字と組版を考える会」第13回公開セミナーにおける発言
1999年4月18日
前 田 年 昭
ライン・ラボ代表
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前田です。逆井さんが凸版印刷に入社された30年前に私は中学生で新聞部でした。それで当時は活版でした。私は活版から写植,そしてDTPと,ある時は書く側,編集する側,整理する側で,ある時は組む側で仕事をしてきました。
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ルールを「守る」ことより,破綻を意識すること
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この逆井さんの本でいいところ,共感したところは,行末に注目していることです。これがいちばんです。それと関連して「広域調整」ということについていろいろ考えて言っている,この点に強い共鳴を感じました。
ルールということについて,深沢英次さん(元ワイアード テクニカル・ディレクター)はこの逆井さんの本に対する共感として「ロジカルでいい。しかし守れる人はいないんじゃないか」とおっしゃっています。それから祖父江慎さん(エディトリアル・デザイナー)は「覚えることが多くなるというのは具合が悪いから意味のないルールははずしたほうがいいんじゃないか」ともおっしゃいました。が,私は少し違う感じ方,考え方をしています。最初から守りやすいルールというのはほとんど意味がない,役に立っていない,だからルールを立てて,――この点で太等信行さん(写植・DTPオペレーション)がおっしゃったように――一貫しているということが大事なんだということなんだと思います。一貫させるためにどういうルールを立てるか考えて,考え抜いた時にやはりどうしても《ルールは立てたとたんに破綻が約束されている!》――そう最初から割り切って自覚することだと思うんです。破綻しないようなルールというのは単なる能書きで,実際には何の役にも立たないということです。よく言うじゃないですか,失敗しない人というのは仕事をしていない人だと。これは真理だと思います。同じように,破綻しないルールというのは単なる役に立たない能書きに過ぎない,問題はその破綻を意識することだと思います。
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ルール化とは「なぜ」を追求し,考え抜くこと
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どういうことかというと,例えばさっきも何人かの方から共通して出ましたけれども,縦組中の欧字,アルファベットを横倒しにするのかしないのか。これをいくら分類して,こういうケースもあるこういうケースもあるというふうに分けても解決しません。表記の問題としても,これは解決できません。
縦か横かというのは私も毎日毎日悩まされているもので,表記ハンドブックとか片っ端から見ましたけれども,新聞社とか通信社のハンドブックが比較的詳しく例が書かれています。その中でもいちばん事例の多いのは講談社の校閲局のルールブックです。それは縦組で漢数字を使う場合,あるいは洋数字を使う場合,あるいは漢数字を使う場合でも単位語,「十」とか「百」とかそういう単位語を入れる場合と入れない場合,結局それをあわせると三つの例に分かれるということで,例がとにかく20ページ近く列記されています。ところが,参考にはなるけれども役に立たないんです。なぜ役に立たないかというと,例として示されているから,自分が解決を求めている例にあてはまるものというか,あるいは推測がつくもの,似ているものがなかった場合,どうしたらいいかやっぱりわからないわけですね。より多い例が要るということになるわけです。こういうふうなルールのつくり方というのは,やっぱり覚えるのが大変というか,机の横に貼っておけるような量ではなくなってしまうわけです。やっぱりルールはそうじゃないと思うんですよね。
例えば親文字にルビをふる。グループルビではなくてモノルビで地名の京都,京に「きょう」三つルビ字が付き,都に「と」という一つのルビが付く。あるルールブックではこれは親文字の間もルビ文字の間も空くんだと,そういう場合もあるし,ひっつけるベタの場合もある。分類がされているだけなんですよね。それでは実践的な解決にはならないわけです。だからやっぱり破綻を恐れず最初から一貫してどういうルールかというのを考え抜く,なぜこうするのかということを考えて理屈を立てる,立て続けるというのがルールであるべきじゃないかと思うんです。
それで,ルールは破綻するものというのはこれは真理であって,例えばさっきの縦組中の欧字を横倒しするのかどうか。2年ほど前に創刊されたばっかりのある雑誌のアートディレクションをやっている方に取材というかお話をうかがいに行ったことがありますが,3文字までは立てて4文字以上は横倒しするとおっしゃるわけです。事実,当時はその雑誌はそういうふうに組まれていて,CDというと立ててあって,CD-ROMというと横倒しにしてある。おまけに,CDというのは和文従属書体を使い,横倒ししてあるCD-ROMは欧文書体が使われている。こういう例を見ると,その破綻自体を自覚しているのかちょっと疑問に思ってしまうわけですよね。だからその立てた時のルールというのはやっぱりなぜそうなったのかという理屈が立ってないとだめだと思います。
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禁則処理は切断に対する抵抗の力だ
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破綻したからいけないということを私は言っているんじゃないんです。破綻するのは当たり前なんです。ルールを立てるわけですから。かつての東映映画『仁義無き戦い』でしたか,「チャカで生きればチャカで死ぬ」という惹句がありましたけれども,ルールを立てると必ずそれは破綻するわけです。ただ,どこで破綻するかということを自覚し予想する。そういう時に文例している事例集であるこれまでのルールブックというのはやっぱり問い直されていると思うんです。20年以上前の写研の『組みNOW』(のちに日本写真製版工業組合連合会など業界3団体からも出された)以降,それを超えるルールブックがまだない時に,この逆井さんのような本とかあるいは藤野薫さんの代表編『便覧 文字組みの基準』(日本印刷技術協会)がもうすぐ出るそうですけれども,そういういろんな本が出てくるというのは非常にいいことだと思うんですよね。
それでは分類でないルールというのはどういうふうに立てるべきか。それはやっぱり体系として,例えば禁則対象,禁則処理ということについてよくルールブックに書かれています。行頭禁則,こういう文字は行頭禁則でこういう文字は行末禁則だと,たいてい列記されています。でも,それはやっぱり別のものじゃないわけです。改行という行を変えるということで発生した,ついこの間までは隣り合わせの文字だったものが行頭へ来たり行末へ来たりする。行頭と行末というのは,切断もあるけれども隣り合っている。そういうふうに見ると,よく見てもらったらわかりますけれども,どのルールブックでも少し考えが違うのも含めて,行頭禁則文字のほうが多いです。行末禁則の対象文字よりも行頭禁則の対象文字のほうがずっと多いです。つまり行頭には句読点とか終わり括弧類(受けの括弧類),あるいは拗促音,音引き,中黒,これは行頭禁則だというふうに書かれています。
でも,その行頭と行末は別でないというのはどういうことかというと,改行という行為によって強い結びつきの塊が途切れる。例えば拗促音は自立している力が弱いから前の文字に従属している。音引きもそうです。受けの括弧なんかもそうです。受けの括弧はおこしの括弧と受けの括弧のセットにされた一つの文字列,この強い結びつきの,しかもいちばん後ろですから,受けの括弧だけが切り離されているというのに対して抵抗がある。つまり意味の塊が改行によって断ち切られる,それに対して禁則と,それはやめようよと。そういうふうに太等さんのいい言葉を借りると「1字ぽっち」。だから行末の1字ぽっちだけじゃなくてその塊から1字ぽっち,一つはずれる,孤立する,それを避ける。そういうのが行頭・行末禁則だと思うんですね。だからよくルールブックなんかでしたり顔して行頭は天ツキにするとかしないとか,いくつかのパターンがあるとか,分類していますけども,行頭よりもむしろ私は行末に注意をはらうということが大切だと思います。
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逆井さんへの共感は「行末への着目と広域調整」
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最初にも言いましたが,こんどのの逆井さんの本でいいところ,共感したところは,行末に注目していることです。これがいちばんです。それと関連して「広域調整」ということについていろいろ考えて言っている,この点に強い共鳴を感じました。
行末のことで言うと,この本の中でも書かれていますし,逆井さんは88ページ,89ページで,行末句読点の位置揃えについて述べておられます。今日の補足の問題提起でも逆井さんはこの点をおっしゃいました。つまり行長40字詰めで40字目にテンとかマルが来た場合に,ぶら下げる場合にその直前までの39文字を40字目まで引っ張って伸ばして強制的にぶら下げで揃える。つまり行末の句読点がぶら下がるものとぶら下がらないものの混在というのを不揃いを許さない,そういう組版についてとっかかりを与えてくれました。これは非常に大切な問題だと思います。
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ぶら下げをめぐる4つのルール
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私自身はこの行末の処理,ぶら下げありかぶら下げなしか,あるいは混在を許すのか許さないのかをめぐって4つのルールを考えています。4つのルールというのは「強いぶら下げあり」と「弱いぶら下げあり」,「強い下げなし」と「弱いぶら下げなし」と,とりあえず名付けるわけですけれども,どういうことかというと,「強い」というのは行末の並び線への揃えを強く第一義に置く,そういう組版の場合,40字詰めでたまたま41字目に来た句読点は当然,ぶら下がりますけれども,40字目に来た句読点も強制的にぶら下げる。こうすることによって,逆井さんの冒頭のサンプルでもありましたけれども,このメカニックなページの箱の外枠,特に下の並び線を強く意識した組版となります。これに対して「弱い」というのは,一字一字の横の並びのほうを重視して行末が不揃いでもいいのではないか,それは許容しようというものです。
行長の短いぶら下げなしのものでも,行末の並び線への吸着力が強い組版というのは当然あります。つまりデコボコを減らすために,行末は例えば16字詰めの組版だったとしまして,16字目にたまたまテンとかマルが来た。それを半角取りにして前の15文字を15.5倍取りに字取りする,均等にあける。そうすることによって字間を割ってでも行末の終わり括弧類とか句読点を強制的に半角固定にする。これが強いぶら下げなしの組版。そういうふうにして私はルールを立てます。
版ヅラのその景色,それをどう揃えるかというのは,西井一夫さん(編集者)が指摘されたとおり組版は単なる見てくれであって動機と志あっての組版だと,私も思います。しかし,読者が,読み手がその物語に没頭できるような,一時記憶というか字を追っているところは空気のように通り過ぎるようなそういう組版というか,わざとらしい調整ではなしにそういう組版がいい組版だと私は考えていますので,その行末のことを特に重視しているわけです。
ここまでこういうふうにルールを立てても,やはり例外処理というのは当然,発生します。行長が長いものは長いものなりに,行長が短いものは短いものなりに,例外処理は発生します。例えば『週刊漫画アクション』(双葉社)のコラムのうちの3本は私が毎週,組版をしてもうすぐ1年,すでに40週ぐらいになりますが,これは15字詰めと16字詰めなんです。行長が短いわけです。強いぶら下げなし,つまり行末半角固定にしていますけれども,3本のうち最低1本,毎週のように例外処理が発生します。追い出し基本と立てていても追い込まざるをえなかったときなど,例外処理がない回はほとんどないです。そういうものだと思うんですよね。だからこそ,その時に守れるルールというふうにルールを減らして,最小限ルールというふうにするのではなしに,理屈を立てて,なぜそうするのか,こういうふうにすると「1人ぽっち」文字が出るよ,それを避ける,孤立を避けるとか,そういう目的と意義のほうをはっきりさせることによって組版ルールというのは深めることができると思います。
ルールは立てて,破綻したらまた立て直して,そして立て続ける,考え続ける。そして一貫したものとして深める。そういうルール観を私は持っています。
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組版は孤立を避ける技術である
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結論として言えば,組版の要諦というのは《文字とか単語,記号を含む文字列の孤立を避ける技術》だと思うんですね。孤立を避ける技術というふうに置いた時にルールというのを覚えるものじゃなくて実際に役立つものとして使うことができると思います。私が30年前に新聞部員だった時,そこの新聞部はコンクールでも何回も受賞したりするような学校の新聞部だったものですから,ハラキリはいけないというふうにとにかく厳しく教えられたわけです。新聞の組版でハラキリというのは,タナ線,罫線が左から右まで通っている,それがいけないと言われた。なぜいけないのかということを考えないと,そんなのは単なる権威主義でしかないと思うんですよね。現実に,8年前でしたか,毎日新聞が大きな改革をやって斬新なレイアウトを採用した時に,ハラキリを大胆に,ほとんど全ページにわたって採用して成功した。ルールというのはそういうものだと思うんです。生きた言語にとっての文法というのも現実の人々の言葉の中での約束事を取り出したものというふうに考えたら,組版ルールというのもその時代,その社会,その時期,その本の目的に沿った約束事であって生きたもの,動的なものだと思うんです。だから時代が変われば変わるかもしれないし,ただその基本というのはやっぱり孤立を防ぐもの,孤立を避けるものだ,と思います。
30年ほど前,「連帯を求めて孤立を恐れず」という,若干,ええカッコしいの言葉もありましたけれども,組版の言葉で言えば「連帯を求めて孤立はいやや」というのが組版の要諦ではないかというふうに私は思っています。
以上です。
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(おわり)
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