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印刷出版のためのシステム構築法 完全版
システム決定までの経過と理由
2003年2月
前 田 年 昭
ライン・ラボ
JAGATテキスト&グラフィックス研究会会報 Vol.9 No.10 通巻202号(2003年2月21日付)掲載〔同研究会拡大ミーティング「Adobe InDesignを用いたシステムインテグレーション事例」での講演記録完全版〕を若干補訂
→講演レジュメ「印刷出版のためのシステム構築法 InDesign による中国語辞典制作の折り返し点で」
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| 折り返し点までの基本経過 |
チームを組む
チームを組んでいろいろ失敗した経験をもとに,印刷出版に関わるシステムはどう組めばよいかという話をしたい。新星出版社『情報処理用語辞典』には,システムとはハードウェアとソフトウェアの組み合わせだと書いてあるが,人の要素とものの要素,どういう人とチームを組むのかということを根本の問題として押さえておきたい。
組版は,書き手と読者との間,情報発信者と受信者の間の架け橋のようなものである。組版は,府川充男氏が『組版原論』(太田出版)の中で書いているように一種の技芸である。また,朗文堂の片塩二朗氏も言っているように非常に工学的な要素が強い。
ヘンリー・ペトロスキーの『橋はなぜ落ちたのか』(朝日選書)は,作った橋が落ちた失敗例を振り返った本である。その結論で,工学の設計はモデル化・数値化が非常に困難であり,そういう意味では失敗の経験を振り返ってそれを生かすことの積み重ねであって,ひとつの正解があるのではないと書いている。印刷や組版も同じだ。失敗がなくても褒めてもらえないが,失敗があると悔やむことになる。
今回の『中国語辞典』のチームは,東方書店が版元で加藤氏が担当の編集者である。印刷はフクインでCTP出力して印刷する。制作チームとして,デザインフォーマット設計がデザイナーの鈴木一誌氏,私は技術的にどういうシステムをどう組み合わせて使うか,誰と誰が組んでどういうふうに仕事をするかということを相談させてもらう便利屋の役目である。
このようなチームを組むのは山へ行くのに似ている。泊まりがけか日帰りか,夏か冬か,体力の強い者だけか,子どもがいるかなど総合的なことを判断して装備を決め,準備し詳細を決める。
辞典という編集期間の長いものは,OSやアプリケーションのバージョンは途中で変えたくないという要求がある一方,移り変わりの早い業界だから判断に迷うところがある。『中国語辞典』も1986年頃から構想されたものだが,私が行動を共にするようになったのはこの3,4年である。刊行時期である2003年の秋にどうになっているか見通すのは怖かったが,一定の決断をしなければいけない。
フォント
とくに読者の目に触れるフォントについて,最後にCTPでプレート出力するときに安定した出力が得られるかどうか検討して決断しなければいけない。
どんな辞典でも特殊記号類も含めて必ず外字を作成しなければならない。どういう文字集合でどういうエンコードにするかも決定しなければいけない。
そういうことを考えると,今回のポイントの第1は日本語と中国語との混植だということであり,書体については某印刷会社のCTSシステムではないものを使いたい。しかも,積極的にそれぞれの言語文化圏で高い評価を得ているフォントを使いたいという要望があった。
それで日本語はヒラギノ,中国語は北大方正,ピンインフォントは,日本における中国語の組版の慣習からして自然であること,オーソドックスであることという要望に応えるものがなければ,作ろうということになった。作るなら一流のところがいいだろうということで,字游工房に依頼した。
個人営業に近い中小零細企業が生き残ろうと思えば,一流の人,少なくとも自分が知っている限りでもっともよい仕事をしている人とチームを組み,そのことによって自分自身も勉強するというのが私のこれまでのやり方である。
二流,三流のチームを組めばコストが下がるかというとそんなことはない。外字制作はどこへ頼んでもコストはそう大きく変わらない。一流のところに頼んだから10倍かかるということはない。それなら,後々残る印刷物にはいい字を使いたいというのが私の考え方である。
InDesign
OSはWindows,文字集合とエンコードはUNICODE,フォントはOpenTypeとTrueTypeの混在とし,組版アプリケーションはInDesignと決定した。
当時,別の辞典の制作システムをどうするかという相談があり,InDesignをはじめとした組版ソフトが和文組版にどれだけ対応しているかテストを行った。その結果は『PREMedia Part15 日本語DTP ホントの実力』(印刷出版研究所,2001年6月)に掲載されているが,その際,InDesignも徹底的に検証したのでむしろ積極的にInDesignを選んだという経緯がある。
東方書店の加藤氏からUrbanPressは頓挫したという報告があったが,これは東方書店での内制化を断念したという意味もあるが,UrbanPress自体が開発を中断したという事情もある。しかし,UrbanPressは表組の機能を始め,和文組版については非常に優秀なソフトである。タグ仕様もわかりやすくプログラムしやすいよいソフトである。しかし,デザイナーがあれこれレイアウトをシミュレーションしたり,編集者がいろいろ考えながら原稿に手を入れるには少し硬い作りになっている。はっきりした指示があってそれを実現するソフトとしては非常に優秀だが,編集者の日常の道具としては少し辛い面があった。
そういう寄り道を経てInDesignに決めた。
『PREMedia』での組版ソフトの検証のときの要素以外に,今回の『中国語辞典』の制作においては,混植であるという側面とデータ処理に基づく自動組版であるという側面がある。
2000年5月に手がけた『日英中韓カタカナ語見比べ辞典』(講談社)の仕事は,WindowsのUrbanPressで組版してPDFにして印刷した。もとのデータは中国語,朝鮮語それぞれ著者からWordでもらい,こちらでデータ処理して1本にしてタグ付けした。そのノウハウについては『WindowsDTP PRESS vol.8』(技術評論社,2000年8月)に発表した。
また,自動組版の最近の経験としては『JIS漢字字典』(日本規格協会)がある。初版は1997年11月で2002年5月に増補改訂版を出した。『日英中韓カタカナ語辞典』はUrbanPressのタグ処理のプログラミングはライン・ラボ社内で行ったが,『JIS漢字字典』の初版はQuarkXPressで組み,AppleScriptのタグ付けはPerlで行った。増補改訂版は,同じことを同じシステムでやるのはおもしろくないという野次馬根性もあってEDICOLORで組んだ。これはいい経験であった。
『中国語辞典』では,全体の流れを作る相談に乗ったことと,オリジナル変換プログラムとオリジナル自動タグ生成プログラムを作ったのが具体的なライン・ラボの仕事である。
コンバータ
出版物は,基本的な仕様,すなわちどういう文字を扱うか,どういう組版ルールでどう組むかという大まかな仕様と刊行時期が決まって最初にやることは原稿データを集めることである。
辞典は編者のもとに多数の書き手がいる。集まるデータが似たようなものだったらそれに合わせてコンバータを作ろうと考えたが,MacもあればWindowsもあり,エンコードもさまざまであった。全部対応するにはそのためのソフトを買うだけでも馬鹿にならないというくらいの種類があった。
また,たんにテキストといってもいろいろな種類がある。MS-DOS上で独自の割り当てをしていたり,PC98の時代にはボードを使って中国語の文字を画面表示させるなどいろいろなものがあった。理論的に整合していたとしても一番上のレベルに合わせるのは無理である。たとえば,山に行くときも体が弱い人がいればその人をかばうようにチームを組む。強い人を基準にチームを作ると必ず失敗する。つまり,編集は編集で本業で勝負をし,書き手には日本語と中国語の言葉の面でプロとしての力量を発揮してもらうのが本筋である。筆者にまでXMLでなどと要求するのは無理であった。
結果として,シフト符号化方式のGBのデータとシフトJISの日本語データが混在しているデータをUNICODEのデータに変換するソフトを作ってもらった。
調べてみると,シフトGB方式でも日本語Windows上のフォント情報を参照して日本語と中国語を見分けて変換するシェアウェアもあったが,画面上では同じ形の漢字でも,中国語の漢字なのか日本語の漢字なのか,UNICODE上では同じコードポイントでもしっかり分ける必要がある。ところが,中国語ソフトは各社各様で,割り当てを独自に変えている部分もあるので,コンバータを版元の編集者側で触れる仕様にしたいということでコンバータを作った。それがUniChinというコンバートソフトである。区切り記号などが自由に指定でき,指定した区切り記号を保存できる仕様にしたので,いろいろなデータが集まってきてもそれに対応できるようになった。
データと情報
そのコンバータ作りとも関係するが,長期に渡る自動組版の場合にはデータやデータベースという考え方がポイントになる。データとかデータベースというと編集や印刷の現場からすると新しいことを勉強しなければいけないとか,Excelを使わないといけないという誤解があるようだが,そうではない。そうではないというところからチームを組み,使うソフトも考えればよい。編集者は編集者の使い慣れた道具を使えばよいのである。
JISの情報処理用語でも違う定義になっていると思うが「データ」と「情報」は違う。あるルールにしたがって数値化され,コンピュータでの処理に適するように形式化され,規則化され,正規化されたものがデータである。Wordで持って来ずにカンマ区切りのCSVで持って来いとか,Excelで持ってこいというような無法な要求をするのではなく,原稿データがWordの場合はこういうふうにしてもらうということをお互いチームの中で打ち合わせるのがポイントだった。
『中国語辞典』の場合は,見出しの親文字をどういう記号で囲むか,品詞分類はどういう約物で挟むか,あるいは縦の太い罫線と細い罫線で区切られた後から中国語の例文が始まるとか,スラッシュを挟んだ後が日本語訳だということを決めていった。
これは一種の規則である。しかし,フィールドとレコードで区切られたいわゆるデータベース,Excelの住所録のような形にしようとすると,空いている欄が多くて編集者はやっていられなくなるし,見落としも発生する。そこで見たまま編集できるWordは変えたくなかった。すべて規則化されているデザインを作るのがフォーマットを作るということだが,これはそこに力を注いで作られたフォーマットである。
『JIS漢字字典』は書き手が情報処理分野に強いJISの委員会の人なのでCSV区切りのデータを受け取ったが,仕事は千差万別で,必ずしもそううまくいくわけではない。『JIS漢字字典』の場合は罫線が多用されたフォーマットだが,自動組版するために,罫線はすべて外字として作った。太い罫があって細い罫があり,見出し字があって下にコードが並んでいるが,これは全部縦組みの中でサイズの異なる文字を順番に配置するという作りになっている。UCSやシフトJISのコード番号の数字は縦中横だが,桁数が多いので通常のEDICOLORではできず,開発元に依頼して機能を変えてもらった。優秀な組版ソフトは途中でデータが飛んだりしないように,特殊な使い方をしてはいけないとか,扱う文字コード以外のデータが混入すると正常に動かないようにガードしている。EDICOLORはそういう優秀さがあり,幾つかの機能を開発元に依頼して変えてもらった。
それに比べると『日英中韓カタカナ語辞典』は非常に単純なフォーマットなのでプログラミングも社内でできた。そんなに難しいことはやっていない。名簿の組版などと同じで,1文字だけはみ出るのは格好悪いので,その場合は長体をかけてでも詰めたり,何文字以上何文字まではどういう処理をするということが中心であった。
テストラン
『中国語辞典』はテストランの段階である。原稿データをもとにタグ付け処理をして1折り分だけ流し込み,CTPで出力して本紙本機で刷ってみるところまでフクインでやってみた。大きいプロジェクトになると最終段階で出力できなくてもどこに苦情を言うわけにもいかない。システムを決定した自分たちの責任なのでテストランを行ったのである。これからやるのは,大筋できているフォーマットデザインの細かい仕上げとタグ付けのプログラミングである。
一般的には順序が逆と考えられているが,自動組版は,デザインフォーマットを作る人が最初から自動組版に向くような形にするとよいものができない。手作りでいいから,まず1見開き分くらいをWYZIWYGでサンプルを組み上げ,編者,著者と担当編集者とデザイナーと私とで検討する。
サンプル組版したデータからInDesignでタグ書き出ししたデータがあり,一方でソースデータ,今回はUNICODEのWordデータがある。両者を対比して,こういう場合はこうなるから,こういうタグをここに入れようという形でプログラミングしていく。
そうすると,どうしても例外が出る。文字単位,行単位,段落単位の例外はプログラミングの自動化率を上げればほぼ解決できるが,どうしても自動化できない部分が残る。その部分は手作業になる。その切り分けの判断も重要な仕事である。何でも全部自動化できればいいわけではない。
『JIS漢字字典』では『康煕字典』の字形が画像で貼り込んであるが,あれは手で貼り込んだものである。欄外の柱や見出し字も,別窓を開けて,データを開けて,そこから手作業で貼ったものである。
Q&A
Q:『JIS漢字字典』で貼り込みにした理由は?
前田氏:そのほうが早かったからである。索引作りもそうだが,親文字の並び順データがある。どこからどこを打って,改ページがどこにあるか,ここまでが805ページでここから806ページだというようなデータを作って索引を生成した。『JIS漢字字典』は並びデータから画面を見てこの字からこの字までと貼ったほうがずっと早かった。
Q:『中国語辞典』の原稿は著者によってさまざまなデータで入ってくるのか。それとも著者に依頼して1つのものにするのか。
前田氏:著者に要求するのは間違いのもとなので,基本的には依頼しない。
Q:著者から来たものをWordと同一の中国語コードにする作業自体は編集者がやるのか。
前田氏:UniChinにかかるところまでは編集者がいろいろ苦労してやった。Mac OS上のソフトとかいろいろあり,前処理はすべて加藤氏が行った。
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| 「完全原稿」とはいったい何か |
ふたつの提案
コンピュータ化と印刷が出会ってから,完全原稿とは何かという意味が変わってきているのではないか。それがよいことか悪いことかという以前に,現状を認識しておきたい。
2001年春に未来社から出た西谷能英氏の『出版のためのテキスト実践技法』という本がある。その中で西谷氏は執筆者に対して「文字データ以外のいっさいの付加情報のないプレーンなテキストにしておくこと」と書いている。「ルビや傍点を付けたり欧文特殊文字を入力する必要があれば,特殊な記号の組合せ〔…〕を使って本文中に入力しておけばいい」と提案し,こういうことを意識革命として行なうべきだという意味のことをいっている。
10年ほど前は,専用ワープロのデータが来ると,そのワープロ自身によって,あるいは別のコンバータによってシフトJISのプレーンなテキストに変換し,そこに写研のSAPCOLのコマンドを付加して電算写植で組み上げていた。その時代の感覚では「原稿をもらえるならテキストにしてほしい」と依頼する場合もあった。
西谷氏の理屈はわかるが,編集者や著者がタグづけなどを行なっていると見落としや間違いが起きる。タグづけに必要なキャラクタは,ひとつでも間違うとコンピュータの処理が止まってしまうが人間は気づかないことがある。人間のほうが劣っているのではなく,人間が得意な分野とパソコンが得意な分野が異なるのである。
編集者にしても著者にしても,文字は文字として書き,ルビはルビとして振るという仕事をしているのが日常である。書き手に「こういうふうにするのがいい。それが意識革命だ」というのは少し違うのではないかと思う。
納期も短縮できるしコストも下げられ,出版不況を打ち破る可能性を持つ方法だとして,西谷氏の本の帯には「革命的テキスト技法」「出版業界初の提言!」だと書いているが,それは場合によると思う。それが一般的と言われると困るというのが私の考え方である。
講談社の月刊「IN★POCKET」の2002年9月号に凸版印刷の紺野慎一氏が「京極夏彦 - 勝利の新システム」という文章を書いている。これは京極夏彦氏の『絡新婦の理』という分厚い新書サイズの本を文庫本で組み直したことに触れたもので,新書を文庫で組み直したので1400ページもある。これは京極氏がInDesignで組んできたというもので,紺野氏はそのように作者がInDesignで組版してPDFで入稿すれば,「出版・印刷史上の「革命」的な出来事〔…〕勝利の新システム」と提起している。
京極氏は作家だがデザイナーでもあり,InDesignを使うこともあるだろう。ましてこの事例はいったん出版した書籍を体裁を変えて文庫化したもので,最初に出版するよりは推敲や赤字が減っているはずである。そういう条件も一方であると思うのだが,果たしてそこに問題はないのだろうか。
西谷氏は「著者は出版社に原稿を渡す前段階で自分なりのレイアウト・イメージをもちたがる傾向が強い。〔…〕しかし出版を目的とする著者ならばそうしたアマチュア的なレベルからはそろそろ卒業してもらわなければならない」と書いている。形を見ようと焦っては困るというわけである。一方,紺野氏は「「新システム」ならば作家自身が自分の美意識にしたがって版を組むことができます。一度作成されたデータはそのまま著者の指示通りに使用されます」としている。
両者の言っていることは一見対立するようだが,実は同じ価値観の上での違いではないか。書き手ができるだけ完成品に近いデータを作ってそれをそのまま印刷するのがよいワークフローである。著者がそこまでできなければ著者はプレーンなテキストだけ作って編集者がやる。つまり,どこでやるかという違いがあるだけで,基本的には上流から下流,プリプレスからプレスまで,データが滞ることなく一直線に流れていくのがよい本作りであるという考え方は同じなのではないか。
私は,それは少し違うのではないかと考える。そもそも本作りというのは,著者が原稿用紙の上で,あるいはパソコンのデータの上で書いたデータが編集者と出会い,版元の出版意図と出会い,企画と出会い,あるいはデザイナーのフォーマット指定と出会い,職業的なプロの校正者の校正という作業と出会い,そのようにして元の原稿が揉まれて,行きつ戻りつしながらそれぞれのプロの協業としていい本ができていくのではないかという感じを持っている。
「完全原稿」とはなにか
上流から下流へ一直線に流れていくのが本当によいかどうか,「完全原稿」とは何なのか,もう一度考えてみたい。
WYSIWYGで組めるのは確かに便利である。しかし,作家,執筆者ができあがりのイメージを持ちたがる傾向が強いと非難することではないだろう。
印刷がコンピュータ化と出会う前から,たとえば二葉亭四迷や坪内逍遙はデザイナーでもあった。いろいろなデザインも含めて作品発表の時にいろいろな工夫をしている。表記や約物・句読点についてもいろいろな工夫をした。コンピュータという道具と出会う前から,作家あるいは執筆者が完成形を求めるのは自然なことだったのではないか。それを前提によい仕事をするためのチームとしての協力関係を築くべきで,たとえば「文字」という漢字の横に「もじ」とルビを振るという日常の中でふつうにやっていることを敢えて変えるのが高級であったり高度であると考えるのは勘違いであろう。
新聞などの定期刊行物がいつ出発し,いつ終点かというのは日々の単位である。新聞記事が朝刊に間に合わなければ記事は夕刊に回すというほど,出発と終着の時刻を中心にワークフローが組まれている。しかし,それでも朝日新聞を始めとして新聞社に記者ワープロが導入され,データがそのまま流れていくのがよいという考え方で校閲や校正の部署を外注化したり減らしたりする傾向がある。こういう事例は出版労連や新聞労連の大会などでも毎年報告されているが,果たしてそれでいいのかどうか。2002年に『賢く使おうサプリメント』(岩波書店 アクティブ新書)が無断引用によって初版2万部が回収されるという事件があった。編集者がチェックしきれないと出版した後で気づくことになってしまう。著者からデータをもらってそのままフロッピーを印刷会社に渡すのでは,あまりにも編集者として情けない。仕事のやりがいもないだろう。
コンピュータ化と印刷が出会ってから編集者は量を掌握することを放棄して,とりあえず流してみようということになった。組版や印刷の現場ではとりあえず流せと言われれば流すが,中型の辞典を作るのか,大型の辞典を作るのか,どういう読者にどの大きさの文字で組んだどのくらいの規模の辞典を作るのかを考えなければならない。編集の編むという作業は量を掌握することと一体である。ところが,量を掌握することが,「組んでみないとわからない」というふうになってから編集の力が弱ったと思う。フロッピーに入ったデータでも工夫をすれば量を掌握することはできる。編集の力を取り戻さなければいけないのではないかというのが私の意見である。
引用の突き合わせをしたり,写真の著作権を確認したりする仕事は編集者の大切な仕事のひとつである。これは単線的に一方通行で流していくことに対するチェックであり,場合によっては書き手のもとへ問題を戻す緊迫感と一体である。校正者の仕事も反覆可能性を持ったものである。間違いにも階層性があるので,あるときには赤字を入れ,あるときには鉛筆書きで疑問出しをする。それを担当編集者が見て判断し,場合によっては書き手に問題を返して組版担当者に作業指示をする。
それぞれの分野の専門家はそれぞれの分野についてはプロだという矜持を持ちつつ,そうであるが故に,他の分野については自分以上のプロに対する敬意を持って,その分野に対しては任せるという形でチームがある。
また,これも試行錯誤からの提案なのだろうが,校正者や編集者が入れたゲラの赤字を,著者,デザイナー,オペレータが直すという場面が出てくる。ところが,組版専業者が赤字の指示をチェックしながらリズムに乗って直すというのは,小気味よいし労働たり得るが,著者が著者以外の校正者が入れた赤字を見たら,淡々と作業をこなすことなできないだろう。その赤字について考えてしまうだろう。
組版は考えるところをいったん越えなければいい品質の仕事はできない。その本が怪しい内容であれ,政治的な文書であれ,宗教的な文書であれ,その内容から離れて淡々と作業するというところでいい組版ができる。
パソコンで仕事をすると,ただでさえ赤字直しのチェックがおろそかになりがちである。画面で見て,直したつもりになって次へ進むが,ここには落とし穴がある。実際に直したかどうか。直した後のデータが保存されているかどうか。保存した上で赤字の指示通りに直したことをチェックをしたかどうか。この3つのランクがたいてい抜ける。直したつもりになって直っていないということが,手動写植から電算写植へ,電算写植からDTPになって増えていると思う。
「薄塗り」方式という提案
鈴木一誌氏は『ページと力』(青土社,2002年11月)という本の中で薄塗り方式という提案をしている。鈴木氏は校正はキャッチボールであり,顔の見えるチームを作るということを前々から提唱しており,私も大いに賛成だが,薄塗り方式という提案を見たときはこれも少ししんどいと思った。
鈴木氏が薄塗り方式を提案した直接のきっかけは,『知恵蔵裁判全記録』(太田出版,2001年1月)という本を出したときである。私もこの本の6人の共著者の1人であった。メールでやりとりしたり,データを回覧して1人1人が手を加えていく,それを「薄塗り」と言っているようだ。
校正者が赤字を入れる。あるいは疑問出しをする。年号がおかしいのではないか,調べる必要があると鉛筆で印を付ける。こうした種類の違う赤字が薄塗りとなって階層をなし,1つのデータを多数で触ったときに誰がいつどういう判断で直したのかが見えなくなる。跡が残らなくなる。これは一番怖いことである。責任の取りようがなくなる。
共著者や複数の編集者という立場はありえるが,著者と編集者,編集者と組版担当者の間は,人格は対等でも権限と責任は仕事ごとにルール化されて決まっていたものである。あるいは決まっているべきである。
プロの校正者にもいろいろ話を聞いたが,新組のときに赤字を入れて疑問出しをしたらそこでおしまいで,それが直ったかどうかは編集者が決裁することであり,疑問出しを採用するかどうかも編集者や著者が決裁することなのだと区切ってしまう校正者もいれば,再校ゲラを見て直っているかどうかチェックして,疑問出しについても1つ1つ跡を取るという場合もある。それは権限と責任がはっきりしていればできることではないか。
鈴木氏は「デザイナーは,フォーマットをつくることで分業や職能間を媒介すると同時に,作り手と受け手の間のきしみを読み,そのきしみを減殺してしまうのではなくて,きしみを演出する職業だったと思うのです。そこに,著者という絶対的な権威者がデザイナーにのしかかってくると,デザイナーのきしみ演出力がなくなってしまう。」と述べている(「線という運動」『図書新聞』2606号,2002年11月16日付掲載)。たしかにそうだろう。そこはデザインのプロであるデザイナーに任そうという領域が,編集者から見ても著者から見てもあるはずである。逆にいえば,デザイナーのフォーマット指定を受けて仕事をする組版の立場からいっても,著者とデザイナーという絶対的な権威者がのしかかってくるとどうも仕事がおもしろくないということも起こってくる。これが現在起こっているいろいろな問題の要因ではないか。
ふたたびチームを組む
チーム作りの基準をどこに置くべきか。ものを作るにはシステムを構築して人とものを統一するが,とりわけ人の要素が重要である。仲違いすることなく,いい意味での切磋琢磨ができるチーム作りの基準はどこにあるのか。
ある大学院大学の若手研究者から聞いたことだが,国文学の研究をするためにはPerlを覚えなければいけないという。そんなことをするために大学に入ったのではないだろう。今起こっているのはそういうことではないか。オーケストラで指揮者もピアニストも皆がヴァイオリンを習得しなければならないと言われればそれはおかしいということがわかる。
考え方として,その分野はその人に聞けばいいということをお互い知り合うことは非常に有益だと思うが,能力も適性もやりたいことも違うからこそチームが組めるのではないか。ところがコンピュータ化の進展の中で,たとえばXMLを覚えなければいけないというような共通のハードルを編集者や執筆者に要求する場面が増えているように思う。それではいいチーム作りはできない。山行きで,体力の弱い人を真ん中に置いて尾根を1列になって歩くとき,リーダーとサブリーダーが先頭と後ろを固めてかばい合うようなチームができればいいというのが私の考えである。
一流だと自分が思った人とチームを組んで仕事をするのは,非常に楽しいことである。知っていることが少しだけ増える。しかし,そういうふうに仕事をして,チーム作りばかりしているとやはり慢心も生まれるのだろうか。ミスは,文字化けなどの技術的問題より単純ミスが多い。見出しやカバーなどつい見落としたということが多い。
辞典には前付けがあり,本文があり,索引などの後付けがあるのが多くのパターンである。習慣としてそれぞれ別ノンブルを振る。前付けはローマ数字で振って,本文はアラビア数字で振るというのがありふれたパターンである。
見出しでよく誤植があるのは本文と違ってつい見落とすからである。しかし見出しは原稿が来るがノンブルは来ない。著者も編集者もノンブルはくれない。増補改訂版の『JIS漢字字典』は初版と違って前付けが40ページを超えた。40のローマ数字はXXXXでなくXLでなければいけないが,調べてもわからなくてそのまま作ってしまった。一流のチームを組んでいろいろな人がチェックしたが誰も気づかなかった。
日仏会館の家辺勝文氏は,JAGATのサイトに掲載している「ローマ数字の書き方」という文章で『JIS漢字字典』を名指しで批判している(http://www.jagat.or.jp /story_memo_view.asp?StoryID=5722)。典拠も含めて非常に説得力のある文章である。いくら一流の人同士でチームを組んでも,抜け落ちる分野は限りなくある。奥が深い。
私の尊敬する哲学者は,失敗しない人は仕事をしない人であると言っている。私の近所にある喫茶店のマスターの座右の銘は「無為より無謀」である。無為に日々を過ごすよりは,無謀と言われても思いきって行動したほうがいい。こういう痛い失敗をしながら,やはり無謀に生きていきたい。
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(おわり)
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