イスラームとテロ



2005年4月

中 田 考

同志社大学神学部教授


『大航海』No.54(2005年4月、新書館)に掲載されたものを許諾を得て転載


世界を理解することができなくてはイスラームを理解することもできない。イスラームを正しく理解するためには先ず世界を正しく理解しなくてはならない。
 イスラームについて語る前に,先ず「我々の世界」の「テロ」を巡る言説を検証し,次いで我々なら「テロ」と呼ぶ事象をイスラームがいかに表象してきたかを明らかにし,最後に「我々の世界」の中で「イスラームとテロ」を語ることの意味を考えることにしよう。
1 現代世界 我々が暮らす現代世界は,近代の西欧(キリスト教)諸国による世界の植民地化の直接の遺産である。勿論,西欧諸国といっても,その内実は多様であり,植民地化の様態はそれぞれの国によって異なる。また植民地支配を被った側の植民地化の度合もやはり地域によって異なっている。日本やロシアのように直接には西欧諸国によって植民地化されることなく,むしろ後発帝国主義国家として,植民地支配を行った国々も,西欧の価値と制度を自ら内面化することによって帝国主義国家に変容を遂げたことを考えると,やはり,日本,ロシア,そしてその衛星国も,広い意味での西欧による植民地化の影響を免れていないと言うことが出来よう。
 それゆえ現代世界の文化には全て,西欧キリスト教文化の影響が刻印されており,イスラーム世界もその例外ではない。そして「テロ」もまた,西洋の発想により生み出され西洋文化の枠組みの中で成立した西欧文化の一部である。そのことは,それが,たとえ,「イスラーム・テロ」と呼ばれようと同じである。それは「イスラーム国家」,「イスラーム銀行」,「イスラーム文化センタバト「イスラー打法」などといったものが,西欧文化の産物であ叫,イスラームとは無縁,場合によってはイスラームに反する代物でしかないこととの完全な平行現象である。勿論イスラームの歴史の中で現代西欧人なら「テロ」と呼ぶような現象が存在しなかった,と言っているのではない。そうではなくてイスラームはそうした現象を「テロ」として表象しなかった,ということである。イスラームが「テロ」をどう表象してきたか,を諭ずる前に,次節では西欧の「テロ」概念の抱える問題点について概観しておこう。
2 「テロ」概念の問題性 チャールズ・タウンゼンドは「テロ」の定義について,百を超える定義が提案されながら今なお合意が成立していないことを指摘する。その理由はテロの定義が問題の当事者の一方が敵対者に対してレッテルを貼る行為であるからである。「二言で言えばテロリズムがラベリングだからだ」,「テロリズムはあるひとつの行為とみなされるよりも,むしろ心理的状態を指していると言えよう」(チャールズ・タウンゼンド『テロリズム』岩波書店,二〇〇三年,三〜四頁)。「テロ」の定義が難しいのは,それが恐怖を呼び起こす表象であり,事象「それ自体」を直視することを妨げているからである。鵜飼哲は「テロ」を巡る言説の問題性を正確に見抜いて言う。
 たしかに暴力的事態が突発すると人の心は恐慌を起こし,その事態の原因に眼を向けられなくなる。だが,「テロリズム」は学問用語というより一種の罵倒語であり,政治的背景を持った暴力を犯罪のコードに転写するための装置である。この言葉の濫用は悪魔払いの儀式に似ている,この言葉自体は何も教えてくれないのだから。したがって,この言葉を目にしたら,それがそのつどどんな問題を際しているのかを考えてみなければならない。(鵜飼哲「欧州を覆った内戦的状況」『毎日新聞』夕刊,一九九八年九月二十八日)

 九・一一以降,イスラームとテロを結びつける言説が世界に蔓延している。そこで問われるべきは,イスラームとテロとの関係ではなく,その言説がいかなる問題を隠しているかである。そして我々は「テロ」の問題を考えるにあたって,先ず「テロ」という呪文の魔力から自由になること,つまり「テロ」の呼び起こす恐怖の表象からのデタッチメントが求められる。つまり恐怖が呼び起こす如意識的な自己防衛機構,つまり「テロ」を「自分たち」の住む尊なる世界を脅かす悪,「敵」の暴力として認知しそれに自衛的に対応すること,つまり抑圧され
た「主観性」を顕在化し,両当事者の双方から中立な「客観性」を確保しなければならないのである。
 我々は「テロ」の概念規定において,「恐怖の表象」に抗し
て「客観性」を確保する必要があるが,その手がかりとして,次郎以下において古典イスラーム法学の議論を参照し,西欧の「テロ」概念の相対化を行おう。
3 イスラームにおける「テロ」概念の不在 言うまでもなく西欧語「terrorism」とその概念は現代イスラーム世界にも知られている。
 アラビア語で「terrorism」は「イルハーピーヤ(irhabiyyah)」と訳されるが,この語は「恐れさせる」を意味する動詞「arhaba」の動名詞に主義主張を表す抽象名詞化の接尾辞がついたもので,「terrorism」の直訳である。そして現在ではこの「イルハーピーヤ(テロ)」の語は西欧における「テロ」と全く同様に使用されている。文化植民地状況とはこのような事態を指す。「イルハーピーヤ(テロ)」は新造語であり,古典アラビア語,古典イスラーム法学にはそれにあたる語も概念も存在しなかった。つまりイスラームには「テロ」なる概念は存在しなかった。イスラームは現代西欧人が「テロ」と呼ぶ現象を全く違うふうに表象していたのである。そしてそのことに着目することによって,我々は「テロ」が普遍的な概念でなどなく,「近代」「西欧」という「場所」と「時間」の制約を受けた特殊な歴史的条件,文化的枠組みの中でのみ成立するものであることを意識化することが可能となるであろう。
 語は単独で意味作用をなさない。語の意味はその使用される言語体系の中での構造的位置によって定まる。したがって次節では少し回り道をしてイスラーム法の構造を略述しょう。
4 イスラーム法学の構造 西欧が「テロ」と呼ぶものをイスラームがどのように表象しているのかを知るためには,。その刑法を調べる必要があるが,イスラーム刑法を論ずるに前に先ずイスラーム法の論理構成が理解されねばならない。
 イスラーム法は,「法/不法」の二値論理で調なく,五億論理の法を発展させ,人間のあらゆる行為をカズイスティーツク(決疑論的)にこの五つの範疇に分類する。即ち,(1)その行為を行わないことが来世での懲罰に値する「義務行為(ワージブ)」,(2)その行為を行ゎなくとも来世での徴前には値しないがそれを行うことが来世での報償に値する「推奨行為(ムスクハッブ)」,(3)行うことにも行わないことにも来世での懲罰も報償もない価値的に中立な「許容行為(ムバーフ)」,(4)その行為を行っても来世での懲罰に闇値しないがそれを行わないことが来世での報償虻値する「自粛行為(マクルーフ)」,(5)その行為を行うことが来世での懲罰に健する「禁止行為(ハラーム)」である。
 以上の定義より明白なようにイスラーム法の実効性を担保するのは,地上の権力による刑罰の威嚇ではなく,来世でのアッラーフによる賞罰である。イスラーム刑法もまたこの枠組みで理解される。地上の権力による罰則を定めるイスラーム刑法(フドウード)は通常,(1)窃盗,(2)強盗,(3)婚外性交,(4)飲酒,(5)誣告,(6)背教,(7)反乱,七種を数える(傷害殺人罪に対する同吉報復刑「キサース」は通例別扱い)。
 イスラーム刑法は西洋法の刑法と類似する外観を呈しているが,その概念構成は全く異なる。つまり窃盗を例に取るなら,イスラーム刑法の窃盗とは「窃盗犯には手首切断刑を課す」といった刑事犯に対する規範ではなく,「窃盗犯の手首切断刑の義務を履行しなかった為政者は来世での懲罰に値する」との為政者に向けられた規範なのである(勿論窃盗自体も禁止行為の一つでもあり,来世でのアッラーフの罰にも値する)。
5 イスラーム刑法に於ける「反徒」 前章で挙げた章立てから見て取られるように,イスラーム刑法には「テロ」に相当する犯罪類型は存在しない。しかしその「反乱」と「強盗」の規定を比較することにより,我々が「テロ」と呼ぶ現象がイスラームにおいていかに表象されているのかが理解できる。
 古典イスラーム法学綱要アブー・アル=ナジャー(一五六〇年没)著『満足を求める者の糧』の「反徒との戦闘」章は「反徒」を「武力,勢力を有する集団が,可能な解釈によって,イマーム(=カリフ)に反逆すれば,彼らは反徒である」と定義し,反徒に対する対処を「彼(イマーム)には彼らに使者を送り,彼らが何に憤っているのかを尋ね,もし彼らが不正を挙げたなら,それを除去し,また彼らが容疑を訴えたなら,それを解明しなければならない。その上でなお帰順しなければ彼らと戦う。」と規定する(Zad al-Mustaqni, vol.3 Riyadh, 1993, vol.3, p.115.)。
 一方「盗賊の法定刑」章は「盗賊」を「彼らは,砂漠であれ住宅地であれ人々に武器を向け,窃盗ではなく公然と彼らから財産を強奪する者たちである」と定義する(Zad al-Mustaqni, vol.3, Riyadh, 1993, 9.3, p.112.)。
 ここで我々は「盗賊」への対処が「法廷刑(ハッド)」なのに対し「反徒」が「戦闘」であることに注目しなければならない。強盗は治安問題であり刑罰の対象とされるが,反乱は政治問題として扱われているのである。つまり反乱は犯罪ではく,治安問題には還元できない政治問題であるがゆえに,反徒とは先ず交渉が行われ,交渉が決裂した場合には,「刑罰」が課されるのではなく「戦闘」が行われるのである。クラウゼビッツの述べる通り「戦争は政治の延長」だからである。
6 イスラーム刑法から見た「テロ」 西欧の法は既成秩序・国家を無条件に肯定する一方で,国家に対する武装闘争をカテゴリカリ一に「テロ」,犯罪として断罪し,交渉,議論の可能性を予め排除する。「テロリスト」とは一斉交渉せず,要求に応じない。つまり「テロリスト」とされた者については,その主張の是非について議論すること自体が禁じられる。このように西欧の「テロ」概念が強いイデオロギー性を有するのに対し,イスラーム法は,支配の正当性を有する合法政権(カリフ)に対してさえ,武装闘争の正当性を一概に否定せず,議論と交渉の対象とする点において「非イデオロギー的」であり,いかなる政治的立場であれ無条件に肯定しないという意味において遥かに「客観的」「中立的」である,と言うことができよう。
 また前掲書の「反徒との戦闘」章は更に続けて「もし二つの集団がアサピーヤ(党派性・民族主義)やリヤーサ(権勢)のために闘うなら,双方とも不正な集団であり,どちらも互いに対して損害賠償を行う」と述べている。つまり暴力行使の正当性を「国家」(近代国民国家)が独占する西欧的国家観とは異なり,イスラームは合法政権以外の武装集団の反乱に「理」がある場合があることを当然のこととして想定し(「造反有理」),その場合には(当然ながら)その「要求」を聞き容れることを命ずる。そればかりか,「政権」と「反徒」の争いが,そもそも支配の正当性を有する「合法政権」とそれに反抗する「反徒」として概念構成されるべきでなく,単なる二つの不正な暴力装置の間の権力闘争に過ぎないこともありうる,との「醒めた」現実認識を直裁に表明さえしているのである。
 そしてそもそもこのような認識が可能になるのは,イスラームにおいては権力の支配の合法性の基準が,西欧の法のように地上の権力,「国家」が制定した法の内部,国家システムの内部にあるのではなく,地上の権力を超えた天啓の聖法シャリーアの遵守にある,言い換えれば「国家」の正当性を判定する基準は「国家」の外部にあるからである。
7 「テロ」概念の脱構築 我々はイスラーム法の概念構成を見ることで,「テロ」が普遍性を有さず,近代西欣の世界観の中でのみ成立する特殊なイデオロギー的負荷のある概念でしかないことを理解した。
 そこで次に我々はイスラーム法の「反乱」の規定を手がかり
に「テロ」概念の脱構築を試みよう。
 イスラーム刑法においイは「反乱」を「強盗」から区別するものは当事者「反徒」の主観,自らに「正義」,「理」があると
の「解釈」の有無である。それによって「反乱」は犯罪・治安問題でなく政治問題になる。したがってたとえ最終的に戦闘,武力によって鎮圧されるにしても,それは刑罰ではなく,政治であり,交渉の延長なのである。
 またイスラーム刑法は,「反乱」自体が犯罪ではなく政治問題であるとする一方,それによって生命,財産が失われた場合には,生じた損害は民事事件として処理(損害賠償)すべきことを示している。反徒の鎮圧のために,第三者に被害が生じた場合には,その道族には正当な補償がなされなければならないのである。
 ちなみに生命の値段を各人ごとに生涯賃金などによって算出する西欧法と異なり,イスラームにおいては生命の値段は平等である。即ち殺人の損害賠償額はカリフから女奴隷の子供まで一律にラクダ百頭相当となっている。
 上述の鵜飼哲の言葉にもあった通り,我々は「テロ」と言う言葉を目にしたら,何かが隠されていると思わなければならない。杉田敦によると,現代の権力は「政治的『争点』の範囲そのものを管理する。(中略)権力をおよぼされている人々は,自らの利害の『争点化』自体を権力によって阻止されている(杉田敦『権力の系譜学』岩波書店,六四貢)。「テロ」とは,搾取,抑圧,不平等,権力関係の存在が「争点化」するのを阻止し,善良な市民の安全を脅かす「治安問題」として争点を設定し直すために用いる権力の常套句なのである。西欧が「テロリストの要求には屈しない」,「テロリストとは交渉しない」とヒステリックに叫び続けるのも,被抑圧者の主張の政治化・争点化の阻止のためであることが,「テロ」概念を有さず,「反徒」の要求を聞き権力の不正を糾した上で説得することを命ずるイスラーム刑法と対照することによって鮮やかに浮かび上がるのである。
8 ジハードと「テロ」 これまで我々はイスラーム刑法の「反乱」概念を手掛かりに「テロ」,概念の脱構築を試みた。イスラーム法は戦闘を二種類に区別する。ムスリム同士の戦い「反乱」と異教徒との戦い「ジハード」である。「反乱」はムスリム同士の戦いである。つまり同じイデオロギー,価値体系,即ちイスラーム,シャリーアを共有する者同士の間での戦いである。それゆえ争いは,法解釈と事実認識の問題となるのであり,原則的に交渉,議論が可能である。一方で,ジハードは異教徒との戦い,つまりイデオロギー,価値観を異とする者との戦いである。そこでジハードの規定を知ることは,「テロ」の概念構成に別の光を投げかけることになる。
 イスラームの法思想の根本原理は,人間に法を定めることが出来るのは,神のみである,という命題に要約できる。したがって真に「法」の名に値するものはイスラーム法のみであり,それ以外は人間の人間に対する支配に過ぎず,法ではなく,弱肉強食のジャングルの捉,無法に過ぎない。イラク人通訳の殺害で有罪となったチャーリー・フーサー技術兵に米軍の軍法会議が下した刑は僅か懲役三年である(二〇〇五年一月二十二日)。このようなものは「法」と呼ぶに値しない。このような裁きが罷り通る世界は,むしろ「無法地帯」と呼ばれるに相応しい。そこでイスラームは世界を法(イスラーム法)の支配する世界「グール・アル=イスラーム(イスラームの家)」と無法地帯「グール・アル=ハルブ(戦争の家)」に二分し,「グール・アル=イスラーム」の防衛と拡大をその使命と考える。ジハードはその手段である。
 したがってジハードには「グール・アル=イスラーム」の防衛のための防衛ジハードと,拡大のための攻勢ジハードがあることになるが,ここでは攻勢ジハードに焦点を絞る。防衛ジハードが侵略を受けた土地のムスリム全住民の義務と成るのに対して,攻勢ジハードの宣戦はカリフの大権である。攻勢ジハードの発動にあたっては,先ず敵にイスラトムの教えを説き,イスラームを受け入れるように呼びかけねばならない。もしそこで敵がイスラームを受け入れれば,その土地は平和裏に「ダール・アル=イスラーム」に組み込まれ,その住民は生命,財産,名誉の全てを保証され,他のムスリムと同じ権利を享有し同じ義務を負うことになる。。もしイスラームの入信を拒めば,租税を求められる。異教徒はイスラームのイデオロギーへのコミットメントを求められることはなく,「グール・アル=イスラーム」の防衛の義務も負わず,秩序を乱さず税金を納めるだけで,ムスリムと平等に生命,財産,名誉を保証され宗教的自治を享有することができる。この租税の呼びかけが拒否された場合に初めて戦争となる。
 ここには近代西欧とは全く違う宗教・政治観が看取できよう。先ずイスラームは,イスラームが普遍的真理であることを確信しながらも,現実にはそれを受け入れない人間がいることを当然の前提として認める。そしてイスラームを認めない者とは,それ以上,イデオロギー上の議論を続けることはせず,そのイデオロギーへのコミットメントを求めず,差異を棚上げしたままに,消極的な服従のみを求める。このイスラームの醒めたリアリズムと比べることによって,「民主主義」や「人権」などのイデオロギーを「普遍的価値」と七て人々に押し付け,暴力的抑圧機構「国家」への忠誠を強制する西欧の政治観の神経症的性格に気づくことができよう。
 即ちイスラームのジハードと,世界の植民地化から「対テロ戦争」に至る西欧の戦争を構造的に比較した場合,自らが普遍的正義と信ずる法の支配を武力によってでも世界に広める,という基本理念は共通であっても,イスラームが,自らが普遍的正義だと信ずることが「間主観的」合意を達成できないことを前提に脱イデオロギー的な最低限の秩序形成による共存の道を模索するのに対して,西欧は自らが掲げる普遍的正義をそれを認めない者にも強制しなくては安心が得られず,全体主義的なイデオロギーを他者に押し付けることに神経症的に固執する。その点において,イスラームと西欧は大きく異なるのである。
まとめに代えて 我々はイスラーム法の反乱とジハードの規定を参照することによって,同じ価値体系を共有する敵と共有しない敵に対する処理において,対「テロ」戦争の考え方とは全く異質の思考様式があることを確認した。先ず,天啓の法が国家に優越するイスラームにおいては,アプリオリに国家が善,反徒が悪とされることはない。むしろ反乱が起きる以上は権力の側に何らかの不正があったことが十分に予想されるとの「造反有理」の思想に基づき,反徒との交渉が求められるのである。またイスラームは価値体系を共有しない敵に対しても武装解除と租税という最低限の消極的服従要求のみを課し,自らのイデオロギーへのコミットメントを強制することを自らに禁じている。
 最後に我々は,西欧が「イスラーム・テロ」と呼んでいる現象は,どちらの例にあたるのかを考えてみよう。イスラームと西欧は異なる価値体系を有する。この前提に,ハンチントン流
の「文明の衝突」論を重ね合わせると,「イスラーム・テロ」が,価値体系を共有しない敵同士の闘争であることは一見自明に映るかもしれない。本当にそうであろうか。
 イスラームのジハードの宣戦の規定について思い起こそう。ジハードは先ず,イスラームの家の外部の異教徒に対するイスラームへの入信の呼びかけ,次いで税金の支払いの呼びかけがなされ,それが拒否された場合の最終手段であった。では「イスラーム・テロ」と呼ばれるもののなかに,イスラーム世界の外部の人々に,イスラームへの入信か税金の支払いを要求した例が一つでもあるであろうか。ビン・ラーディンの「アル=カーイダ」のような最強硬派とみなされるグループにしろ,アメリカに入信か租税か,というイスラームのジハードの論理に基づく要求をしているわけではない。その要求は,イスラーム世界からの軍の撤収,イスラーム世界の不法な占領者イスラエルへの援助の中止という,西欧の民族主義,国際法思想の枠組みに完全に収まるものにすぎない。
 イスラームは西欧と異なる価値体系を有し,イスラーム世界と西欧が価値体系を共有しない敵同士として戦うことは可能であり,事実,過去千三百年にわたって両者の間で大小様々な無数の戦いがヨーロッパ,中東,アフリカ,中央アジア,南アジア,東南アジアで行われてきた。
 しかし現在「イスラーム・テロ」の名前で呼ばれている事象はそうではなく,「外国人」の侵略者に対する独立闘争,という西欧の「民族主義」の土俵の上での闘争に過ぎない。そしてイスラーム世界にカリフが不在である限り,その状況が変わることばない。確かにイスラーム世界の国境が全て撤廃され,地方政権が全て廃され「グール・アル=イスラーム」が再統一され,カリフ制が復興した時には,西欧は価値体系を共有しない他者と対略することになる。その時に「文明の衝突」状況が現出する可能性は否定できない。
 しかし,現在起こっている所謂「イスラーム・テロ」はそのような「文明の衝突」などではなく,西欧の侵略者による虐殺,収奪,人権踪閥への抵抗であり,それ裾西欧自身の価値体系に照らしても不正なのである。それゆえイスラーム世界を収奪する西欧の支配者たちは,自らの権力と利権を守るために,その告発が良識ある西欧の市民の耳に届いて不正が白日の下に晒されることを全力を挙げて阻止されねばならないのであり,それこそが「イスラーム・テロ」が「テロ」の名を冠ざれ,問題の原因・背景の争点化が阻まれ,「テロリスト」の汚名を着せられた者たちとのいかなる議論・交渉も許されず「思考停止」が強制される所以なのである。
(おわり)


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前田年昭 MAEDA Toshiaki
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