随 感 録 「むかうむきになってるおっとせい。」

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  • 「忘却=悪」というステレオタイプ  歴史修正主義批判の文脈で歴史意識の欠如が問題になるときに、「忘却=悪、記憶=善」というステレオタイプも困ったものだ。人はあまりに辛いこと哀しいことをすべて記憶していたら生きていけない。忘れることでやっと生きられるという側面もある。「日にち薬」ともいうではないか◆「忘却=悪」というステレオタイプの裏側には、歴史修正主義とは過去の隠蔽だという見方、考え方がある。過去の諸事実を知識として知ることが歴史修正主義批判というわけだ。そうだろうか。否、歴史修正主義を批判しなければならないのは、歴史修正主義が過去の隠蔽だからではなく、現在――より正確には現在のなかに生きる過去――の隠蔽だからだ◆すべてを記憶するということは何も記憶しないということに等しい。すべてを記録するということは何も記録しないということに等しい。歴史修正主義批判を、何を記憶、記録するのか、何を記憶、記録しないのか、という土俵に取り戻す必要があるのではないか。「忘却=悪、記憶=善」というステレオタイプは清算する必要がある。そうしないかぎり、「過去の諸事実を知識として知る」ための啓蒙運動にしかならない。啓蒙運動から生み出されるのは、知識の断片のみききかじっている似非左派であり、現在の問題の隠蔽と闘う主体ではない。(2006年4月4日)

  • 「啓蒙」という陥穽
     歴史と社会が変わることについて,こんな思い込みはないだろうか。自覚した人びとがしだいに増え,しかるのちに世の中が変わる,と。先に悟った人,遅れて悟った人,そして(いずれは悟るはずなのに)まだ悟っていない人,時間のあとさきが人の価値を決めるというわけだ◆私が経験した反体制運動組織(複数)はみな,まわりの人びとをこうして分類していた。だがそこに落とし穴はないのか。世の中が変わらないのはまだ自覚した人びとが少ないから,という言い訳を裏に潜めていないか。その言い訳は,世の中が変わらぬ理由づけに「無自覚な人びとという存在」を利用しているのではないか◆そして悟りと自覚の時間的先駆?という驕りに無自覚なところでは,これまたなぜか「スパイ」問題が起こっている。これは組織というものの宿命なのかとかんがえたこともあったが,組織なき運動体でも私は経験している(××さんは「スパイ」などではないという哀しいビラを書かざるを得なかったこともある)◆「革命にはあとさきの区別はない」とは文革期の毛沢東の言葉だ。しかし文革の後退期や現在の北朝鮮,日本の反差別運動などに根強い「出身階級決定論」のような,出自と苦労の度合い自慢(!)によるランクづけは,とても滑稽だ。造反にあとさきなし,という立場から,東アジアの左翼運動と反体制運動を内部からだめにした「出身階級決定論」を克服できないだろうか,そんなことをかんがえている。(2006年3月14日)

  • 泥棒が仲間に分け前を渡さないぞという「論」
     だれも反対できない,しにくい主張というのがある。「反時代的毒虫」のひとりと自認する私はこれが気に入らない。疑わしき「大義」,たとえば「核拡散防止」。3月2日,ブッシュのアメリカはインドとインドの核施設を軍事用と民生用とに分離することで合意した。「米印首脳会談:インドの核保有に「お墨付き」 米国,説得力欠く二重基準」毎日新聞3月3日 /「「戦犯ブッシュは帰れ」,インド各地で反米デモ」読売新聞3月3日。インドの核保有の「国際的認知」の第一歩というわけだ。アメリカ国内での反対論も核拡散防止条約(NPT)に加盟していないインドへの原子力協力に反対,というものであり,アメリカの核独占そのものを問うているわけではない。アメリカによる核独占をいかに守るかという共通の土台のうえでの賛否なのである◆問題は,日本でなぜこの立論そのものを問う主張がほとんど皆無なのかということだ。核拡散防止ではすでに持ってしまっているものの核は不問に付されたままではないか。インドの核が認知され,イランの核が危険視されなければならないという基準はどこにあるのか。イランの核が危険というなら,アメリカの核は危険ではないのか。パキスタンの核はなぜいけないのか。保有するだけではなく殺戮兵器として使用した「歴史的経験と実績」をもつのはいったいだれだったのか。核拡散は防止すべきなのか。核拡散防止を核保有大国がかかげるのは覇権を守りつづけるための口実ではないのか◆持つ権利すら奪われ,言葉を奪われた無産者が持つべき「精神的原子爆弾」はどこにあるのか。圧迫のあるところには反抗がある。国家は独立を求め,民族は解放を求め,人民は革命を求める。(2006年3月5日,14日改)