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フォーマットの運命
〜知恵蔵裁判傍聴記〜
1999年11月
隈 元 斗 乙
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1. 最初の傍聴
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1998年9月22日水曜日,私は生まれて初めて裁判を傍聴するために東京高等裁判所へ出かけた。ブックデザイナーの鈴木一誌氏が朝日新聞社に対して起こした民事訴訟の控訴審の第2回公判である。「フォーマット・デザインに著作権が認められるかどうかという重要な裁判だから一度傍聴してみないか」と知人に誘われて出かけたのだ。この日を皮切りに1999年10月28日の判決言い渡しまで,私はほぼ「毎月1回の割りで裁判所に通うことになる。
みなさんは裁判所に行ったことがおありだろうか? 初めてのときはどこでどうすればよいのか戸惑うが,ロビーの受付にその日行われる公判の一覧表があり,そこで傍聴したい裁判のある法廷を確認すればよい。原則としていきなりやって来ても自由に傍聴できるようになっている。話題になった事件の公判があるときは入口でボディチェックなども行われるが,ふだんは静かな空間である。しかし人の出入りは多く,ロビーのソファに座っていると公判前の打ち合わせをしている場面に出くわしたりする。
『知恵蔵』裁判の二審の公判のほとんどは8階の815号法廷で開かれた。法廷の内部の作りはテレビドラマなどのセットとだいたい同じである。ドアを開けると50人くらい座れそうな傍聴席がある。傍聴席の最前列の前には仕切りの柵があって,その向こうに裁判官席と原告/被告の席がある。正面中央の高い席に判事が3人,その下に書記,左下に廷吏が座っている。これもドラマやニュースで見る通り。原告や被告は傍聴席に座って待っていて,呼び出されると弁護士といっしょに入廷して左右に相対して着席する。
いよいよ公判開始。だがこれは実にあっけないものであった。裁判長が「控訴人から出された○○について,被控訴人から意見あるいは反論はありますか」などと聞くと「はい,それについては××の形で提出いたします」と答え,「控訴人のほうはそれでよろしいですか。なにか付け加えることはありますか」「いいえ,それで結構です」。「それでは次回公判の期日は○月×日あたりにしたいと思いますが,ご都合いかがですか」・・・という感じで,10分もかからずに終わってしまったのである。
後で知ったのだが,裁判の実質的なやり取りはほとんどすべて書類で行なわれる。では公判で何をするかというと,相手から出された書類に対して反論があるかどうか,反論があればそれを書類としていつまでに提出するか,次回の公判は何月何日がよいかなど,事務的な事柄を裁判長が確認するのである。だからいきなり傍聴してもなんのことやらさっぱりわからず,私はすっかり拍子抜けしてしまった。
その後,この裁判の公判はおよそ一月に1回の割りで開かれ,1999年9月2日を最終回として結審し,判決は10月28日に言い渡された。私は結局すべての公判を傍聴したが,そのほとんどが上述のように事務的な確認だけで短時間で済んでしまった。私が多少なりとも裁判の中身を把握しているのは,私を誘ってくれた知人が,双方から出された書類を煩瑣を厭わず見せてくれたおかげである。
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2. 3つの感想
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私が裁判を傍聴して感じたのは,およそ次のような点である。
第一に,「いったい判事は大丈夫なのだろうか?」ということである。傍聴に行くと,いつも前後にいくつかの事件が目白押しに続いていて,それを次から次にほんとうに5分くらいで処理していくのである。著作権関連の訴訟を専門の判事がまとめて担当しているのだろうが,とはいえ,その分野はファッションから宗教や印刷までまことに多様である。いくら仕事とはいえ,こんなに多彩な訴訟をいくつも抱えて大丈夫なのだろうか? べつに判事の能力を疑ったり裁判のあり方に疑問を呈しているのではない。そうではなくて,その仕事の大変さと責任の大きさに驚いているのである。
しかし,もっと驚くべきことは,これが彼らにとっては日常の仕事だということである。訴訟を起こし起こされる当事者にとって,裁判とは非日常の最たる場のはずだが,判事にとっては日常の仕事,いわばルーチンワークなのである。断っておくが,私は「日常の仕事」「ルーチンワーク」という言葉にいい加減にやっているなどという意味をこめているわけではない。私にとっては非日常である裁判に,仕事として日々かかわっている人々への,これまた驚嘆の表明である。私の第二の感想は「裁判とは非日常のできごとを日常的に処理する場だ」ということだ。裁判は,当事者にとっては怒りや苦痛や損害が発端となり,それを解消したり代償を得るために行なわれるが,実際にそれを処理する判事や弁護士は,日常の仕事として解決策を見出していく。私が初めて傍聴したときの拍子抜けの感じは,私にとって非日常の最たる空間である裁判所が,行ってみるとあまりに日常的に事務処理を行なっているように見えたせいに違いない。
かくして裁判では徹底して事実関係が事務的に扱われることになる。いつだれとどのような打ち合わせを行なったのか,1行の字数はどの時点でだれがどのように決めたのか・・・という日常における細々とした事実関係を積み重ねていくのだ。そしてその事実が,該当する法律の条文や判例に照らして判断されていく。私の第三の感想は「裁判は言葉の事務処理だ」ということである。事実関係はすべて言葉に置き換えられ,互いの主張の正しさは言葉によって争われ,判決は言葉として下される。あたりまえだが,裁判は言葉によって成立しているのである。しかもその言葉は,必ずしも思想や信条や正義を表わす言葉とは限らない。著作権とは一見関係のない取り引き書類や領収書や作業メモなどの言葉が丹念に拾い出され検討されていくのである。
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3. 裁判の経緯
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東京地裁で争われた一審は,1995年4月28日に第一回公判が行なわれ,1997年7月16日の裁判所からの和解案提示をはさんで,1998年5月29日に判決が言い渡された。鈴木氏はこの判決に納得せず,1998年6月10日に控訴状を提出して二審へと入った。
この裁判は,1990年版から1993年版まで鈴木氏がブックデザイナーとして製作に関わった朝日新聞社発行の『知恵蔵』のレイアウトフォーマットを,鈴木氏がその仕事を離れた1994年版以降も,朝日新聞社が鈴木氏の了解を得ずに使用し続けたことをめぐるものである。
一審で提示された和解案は,
(i)1994年版以降の『知恵蔵』出版について鈴木氏からは異議を唱えない。
(ii)現在のフォーマットを変えない限り,朝日新聞社は『知恵蔵』に「本文基礎レイアウト 鈴木一誌」というクレジットを入れる。
というものだったが,朝日新聞社はこの和解案を受け入れなかった。
朝日新聞社は同じフォーマットを使い続けている事実を否定しているわけではない。朝日新聞社が主張しているのは,著作権は本来記事の内容に認められるもので,具体的な中身のないフォーマットには認められないこと,また,同じ版型に同じ内容の記事を盛れば結果的に似たようなレイアウトになるのは避けられず,だから鈴木氏の作ったフォーマットには権利を認めるべき創作性がないことである。
和解案の(i)は,朝日新聞社に配慮したもの,(ii)は鈴木氏に配慮したもの,と一応は言えそうだが,しかし,この和解案はレイアウト・フォーマットの著作権には触れていない。従って,これではなんのために争っているのか,その意味自体が問われかねないことになる。朝日新聞社が和解案を受け入れなかった理由は,「編集著作物についての明確な判断を仰ぎたい」と思ったからということだが,これは鈴木氏も同様だろう。
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4. 一審判決を読む
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(1)判決文の概要
この裁判はおもに著作権法12条1項をめぐって争われている。「編集物でその素材の選択又は配列によって創作性を有するものは,著作物として保護する」という条文である。キーワードは「編集(著作)物」,「素材」,「選択又は配列」および「創作性」である。
朝日新聞社の主張は一貫している。編集著作権の対象となる「素材の選択と配列」は朝日新聞社が行ったものであり,したがって編集著作権は朝日新聞社に属する。鈴木氏が行ったレイアウト・フォーマット作成とその結果には保護すべき編集著作権はない。一審判決もこの朝日新聞社の主張を認めた。
一審判決の判決文の概要は次の通りである。
(i)『知恵蔵』自体が創作性を持つ編集著作物であることは認める。ただし,その対象となる「素材」は,あくまでも取り上げられた用語とその解説,その他の記述や図表・写真である。鈴木氏が「素材」であると主張する「柱,ノンブル,ツメの態様,分野の見出し,項目,解説本文等に使用された文字の大きさ,書体,使用された罫,約物の形状」は「素材」ではない。また,鈴木氏が「素材の選択と配列を行ったと認めるに足りる証拠はない」。
(ii)鈴木氏が行った紙面上の配列(レイアウト)は「国語的な意味では素材の配列と表現できないわけではない」し,「創作的なものということができる余地もある」。しかし,年度版の用語辞典としての『知恵蔵』の性質と目的に照らせば,そのような紙面上の余白,文字/写真・図版の配置,何段何行何字詰めとするかなどは,『知恵蔵』の創作性に「何らかかわるものではない」。たとえば『知恵蔵』の用語解説や写真・図表の分類と順序をそのままにして,余白,配置,段数,文字数,書体などを変えた本を作れば,それは『知恵蔵』の複製になるではないか。
(iii)ブックデザイナーの知的活動が編集作業において果たす役割は認める。しかし,著作権法は編集に関与した者や,編集行為そのものをすべて保護の対象としているわけではなく,編集物の創作性のすべてを保護の対象としているわけでもない。鈴木氏は『知恵蔵』の素材の「かたち」を選択/配列したというが,そのような「かたち」の選択と配列は編集著作物以外の書籍でも可能である。すると,同じようにブックデザインを行っても,それが編集著作物であるかないかによってブックデザイナーに編集著作権が成立したりしなかったりしておかしなことになる。これはつまり,鈴木氏が主張する創作性が,著作権法でいう編集著作物の創作性とは異質のものだということを意味する。
(iv)たしかに『知恵蔵』のレイアウト・フォーマット用紙のありようは,鈴木氏がその知的活動の結果として提案し,朝日新聞社が採用したものである。しかし,このレイアウト・フォーマット用紙は『知恵蔵』の紙面の割付としてはありふれたものであり,これ以外の表現の余地は少なく,創作的な表現とはいえない。たとえレイアウト・フォーマットを完成するために独創的な工夫や試行錯誤があったとしても,結果としてできたレイアウト・フォーマット用紙は限られた表現のひとつに過ぎない。また,このレイアウト・フォーマット用紙を著作物として保護すると,レイアウト・フォーマットと密接不可分であるアイデアを特定の者に長期間独占させることになり,表現の保護の範囲を超えてしまう。著作権法ではアイデアそのものは保護の対象ではない。
(2) 一審判決の「国語的」な意味
(i)は論理的な矛盾も難解な表現もなく,「鈴木氏は素材の選択又は配列を行っていない」という判断を明快に示した文章である。ところが,(ii)では「国語的な意味では素材の配列と表現できないわけではない」とか「創作的なものということができる余地もある」など,曖昧な文章が現れる。これらの文章の装飾的表現を削除すれば,鈴木氏のやったことは編集著作権の保護対象になるという意味にとれる。しかし,その後すぐ「創作性」は認められないと言っているし,そもそも(i)で「素材の選択又は配列を行っていない」と明言しているのであるから,これらの文章は論理的には不要である。
(iii)では,まず冒頭で,鈴木氏が主張する「かたち」と内容の一体性,すなわち「かたち」の重要性に触れているのだが,判断は示していない。それではいったい何を言っているのかというと,ここは(ii)と合わせて読むとわかりやすい。つまり,鈴木氏が,素材の選択と配列という「編集」に関わる行為を行ったかもしれないし,それは「創作性」のあるものだったかもしれないが,しかし,そういう「編集行為」や「創作性」がすべて保護されるわけではない,という念押しになっているのである。それにしても(iii)の文章はわかりにくい。「かたち」としてのブックデザインはどんな書籍でも行われうるが,この裁判で争っているのは編集著作権である。だからブックデザインの創作性は,争うべき編集著作権のありかではないと言いたいのだろうか? しかし,控訴状でも指摘されているように,それでは本末顛倒ではないだろうか。
(iv)は,『知恵蔵』のレイアウトデザインはありふれたものだという身も蓋もない切り捨てをしているのだが,文章としては一見わかりやすくみえる。しかし,いったい何に対して「ありふれ」ているのか,肝心のところがわからない。・・・『知恵蔵』の条件を満たすレイアウトを行うためにレイアウト・フォーマット用紙を作ろうとすれば,それは当該のレイアウト・フォーマット用紙の体裁にならざるを得ない。・・・レイアウト・フォーマット用紙は割り付けのアイデアを視覚化したものであり,そのようなアイデアに基づいてレイアウト・フォーマット用紙を作成しようとすれば,当該フォーマット用紙のようにならざるを得ないから創作的ではない云々・・・というのだが,正直言って,私の読解力ではこの部分が実際何を言わんとしているのかよくわからない。同語反復的な匂いがするのだが,どうだろうか。
ただ,無理にでも要約すると,(i)は「素材」とその「選択又は配列」を否定し,(ii)は「創作性」を否定,(iii)は,たとえ「創作性」があったとしても,それは著作権法でいう「創作性」とは異なるという念押しである。(iv)は(ii)とは視点を変えて「ありふれたものだから創作性がない」という論法である。
しかし,判決としては「鈴木氏の行ったことは素材の選択又は配列ではない」というだけで足りるのではないだろうか。わざわざ意味のとりにくい文章を綴って,繰り返し創作性を否定するのはなぜだろうか。しかも,これほど徹底した創作性の否定は朝日新聞社にとってもあまり歓迎すべきことではないはずである。なぜなら,判決文は(iv)で『知恵蔵』のレイアウト・フォーマット用紙がいかにありふれたものか,いかに他に選択の余地のないレイアウトかということを微に入り細にわたって述べているわけで,これだと年度版用語辞典はすべて同工異曲のありふれたものということになってしまう。中身で勝負ということなのかもしれないが,年度版用語辞典の性質と目的に照らせば,そもそも取り上げられる用語に大きな違いがあってはおかしいのではないか? ふつうに考えれば,こうした辞典の場合,項目の配列方法と写真や図表の使い方はもちろんだが,とりわけ見やすさと読みやすさにこそ独自性があるのではないのか。だからここでは逆に,「それでは『知恵蔵』の年度版用語辞典としての創作性はいったいどこにあるのか?」と問いたい誘惑に駆られる。そもそも年度版用語辞典とはどういう出版物を指すと裁判所はとらえているのだろうか?
私は,「国語的な意味では素材の配列と表現できないわけではない」「創作的なものということができる余地もある」という文章,あるいはレイアウトとレイアウト・フォーマットとの関連を述べた論旨の不明快な部分に裁判所の認識のありようが現れていると思う。論旨明快な部分はフォーマットを割付用紙と捉えての著作権の否定なのだが,意味がわかりにくい部分は鈴木氏の主張する動的なフォーマットの考え方にひきずられたのではないだろうか。
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5. フォーマット
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ここでどうしてもフォーマットについて考えざるを得ないが,みなさんは“フォーマット”をどのように捉えているだろうか?
鈴木氏の『ページネーション・マニュアル』は,QuarkXPressを使って印刷物を作るときの共通ルールの提唱である。DTPに関わる人々のための基本ルール集といってよいだろう。実はしかし,このマニュアル自体は小冊子とさえ言えぬ小さなものであり,これだけ見てもそれがどういう意味を持つのかわかりにくい。重要なのはむしろ,このマニュアルを支える考え方のほうである。
鈴木氏は,書物と印刷の歴史をさかのぼり,ページという概念の発生とその意味を考察する一方で,デジタル化の進む現在と未来を見据えてワークフローに注目する。『ページネーション・マニュアル』とは,デジタルによる出版/印刷のワークフローにおいて,「ページ」を作っていく考え方の根本をおさえようとするものなのである。そしてそのための鍵となるのがフォーマットという概念である。
鈴木氏はフォーマットは容器でテキストは水というたとえを使う。DTPとは,コンピュータを使ってフォーマットという見えない入れ物を作り,それにテキストという中身を流し込んでいく作業である。そのとき,紙への印刷が最終目標であるならば,そのためのワークフローを踏まえたフォーマットの作成と運用が必要になり,またインターネットやCD-ROMなどが目標であるときは,そのためのワークフローがフォーマットの作成と運用に反映される。また,出版物の種類によっても,辞典なら辞典,小説なら小説,雑誌なら雑誌の製作を念頭に置いたフォーマットを作って運用することになる。これが私が理解しているフォーマットの意味である。
ところがフォーマットという言葉は,たんなる割り付け用紙という意味でも使われる。おわかりだろうか? コンピュータを使ったワークフローを前提としない場合でも,各ページの組み立て方のことをやはりフォーマットと呼ぶのである。鈴木氏のフォーマットがダイナミックな意味を持つのに対し,後者のフォーマットは静的なものといえばわかりやすいだろうか。そして,『知恵蔵』裁判における朝日新聞社の主張も,また一審の判決も,いずれもフォーマットを割り付け用紙とする解釈に基づいたものである。この認識の違いが,この裁判における最大のネックだということがおわかりいただけると思う。
つまり,朝日新聞社も裁判所も,結果としての『知恵蔵』の「割り付け用紙」の創作性を問題にしているのだが,本来なら,『知恵蔵』の製作において,鈴木氏が作ったフォーマットがどういう意味を持ち,製作のワークフローにおいてどういう役割を果たしたかがポイントなのである。そうでなければフォーマットは上述のような役割をまっとうできないだろう。ところが著作権法は主に創作性を保護する法律であるがゆえに,裁判ではフォーマットの割り付け用紙としての創作性が争われることになった。もちろん,朝日新聞社は割り付け用紙としてのフォーマットの著作権を認めようとはしない。鈴木氏から同じレイアウトを使っている,あるいは無断で変更していると論難されてもなんら痛痒を感じない。鈴木氏にすれば,流用改竄して恬として恥じない態度ということになろうが,朝日新聞社に言わせれば,そもそも著作権によって保護されるべき対象など存在しないのである。そしてそれが一審判決でも認められた。裁判における創作性の有無の議論の背後には,フォーマットについての基本的な解釈の違いが横たわっているのである。これが一審判決の文章がわかりにくい理由ではないだろうか。
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6. 二審の判決「言い渡し」
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さて,そこで二審判決である。裁判の判決文には,判決結果を簡単に述べた「主文」と,その理由を詳細に説明した「判決理由」が書かれている。今回の二審の判決は「主文」だけ読むと一審とほとんど同じとみえるのだが,「判決理由」は一審判決とは異なった内容になっているように思われる。本来ならここで二審判決をきちんと読まなければならないのだが,それは改めて考えることにしたい。その理由は私自身の心境の変化にある。
この文章はじつは二審の判決前に書いた。裁判のこともろくに知らない素人の第三者にこの裁判がどう見えるか,なるべく先入観にとらわれず,私と同じような立場の人に知っていただきたいと思ったのがそもそもの動機である。しかし,二審の判決言い渡しは私には大きな衝撃であった。それは判決の内容のことではない。判決が,当事者である鈴木氏や朝日新聞社を法廷に入れないまま,だれもいない空間に向かって言い渡されたという事実である。むろん傍聴人はいる。鈴木氏も傍聴席に座っていた。しかし傍聴は自由なのだから,傍聴人がまったくいない場合もありうるわけで,そうすると,裁判長は本当にだれもいないところで,だれもいない法廷に向かって判決を「言い渡す」ことになる。これはたんに私が知らなかっただけのことで,裁判においては日常のことなのかもしれない。それなりの理由や決まりがあるのだろうとも思う。しかし,とにもかくにも私には大きな驚きであった。裁判とはいったいだれのためのものなのだろうか? だれがだれに対して判決を言い渡すのか? 私は「素人の第三者」などと気楽なことを言っている自分の甘さに冷や汗の出る思いを味わった。おかげで,裁判という制度,その仕組みそのものについてもっと考えなければならないと思うようになってしまったのである。
しかし,そのためにはこの文章のままではもうこれ以上先には踏み込めない。また,そもそも裁判制度などというものが私の手に負えるかどうかもわからない。だからここでは二審判決の内容にはこれ以上触れないことにしたのである。
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7. フォーマットの運命
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しかし,ひとつだけいっそう確かになったことがある。それは裁判というものは決して私たちの仕事や生活と無縁な向こう側のできごとだと考えてはならないということである。あるいはそうであってはならないということである。だから私は,「知恵蔵裁判」が最高裁まで行って争われるかどうかにかかわらず,みなさんの日常の生活や仕事の中で,この裁判の持つ意味をそれこそルーチンのようにじっくり考え続けていただきたいのである。
鈴木氏が『ページネーション・マニュアル』をまとめるに至った契機は,じつはこの裁判なのである。裁判をすることによって,裁判所に対して自分の仕事と考えを言葉で説明しなければならなくなり,その過程で,フォーマットというもの,ページネーションという仕事を深く考えるようになったことが『ページネーション・マニュアル』を作るにいたった動機なのだという意味のことをうかがったことがある。そして,それは,先ごろ上梓された『クリエイターのための印刷ガイドブック 応用編 Part1 明解日本語文字組版』に,より詳細な形で表現されている。つまり,編集/印刷/出版に関わっている人々にとってこの裁判は対岸の火事ではないのである。どちらが正しいかという以前に,この裁判が日々の仕事と陸続きのところで起こっているのだという意識を持っていただきたいと思う。
ところで,私は初めから気になっていたのだが,裁判所の書類というのは,あれはどうやって作る取り決めになっているのだろうか? 裁判の書類にもフォーマットがあるのだろうか? 私は傍聴に行くたびに,「判事と弁護士のスケジュールをリンクしておけば日程調整も楽だろうに」「裁判書類をPDFかXMLにしてくれれば読みやすいし便利なのに」などと不埒なことを考えていた。しかし,これはあながち冗談でもない。私たちの周囲を見ればこのようなことを日常の仕事の中であたりまえにやっている企業も出現しているし,だいいち,鈴木氏がフォーマットに託した考えは,実際にそのような社会の状況を背景としているのである。
もちろん,私はコンピュータによる効率化やフォーマットによるワークフローの確立を,絶対的な価値のように言いたてたいわけではない。デジタル化やコンピュータ化による影響を,伝家の宝刀のように裁判にまで押し広げたいわけではない。むしろ,そういうことのすべては,結局のところ人間が自分の生活や仕事を,望むべき「かたち」として実現するための仕掛けにすぎないと思っている。しかし,だからこそ逆に,仕掛けの,仕掛けとしての表現の価値を相応に認める必要があると思うのである。鈴木氏が作った『知恵蔵』のフォーマットという仕掛けはまずそのような視点から捉えなければならないのではないか。朝日新聞社の編集部の人々はそのフォーマットによって恩恵をこうむったのではないのか。これは裁判とは別のもっと日常的な話である。そういう話がいまだにどこからも出てこないというのは,私にはとても不思議な気がするのである。
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(了)
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