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インタビュー 鈴木一誌氏に聞く
『知恵蔵裁判全記録』
「思想的事件」の全貌
2001年2月
鈴 木 一 誌
聞き手・図書新聞編集 米田綱路
『図書新聞』第2521号(2001年2月10日発行)
図書新聞および聞き手/話し手の許諾を得て転載
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「レイアウト・フォーマットを使わせてほしいが自由に変えさせてほしい」「一行一四字は世の中にいくらでもある」……。
年度版用語事典『知恵蔵』(朝日新聞社)本文のレイアウト・フォーマット(DTPにおいて編集・デザイン・組版のしごとの共通の拠り所となる,電子出版時代の組版仕様書)を作成したブック・デザイナー鈴木一誌氏に対する,朝日新聞社側のこうした言葉を端緒に始まった「知恵蔵裁判」。それは,本文レイアウト・フォーマット流用に対し,鈴木氏が朝日新聞社を相手取って起こした,日本で初めてのフォーマット・デザインの権利をめぐる裁判となった。
鈴木氏は『知恵蔵』における編集著作権の準共有とレイアウト・フォーマットの著作物性を主張し,裁判は一九九五年三月の訴状提出から,足かけ五年に及んだ。一審では,朝日新聞社側が裁判所の和解案を拒否,九八年五月,東京地裁は原告の請求を棄却した。同年六月からの控訴審で東京高裁は,レイアウト・フォーマット用紙が「知恵蔵の編集過程を離れて独自の創作性を有し独自の表現をもたらすものと認めるべき特段の事情がない限り,それ自体に独立して著作物性を認めることはできない」として,九九年一〇月,控訴を棄却した。
この知恵蔵裁判を記録した鈴木一誌+知恵蔵裁判を読む会編『知恵蔵裁判全記録』が刊行されたのを機に,鈴木一誌氏にお話をうかがった。
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問題は観客論あるいは読者論として浮上してきている
――先頃,鈴木一誌+知恵蔵裁判を読む会編『知恵蔵裁判全記録』が刊行されました。この本を手がかりとして,鈴木さんに知恵蔵裁判と,裁判の焦点であるフォーマット・デザイン,そしてブック・デザインの思想をめぐってお話をうかがいたいと思います。
この本の帯には,「法のフォーマットとページのフォーマットが激突した,フォーマット・デザインの権利を問う日本で初めての裁判」と書かれています。鈴木さんは知恵蔵裁判に至るまで,法律というものを意識せずにこれまで仕事をしてこられたということですが,一九九五年に始まった知恵蔵裁判では,法のフォーマットと対峙するために,内容と形式という美学上の大きなテーマとも結びつくフォーマット・デザインの思想を,裁判の過程で言語化してこられたように思います。『知恵蔵裁判全記録』は,単なる裁判記録のみならず,そうした言語化作業の集大成でもあると考えられますが,裁判において法のフォーマットに対し,ページのフォーマットをことばにしていくなかでお感じになられたことについて,まずお聞かせ願えませんか。 |
鈴木 事前と事後についてお話しします。法というフォーマットを少し自覚できたのは,提訴までの待ち時間が長かったからだと思います。「編集著作権の準共有」という論点にたどり着くまでに,相手の『知恵蔵』が二冊出ています。足かけ三年ですね。
やはりそんなに難しいのか,と思いました。裁判を担当した黒田泰行弁護士に聞くと,著作権がらみの裁判は,訴え方にいくつかのパターン,チャンネルみたいなものがあって,それに自分たちの事例を当てはめていかなくてはならない。でも,それではつまらない。かといって,たとえば自分のブック・デザインについての考えを述べることが,すなわち法的なたたかいになる文法がなかった。法の場で,言いたいことを言う文法をさがすのが難しかった。長い待ち時間のなかで,法の輪郭を堅さとして認識できた。
ひるがえって,『知恵蔵裁判全記録』ができた心境としては,投影することと,法のフォーマットやページのフォーマットの関係はなんなのかな,という疑問をあらたにもっています。ちょうどこの本をつくる過程で,ゴダールの『映画史』を何度か見る機会があり,本づくりがゴダールに鼓舞されたところもあるのですが,表現物とそれを享受する人間とのあいだにある種のスクリーンがあって,表現する方はそこに映すわけだし,そこから読者や観客はなにかを受けとる。その交流を様式と呼んでいいでしょうが,投影し享受するという関係を動的にとらえる必要があるだろうという気がしています。
日ごろの映画体験などから思い当たるのですが,観客が不動の一点だと想定し,映画の善し悪しが決められているのではないか。しかし,観客を不動の一点とするかぎり評価不能ではないかと思う映画に,このところつづけて出会います。享受者の基準が絶対で,それによってあらゆる表現が裁断されていく構図が,どうも違うんじゃないかと思いだしてきた。享受者の基準を,フォーマットと言い換えると,問題としては見えやすくなりますね。
表現が知覚しうるものを提出し,それを読者や観客,聴衆は受けとる。それはメッセージの伝送なのか。表現者から享受者にメッセージの複製がおきているのかどうか。表現する側にとっても,享受する側にとっても,投影がどんなできごとかを考えないと,「複製」概念に近づけない。投影は,射映など別のことばでも言い換えられるのでしょう。
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| ――この本のなかの黒田弁護士のお話で,裁判所は裁判の過程で一貫して,かたちと意味内容が不即不離にあるという論を気味悪がっていたということですね。鈴木さんが展開された,フォーマットという容器がそこに入れられるもののかたちを生み出していくという「見えない容器」論を,やはり法のフォーマットは,テクストというオリジナルなものを不動の前提として,フォーマットを単なる枠というか,この裁判で朝日新聞社側が主張したような割付用紙という可視的実体のレベルでしか理解しなかった,あるいはそこで判断停止したのではないかと思われます。そことページのフォーマットの間に横たわる溝は,『知恵蔵裁判全記録』からくっきりと浮かび上がってきますが,鈴木さんはどうお考えですか。 |
鈴木 結果として判決は,オリジナルを求めた。かたちを容認すればオリジナルが拡散するという危機感がある。オリジナルを,唯一とするか拡散してもかまわないとするかのたたかいだったと言ってよいわけでしょうね。さっきのスクリーンの例で言うと,スクリーンの向こうに見えない一点を透視するのか,上映のたびのスクリーン上のあらわれを認める立場の対立だったのだろうと思うんですね。
確かに,オリジナルを唯一とするか拡散させるかのあいだを埋める論理が見つけ難かったということがある。しかし,両方ともオリジナル概念にとらわれているのだから,こちらがオリジナル概念を超えられなかったとも言える。しかし,現行の著作権法ではなかなか難しい。
観客を不動の一点だと認めたとたんに,はるか彼方に,見られるべき映画を想定してしまう。それと,内容とかたちの不即不離論の是非というのは同じことだと思うんです。問題は,観客論あるいは読者論として浮上してきているのかなと感じます。
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紙による思考をあらためて見る
――テクストがオリジナルな著作として不動のものであるという発想には,実はできたもの,すなわちフォーマットに流し込まれページとして現出し見えている世界から,本来イデアールなものであるはずのテキストを遡及的に不動の実体として導き出すという思考プロセスがあって,そこに無自覚なままアプリオリにオリジナルなテクストを持ってくるような固定観念が支配していることを,内容とかたちの不即不離論,そして「見えない容器」論は突いていますね。
コンピューター上のフォーマットにデータを現出させて文章を読み,やりとりするといういまの趨勢のなかで,とりわけ鈴木さんのつくられた知恵蔵のように高度で複雑な,しかもページを一つの世界として現出させるフォーマット・デザインに対してさえも,オリジナルのテクスト至上主義からすれば,『知恵蔵』の編集長の「世の中に一行一四字はどこにでもある」という言葉が端的に示すような見下しがある。それは,編集工程におけるさまざまな仕事への見下しに起因するものだとも思うのですが,鈴木さんはどう考えておられますか。 |
鈴木 あらわれているページの向こうに抽象的なテクストを抽出していく手つきというのは,複製技術による大量生産や作家概念の誕生とともにあるわけですから,そんなに古いことではないですね。その手つきと,いまのコンピューター時代のルーチンワークが,奇しくも一致したというところがある。パソコンが普及し,画面からシンプルテクストを抜きだす作業がわれわれの日常に浸透した。モニターや紙上にあらわれた文字面からシンプルテクストを抽出し,それこそが誌面のたたずまいのオリジナルだという等号が,実感として獲得されてしまう。文書の電子化が進めば進むほど,唯一点としてのオリジナル,という遠近法の消失点は強化されるのだと思います。
唯一点としてのオリジナルを確保すると,観客も不動の一点として遠近法のなかに画定できる。どちらが先だという話ではない。スクリーンの向こうとこっちで同じことがおきる。観客というかユーザーが,自分のアイデンティティを不動のものにしたがっているのではないか,それこそが現在の遠近法を成立させている源ではないかと,論理上はなりますね。
フォーマットについて言うと,知恵蔵のフォーマットは決して高度なものではない。複雑に見えるかもしれないけれども,知恵蔵という年度版の用語辞典の目的に特化して考えるとああなる,固有のため,具体的な目的のために複雑にならざるをえない。四六判の単行本で多く使われ,凡庸な組の代名詞にされてしまっている四三字×一七行も,フォーマットにちがいないですが,それは汎用ですね。あらゆるものには使えるけれども,個性はない。特化しているわけではないから,シンプルに見える側面がある。高度か低度か,複雑かシンプルかによって保護を規定していくのではなくて,それがあるもののためにつくられたということにおいて線引きがされるのだと思います。
事前も事後もひっくるめて,知恵蔵裁判はなんだったのかというと,紙による思考をあらためて見るということであったと思うんです。本を読む,新聞を読むのはもちろん,われわれはものごとをカードやページによって整理していく。実際の紙のカードやページでなくとも,頭の中のカードやページで考えをまとめていく。朝日側も判決も,誌面でのあらわれはさほど意味がないとしたわけですが,知恵蔵裁判は,紙による思考を軽視することに対しての挑戦だった,と言えるのではないでしょうか。
知恵蔵のフォーマットに権利がないということになったとしても,実害はもはやこれ以上発生しない。今店頭に並んでいる『知恵蔵』が横組になってしまって,フォーマット問題の埒外へと去ってしまったが,裁判で負けて,大きな危機感としてあるのは,どうしたら紙によって考えていることからまなざしを逸らさずにいられるだろうかということです。
まなざしを逸らしたからといって,紙によって考えているということは厳然としてある。紙によって考えていることが全部いいとは限らない。じゃあ,何か弊害があるのかということを含めて,紙的思考を対象化しないといけないんだけれども,IT革命などという名のもとに,浮き足立ってしまって,紙のことはもうすんだと言わんばかりです。それに対する危機意識は,あらゆる出版社と共有できるだろうと思っています。
紙による思考を別の言い方でいうと,ページネーションになるんですけれども,われわれはページを一枚ずつめくる。一枚ずつ切断しながら,めくることで連続させている。本というのは不思議なメディアですね。たとえば,この『知恵蔵裁判全記録』にしても,まとまるまでは段ボール箱何箱もの資料があったわけですね。それが,ある解釈には拠っていますけれども,凝縮されていく。段ボール何箱分が三センチぐらいの厚さになる。書物という様式の凝縮力には,改めて驚きます。
紙によって考えている,それは先ほど言ったように紙というスクリーンだと言ってもいいですが,紙においておきている事件を知らないと,本当の意味で電子ブックやウェブ文化は来ないと思うんですね。あえて紙的思考を,と言いたい。
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自己言及性をどうもつか
――鈴木さんはこの本において,二篇にわたる「複製論」を書いておられますが,レイアウト・フォーマットとは再製・再現のための,コミュニケーションの体系でありプログラムであると書いておられますね。ここではオリジナルと複製,そして表象といった,思想的,美学的にも非常に重要なトピックスに関わる問題が論じられています。そのことと,フォーマット・デザインの思想をめぐってお話しいただけませんか。 |
鈴木 デザインは二〇世紀的なメディアだと言っていいと思うんですけれども,二一世紀に入って改めて,デザインとことばの関係を考えないといけない気がしています。
あらゆるデザインは,文字をどう配置するかを基本にするとの断定をしてしまいたい。たとえば,ポスターにしても文字の配置があるし,工業製品にしても,オン,オフという文字がないということはまず考えられない。アフォーダンスということばがありますけれども,ドアノブを引くのか回すのかがひと目でわかるようなデザインがよいということは,逆に,ことばが前提になっているから,ことばに抗うために,ことばなしでデザインがいかに機能をするか,がテーマになるのだろうと思います。ドアノブが,一見しただけで右に回すのか左に回すのかがわかるデザインが望ましい,しかしそのとき,右や左といった概念はすでにことばと限りなく近い。デザインはことばを前提としている,こう言うことは可能だと思うんです。
ブックデザインは,文字をいかに配置するかを作業のコアにすることで,ことばを前提としているデザインのテスト・パイロット役をしている。デザインというフォーマットを見うるのかもしれないということですね。ある本のフォーマット・デザインをすることが,ことばの存在をとおして,別のフォーマットを見せる可能性がある。
それから,ことばや文字を考えたときに,広い意味での政治性ということを考えなければいけないだろうと感じます。たとえば,ロシア・アヴァンギャルドのポスターが,スタイルとしていいとかではなくて,そのポスターから発してくる力を考えてみると,何月何日に集会があるから何処へ行こうと,何か肉体の動きを呼びかけていた。見る者のその後の行動に関与していた。そのことを,とりあえず政治性と呼んでみたいんですね。デザインは,記憶を呼び返すということでもいいわけですが,見る者のその後の行動をうながす。ドアノブのデザインも,つきつめれば見る者のその後の行動を律しようとしています。
デザインが見られる時代感覚,社会的な状況があって,それをたとえば時代の様式と呼んでみます。デザインが成立する共通感覚の上に,小説であるとか人文書であるとか,四六判の上製らしさ,出版社のカラーといった,いくつものフォーマットが重なって,デザインが成立している。そのなかで,デザイナーが一つのフォーマットをつくっていく。
そこで先ほどの,デザインがスクリーンとなって,見る者にどう投影されるのかという話とつながってくる。書物の商品性を前提にするかぎり,フォーマットづくりも,基本的には売れるかどうかという観点を抜きには成立しない。既存のフォーマットの束に完全に寄り添ってしまうのか,あるいは批評していくのか,を計算しなければならない。ところが,そのデザイナー自身も,時代の様式にどっぷり浸かっているわけですから,自己言及性をどうもつかが問題にならざるを得ない。
自己言及性ということは,自分のこれからの行動を変えようとすることだと言ってもいいと思うんですね。自分の出処進退を見つめるもうひとりの自分をもつ。そこですでに,一人のなかで政治が起きている。
自身に回帰する視点をもち,かつ見る者の行動にいかに関与していくかと問いを立てないと,フォーマットは成立しない。それはきれいごとではなく,実際に,フォーマットという空っぽの器に具体的なテキストや画像がなだれ込んだとき,ものすごい数の例外が発生し,フォーマットが批評される。ある程度の例外の発生を読むこともフォーマットづくりに含まれるし,フォーマットの指示書を見せたときに,それがオペレータにどのように写るのかも考える。大事なところを赤で書くのか,大きく書くのか,さらには逆に小さく書いて注意を喚起するのか。フォーマットが,オペレータの行動にいかに関与するか,という視点ですね。
四三字×一七行を選ぶということは,文芸書の安心感を読者に与えるのだと,考えた末の決断であるべきでしょう。安心感を与えるということは,見た人の今後の身体感覚に関与したということになるわけですからね。
二〇世紀のあらゆるデザイン様式をつまみ食いするほかなくなってきている,つまみ食いにしか見えないデザイン状況を突破するのは,広い意味での政治性かな。そして見る者の行動に関与するとき,時代の様式を意識しなくてはならないから,フォーマット論が介在する。また,フォーマットは「おなじである」こと「ちがう」ことを判定する場でもあるのですから,複製とオリジナルを考えることにもなる。
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編集者もまた,わがままな不動の一点でしかないのか
――自己言及性ということでいえば,この『知恵蔵裁判全記録』というのは,まさに自らのお仕事を言語化するなかで,鈴木さん御自身が自己言及されていく作業の記録でもあったのではないかと思われます。そして,フォーマット・デザインの思想が,法のフォーマットと対峙することで現代社会のありようと切り結ぶ,さらには朝日新聞社側の対応の不遜さも含めて,社会のありようを逆に照らし出していったということ,そこに,内容と形式や複製といったテーマがアクチュアリティを帯びた要因があるように思うのですが。 |
鈴木 朝日新聞社側の対応も鏡に写し出せておもしろかった。それはなぜかというと,自分のなかでも,デザイナーと裁判をたたかう人間とを行ったり来たりしたからだと思うんです。楕円の二重焦点のようにと言いたいところですが,実際は右往左往したにすぎない。あるときはデザイナーから法律を見る,あるときは法律の渦中からデザインを見るというように,二つの場所を行き来する隙間の空間に,そこに朝日新聞社側の発言を映し出せた。
『知恵蔵裁判全記録』について言えば,この本はDTPでなければできなかったし,DTPでこそやるべきだったと思うんですね。結果,制作チームの人数が少なくなる,コンパクトになる。極端なケースでは,書き手が自分の論文を組んでいる,自分のことですけどね,そういうこともあった。すると,使用しているフォーマットに対して距離が近いんですね。これを,たとえば組版業者に出してどこかの工場で組むとすると,遠くなっていきますね。自分でつくったフォーマットで自分で組む。例外や不都合な箇所が即座に見える。フォーマットの内と外へめまぐるしく出入りした。フォーマットに対して距離が近いがゆえに,僕はフォーマットとしての自分という感じをもつにいたった。
デザイナーと裁判をたたかう人間とを行ったり来たりしながら,法というフォーマットに対して,DTPという極小のフォーマットで見てみようということが,そもそもこの裁判の動機だったと気づいていく。DTPというパーソナルなシステムは,どんなことがあっても剥奪されることがない。そのことに気づいたとき,そのときどきの文書をひたすらデジタル化しておこうと思った。裁判終結時点で,気づいたら裁判文書だけで四〇〇字原稿用紙一二〇〇枚が手元にあった。これが『知恵蔵裁判全記録』の核です。本をつくろうといって,やおらはじめたのではなく,鍾乳洞のようにしてできていった。
フォーマットとしての自分と,朝日新聞の担当者との間の反りの合わなさ,波長の合わなさがあって,それを,朝日新聞社という巨大なフォーマットのせいだと言ってしまっては粗雑過ぎる。フォーマットとしての自分と言ったときに,フォーマットと自分の間に逃げ道がない。ですが,彼らにとってのフォーマットというのは,フォーマットを使いたいと言ってみたり,そんなものはいくらでもあると言ってみたり,わがままに評価でき得るものであった。彼らにとっては,フォーマットとの距離が遠かったということだと思うんですね。
どなたかが書いていましたが,資本主義が消費をあくまでも拡大し続けるのであれば,人間をどんどんわがままにしていく宿命を持っている。なるほどと思い,あらゆる社会的事件が解明できる気もしますが,それはさておき,自分の仕事を含めて最近の装幀を考えて,どういう装幀にオーケーが出るかというと,万人向けの装幀なんですよね。でも,僕がブックデザイナーの杉浦康平さんのところで修業を始めた頃は,どうも違っていたんじゃないか。それは,こういう読者にこそ読んで欲しいという装幀だったんじゃないかと思うんです。つまり,読者を選別していた。不遜な言い方ですけれども,きみには読んで欲しくないんだということを,あからさまにメッセージとして発していたと思うんですね。そういう意味では政治的だったと思います。
それが,いまは選別を排除して,あなたにもあなたにも買って欲しいんですよということを言い募っているという格好ですね。それで,判断するのはお客さんだという格好になってきている。だから,そこではお客さんのわがままが発揮されるということですね。お客さんは,わがままな不動の一点であると。
「世の中に一行一四字はいくらでもある」ということばは,その延長なんじゃないかと思うんです。それは,編集者のわがままというか,とくに「一行一四字はどこにでもある」といっても「一行一四字はすばらしいですね」と言ってもどちらも同じで,編集者もデザインに関していえば,読者であり観客であるわけですけれども,そこでわがままが出た。編集者もまた,わがままな不動の一点でしかないのか,と問いたい。
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裁判官も法というフォーマットの内と外を行き来した
――鈴木さんは,フォーマット・デザインとは自律的であると書いておられます。それは動くことをやめない駆動体であって,優れたものであるほど自律的で,しかも透明で意識されず存在するものなのですね。ところが,裁判ではその自律性を逆手にとって,それが自律的で透明であるから,意味はフォーマットというかたち「において」ではなく,かたち「によって」伝えられるという感覚が固定化する。自律的であるというフォーマット・デザインの,つくり手であるデザイナーからの距離を逆手に取っての,「世の中に一行一四字などどこにもある」,それは遍在するし誰がやってもそうなるから,フォーマットは割付用紙としての役割しかないのだ,といった主張に結びついていく。そのことはさきほど言われた紙的思考の強固さとともに,この裁判の大きなポイントだと思うのですが,いかがですか。 |
鈴木 フォーマット論は,デファクト・スタンダードと交錯する部分があると思います。ある領域での事実上の標準。その場に入ったとたんに発想を縛る。デファクト・スタンダードを獲得するのが,各製造業の目標になるわけで,そこでは,本来文化的な概念である様式が商品戦略になっている。つまり,様式をつくり出す,様式を普遍化してしまうということだと思うんですね。
フォーマット・デザインも,なかに入れば,そのフォーマットによってものを考えざるをえなくなる。難しいのは,そこに著作権を絡めたときに,その場における全員の共通感覚にもかかわらず,ある特定の人間にだけ法的庇護をあたえるべきなのか。そこでは,広くと狭くが矛盾してくる。知恵蔵裁判は,占有するのではなく共有するということが,法律的に可能なのではないか,という提起をしたつもりです。
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――朝日新聞社側の主張においても,やはりフォーマット・デザインに編集著作権を認めると,それが占有化に向かってしまうのではないか,そのことの都合悪さ,それがフォーマット・デザインの編集著作権認定を阻止する力として働いていますね。だから,フォーマット・デザインを割付用紙と言い換える。イデアールなオリジナルに固執しながら,モノとしてそこに著作権がないというところに固執している。それは逆の独占化,いわば既得権益を守ろうとする論拠にも似ているようにも思えます。 |
鈴木 誰が考えてもそうなるものには著作権を与えないというわけでしょう。でも,誰が考えても,という誰もがすでにそのフォーマットを使っているわけですからそうならざるを得ない。そこでは,やはり閉じたシステムが,いかに自己言及性を取り返すかということを考えないとだめなんだろうと思いますね。
地裁と高裁ふたつの判決を読んでいちばん感じたのは,みずからの文章への疑いのなさですね。論理的には必ずしも説得力がないが,文体としては自信満々である。自己言及性を回避する論理体系として完成している,ということはものすごく感じましたね。裁判は社会のすがたをさまざまに写しだすが,法自身は写さない鏡なんですね。
自己に回帰する回路をもうけるということは,自分は未完成だということを公言することになる。自分は弱い人間であり,未熟なんだということが,共有ということにつながっていくわけですね。自己言及的文体をもたない法は,共有概念となじまない,となるのかな。
双方が弱みを見せあうのなら和解できますよ,という格好で和解案があったのかなという気がします。朝日が弱みを認めるのを嫌って,和解は流れた。でも,和解案というのは,人間的な解決であって,法体系そのものは傷つかないわけですね。和解が法の外でしか成立し得ないということをあらわしたことによって,法が限界を示したのかもしれない。裁判官も,法というフォーマットの内と外を行き来した,と言えますね。
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どうしたら自分をミクロに見ることができるのか
――鈴木さんは「複製論」において,レイアウト・フォーマットは再現の可能性をもっていなければならないと書いておられます。そこでは,表現がかたちをめざしたはずなのに,かたちの実現と引き替えに,かたちは単なる表象でしかないという逆転が起きるという問題が指摘されています。そこには表象をめぐる思想的テーマが出てきていると思うのですが,そのことについてお話しいただけませんか。 |
鈴木 あらわれが本質のたんなる写しでしかないのか,いやあらわれこそがすべてだ,という議論の構図に,知恵蔵裁判は見事にはまっている。朝日側や裁判所が,あらわれの向こうに本質を見,オリジナルを抽出していった。それに対して,こちらは,あらわれこそがすべてでかたちと意味内容は不即不離だ,との立場だと整理したくなる。
ただ,あらわれにしか存在はないといったときに,何かがちがうなとも思う。あらわれを見る自分が不動の一点ではなくて,動きながら見ているのではないかということです。最近,動体視力という概念に惹かれているんですけれども,自分も動きながら世界をキャッチしていくイメージが大事なんじゃないか。自分の価値基準,美的基準を絶対としてのあらわれ主義ではなくて,そのあらわれと出会うことで自分も動いているんだということ,その動きながらの観察でないとだめなのではないかということなんですね。そして,その動いていく自分の記述が難しい。
いわゆるあらわれ至上主義とも違う,あらわれを動きながら観察できたことが,たまたま知恵蔵裁判だったんだろうと思います。要するに,動かざるを得なかったわけでね。地裁で負けて,高裁では予備的請求として,お金がどうのこうのとあまりしたくない話をせざるを得なかった。しかし,動かざるを得なくて,見えたこともある。同じ知恵蔵のフォーマット・デザインが,論点によって相貌を変えていく。
デザイン批評においても,動く観客という視点を導入することで,何かが変わってくるんじゃないか。観客が不動の一点で,観客席に座っていれば感動できるというものではないならば,表現とともに観客が動くわけですから,そこで,先ほど言った表現の政治性が出てきますね。
デザインが見る者の行動に関与しているという意味での政治性は,すでに発動している。その事態をあらためて対象とすることでしか,つまりは対抗的にしかデザインは政治性を取りもどせない。そしてそのときの最大の観察対象は自分ですね。自分をミクロに見ていかなければならない。ではどうしたら自分をミクロに見ることができるのか,と次の問いが立つ。
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――あらわれからシンプルテクストを抽出して成立する,鈴木さんが裁判で指摘された還元論的なテクスト至上主義に,先ほど言われた自己言及性がないということが,やはり知恵蔵裁判で浮き彫りにされた気がします。ページのフォーマットの世界性を無視するとまではいわないけれども,それとは別のところにより価値の高いオリジナルなものを措定する。そこにも,法のフォーマットの動きのなさとともにスタティックなものを感じるのですが,その点はどう考えておられますか。 |
鈴木 われわれの持っている日本語文体が,書き手を不動の一点としていないか。判決文書もそうですけれども,新聞記者が書いている記事も,記者が不動の一点になっている。書評に関しても,不動の一点の書評者が,書物を評価し,結果として書き手の個性をいかに浮かび上がらせるか。そこに技が発揮される成熟した文化だと思うんですけれども,はたして今後どうなるのか。
不動の一点からは事態が記述・記録できなくなっているのにもかかわらず,動体が書くという文体が,われわれには見つかっていない気がするんですね。動きは捕捉できないとの思いが,より強く不動点を希求する。これだけ,情報が重層化した今,レイアウトや配置の情報を抜きにした「孤高のオリジナル・テキスト」という概念は無理です。無理だからこそ仮構したがる。アフォーダンスという概念は,動体をいかに知覚するかという研究から始まったのではなかったでしょうか。興味があります。
水彩画の薄塗り方式による編集
――確かに,紙面がスタティックなものになっていることは痛感していて,不動の一点のオリジナルな著者のテクストを,不動の一点の書評者が評するというふうに固定化しています。そういう意味では,この『知恵蔵裁判全記録』は,ブック・デザイナーと編集者や組版者,作家や弁護士のみならず,裁判を争った朝日新聞の関係者や弁護士,そして裁判官までが参加するという世界ですね。 |
鈴木 朝日新聞社側の弁護士も「共同著作者」だと思いますね。準共有している。
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――そこで『知恵蔵裁判全記録』を読んで思い知るのは,書物の成立にいたる編集過程をトータルに把握していく,それを総体的な世界観でもって見ていく力が,私自身を振り返ってもそうですが,編集過程に関わる者において弱まっているのではないかいうことなのです。知恵蔵裁判の発端にあった鈴木さんの「許せぬ」にも,新任の知恵蔵編集長のことばのなかで,端的に「世の中に一行一四字はいくらでもある」というようなかたちで露出したその問題があったのではないかと考えます。そうした意味でもこの裁判は,知恵蔵裁判を読む会の活動としても,先ほどお話に出ました,編集過程に関わる者たちが自らの仕事を自己言及的に問うていく動きをも記録したものだと読むことができるのではないか。そう思うのですが,いかがですか。 |
鈴木 二〇〇〇年の春ごろから,『知恵蔵裁判全記録』をつくろうと考え出した。見えるがまま,原寸主義,ルールやマニュアルの公開,顔の見えるチーム,などのDTP的精神を磁力にして,「知恵蔵裁判を読む会」が機能しはじめる。
夏頃,予感として,この本の校閲・校正は,水彩画の薄塗り方式でないとだめなんじゃないかと,みんなと話し合ったことがあるんです。その時はあまり意識化されていなかったんですが,いま思うと,やはり水彩画の薄塗り方式だった。
従来の編集過程というのは,表記原則を立て組版ルールを立ててというふうに,目標を先に置いてワンステップずつ上昇していたと思うんです。けれども,それがこの本ではまったく効かなかった。この本には,一冊のなかに考えられる限りあらゆる種類のテクストがあったと言っていいと思うんですが,そうすると,一つのルールを立てると片方で破綻する。それを回収するということを繰り返していくと,減っていく赤字があるいっぽう,増える赤字もあり,ほとんどモグラ叩き状態だったわけですね。
そんなに多い制作チームではないですけれども,一人単位でいうならば,一人の人間が無数の間違いをしたと思うんです。前回洋数字を正立させろと言っていた人間が,今回は倒立させろと言っているわけで,本来ならば個人個人の責任が問われたはずなんですけれども,問う暇もなかったし問うべきではないと感じた。一人ずつで見ると責任は発生しているんだけれども,自分の間違いを他の人が消してくれ,自分も他者の間違いを無言のうちにフォーローした。互いがまちがいを消しあうことが許された進行だった。ワンステップずつ推移して進むのではなく,水のように薄い絵の具ですべてを水に流しながら次にいくという作業でしたね。
そして,この本ができた。制作過程では,編集はどこにあるのだと,誰もが思い,違和感をもった。事前を一切予期しないやり方で,やっている最中は何をやっているのかわからなかったのが,できあがってみると,この本に編集がないとは誰も言えない。つまり,薄塗り方式のなかに編集があった。これは新しい編集の方法だったんじゃないかといま思わざるをえない。著作権の準共有を訴えた知恵蔵裁判を記録する本が,やはり結果として,責任の準共有,宥和的なといっては誉めすぎならば混沌とした編集方法によってしかつくられなかったことがおもしろい。
事前を予期しない,目標にかならずしも縛られない,責任を問わない,新たな編集方法の兆しがあったのではないか。ただ,書物というかたちで一冊の固定物になると,間違いが立ち上がってくる。それに対しては,責任が明示されてしまう。つまり,他人に言われないまでもこれは自分の責任だと本人がわかる間違いですね。書物というかたちに固定するということが,間違いを表象し責任を顕現させる。
本が動いている限りは責任を問わず,間違いを共有することができる。そこで,本が固定することと動くことの関係とはどうなのかな,と思うんですね。編集者は本ができたらなぜ訂正原本をつくるのか,それは必ずしも重版のためではないですね。僕は本というのは,止まったとたんにまた動くんじゃないかと思います。
止まって動くというのはページそのものでもありますね。映画のフリッカーでもいいんですけれども,二四コマが四八回映写されて,ひとの目のなかでつながる。固定しているんだけれども動く。いままでの責任体系やワークフローというのは,固定することを目的にし過ぎたのではないか。『知恵蔵裁判全記録』というのは,もみくちゃになりながらわけもわからずやったんで,美化して言っているところもあるんですけれども,積極的に評価すると,動いている本の編集方法を垣間見たんではないかと思うんですね。
この体験のなかで,これは品質がいい,これは悪いといった,いままでの組版の品質基準というものは一瞬崩れたことを感じた。ある意味では恐ろしい,壮絶な世界だった。これが高くてこれが低いといった基準のない,無重力の世界だったわけですね。
反省もあるのです。DTPでは,最初からきっちりと組みあげないほうが能率がよいところがあって,そもそも薄塗り方式的なところがあるのですが,それでも,比喩的に言えば,段階を追うにしたがって明視距離がじょじょに近づいていく感じがあった。初校では五〇センチメートル,だんだん近づいて最後は五センチメートルぐらいから仔細に眺め回して完成というイメージですが,この本では,その接近というプロセスすら消滅し,それゆえの組版上のトラブルも発生しました。
気がつくと,そういうフォーマットのなかに,関係者全員がいたということですね。そして,この仕事に携わった人間が,薄塗り方式の本づくりのフォーマットのなかにいたということ,それをこんどは自己言及的にどう記憶から取りあげていくのか。動く自分を動的に記述する。そのことが,これから始まります。
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編集とは何かという疑問の洞窟へ
――知恵蔵裁判の投げかけた問題はまた,再販制度と関わってくるものでもあると思います。それは本,書物というかたちの未来とも結びつく大きな問題を内包していると思うのですが,最後にその点も含めて,これからを問う鈴木さんのお考えを聞かせていただけませんか。 |
鈴木 文化という概念と再販制度は固く結びついているのですが,知恵蔵のフォーマットは実用的である,つまりは文化的ではないという理由で,敗訴の判決を書かれた側面があります。知恵蔵のフォーマットに対して,文化は排斥的に働いた。では,フォーマット・デザインを文化と認めさせたいかというと,そうでもないんです。実用的であるまま,存在を認めさせることばがないのか。文化だから守れ,とは違う論理が必要かもしれませんね。実用的でないフォーマット・デザインなど考えられません。
たとえば,横組の国語辞書があらわれ,そこで縦組がよいか横組みかという問いが立つのだろうが,おそらくそうじゃないと思うんですね。優れた縦組,だめな縦組があるように,優れた横組とだめな横組があるわけで,縦か横のどちらがいいかということではない。横組みにしたときには,字間はプロポーショナルがよいのか,行末処理はどうするのか,そもそも横組みにふさわしい書体はどういうものか,など手つかずの課題が山積しています。日本語の横組組版は,まだ縦組みと手放しでくらべられるほどの研究がされていない。
知恵蔵裁判も,著作権是か非かを高見から問うたわけではない。知恵蔵のフォーマット・デザインというスクリーンに写るかぎりの著作権を観察しようとした。同じように,横組み一般というものがあるわけではなくて,たとえば岩波書店の国語辞典の横組というあらわれが目の前に姿をあらわす。それに読者がどう対峙するかに視覚的な勝負があるわけで,その勝負を微細に見つめないといけないんでしょう。再販制度も,是か非かの議論もあるべきだが,具体的な事例に写し出して観察しなければならないのだと思う。是か非かの高所からの議論は,論者を不動の一点にする可能性がある。個々の問題の決着ではなく,動いていく自分という視点とそれに付随する文体の確保のほうがいまは重要に感じるんです。
横組みの辞書が読者にどう見えているのか,それを記すためには,紙的思考とは何かという思考がいる。これはいくら強調してもしたりない。オンデマンド出版を考えると,やはりどこかで,オリジナルなテクストがプールされているというイメージを強化しないか。紙というものが,たまたまテクストを乗せて運んでくるものに過ぎないというふうにイメージが逆転しないか,という予想をしますね。
ただ,微細に見つめるというのがなかなか難しくて,あなたは本当に見ているのか,という昔ながらの問いになってしまうわけですけれども,見る自分をさらに見るという動的関係のモデルをデザインは率先して生みださないとならないのでしょうね。デザインが,見ているのか見ていないのかということを問う,きっかけでありたい。それがなければ,紙で考えていることを,自分の問題として考えることができない。
様式のなかにいる自分をいかに見るかをふくめて,それらはすべて編集だろうということですね。こういうものをスクリーンに映し出したならば,読者ないし観客にどう受け取られるかということを引き受ける,計算する。それと,さっき薄塗り方式と言ったような,事態を追認しつつ編集主体が変化していく編集というものがありうるのか。そのことについては,必ずしもいま解答があるわけではないですけれども,やはり編集とは何かという疑問の洞窟に入っていかなくてはならない。ものづくりにも,アッセンブルしたりオブジェクトを組みあわせたりと,編集的工程はかならずあるんではないでしょうか。さらに,それらの編集的思考と紙的思考がどこかで密接につながっていないかどうかということですね。
「孤高のオリジナル・テキスト」という概念は無理であるゆえに,HTMLをふくめたマークアップ・ランゲージが注目されるという事実がある。かたちやあらわれの情報をふくめたテキストですよね。具体的には,これからマークアップ・ランゲージのひとつであるXML(Extensible Mark up Language)とフォーマット・デザインの関係について考えてみたいと思っています。フォーマット・デザインのありかたもまた動いていく。法的に言えば,編集権の拡大ということが,これから大きなテーマになってくると思いますね。
(了)
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