読書録 2005年11月後半(敬称略)

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  • 11月25日 『ユリイカ』12月号が“野坂昭如”を特集、金井美恵子「エイ、エイ、」。【しかし、たとえば、「小説」というハイ・カルチャーに対して地位の低かったマスコミ文化の担い手の中でのかってのライヴァルだった永六輔についての野坂昭如の語り方は、「ねたみ・そねみ」という用語を自家薬籠中の「妄想」として使いこなす小説家としても異常なのだ。いや、「正常」というべきなのだろうか。/永六輔がどのようにいやな奴だったのか、野坂昭如は何一つ具体的に、エピソードを混えたりして語りはしない。ただ、あいつは本当にいやな奴で、あんないやな奴はいません、とどもり気味の早口で、やや口唇を突き出し、笑いを押し殺したような口つきで言うのだ。黒眼鏡で眼つきは見えないのだが、何かとても気の利いた思いつきがひらめいた、という時、ある種の人の眼がそうなるように、パッと輝いてキラキラしていたのに違いない(それは傍から見ていて、ほんとうに気の利いたことが発言された場合、会話というものの持つ、実に楽しくて幸福な時間を経験することになるのだが)。原爆でもなんでもいいけれど、地球上の人類が滅亡して、おれだけが生き残ったとしたら、と彼は言う。そこへ『猿の惑星』の猿でも宇宙人でもいいのだけれど、そういう者があらわれて、そいつらは何も知らない猿だから、まず最初にいやな奴というのは「エイ」というのだと教える。そしたら、自分が死んだ後でも、猿だか宇宙人だかは、いやな奴を見ると、エイ、エイ、と言って(と、ここで、『猿の惑星』のお猿の真似)、語源は不明なまま地球語としてエイ=いやな奴という言葉が残る、と言うのだ。〔……〕/『エロ事師たち』のスブやんの創造するあの奇妙な悪夢と甘美な純粋さが混りあったグロテスクな「ダッチワイフ」の荒涼として見果ぬ性と死の、長い長い脱力の感覚にも似て、野坂昭如的言葉の世界には、豊饒と荒涼が猥雑と気品とに気まぐれに変化し、倦怠と脱力が不意に怒りと活力に目まぐるしく変わり、同時に、それを語る人の眼は、おかしそうに輝く、というよりは、思いがけない深淵をまた開いてしまったことに驚きつつまたたいて、「これを私が書いたのか?!」(スウィフト)と言いつづけていたのではなかったか。野坂昭如の同時代の小説家のほとんどが、自分の書いたものを読みかえして、「これを私が書いたのか」と驚く資格を、よかれあしかれ持ちあわせてはいない(三島や井上ひさしや筒井康隆が、そう思うだろうか)のだし、それは若き日や壮年の最盛期よりも、今の自分の知力が衰えている、ということとは無関係なのだ。たいていの小説家は、「作者」としての自己の存在を間違えることなく「これは私が書いたのだ」と、告げることにためらいを感じたりはしない。少数の例外を除いて。】〔引用は傍点省略〕。

  • 11月24日 レーバーネット日本11月16日付に「韓国:非正規職権利保障のための国際シンポジウム」/「韓国:日本の悪い前轍を踏むな」、【非正規国際シンポジウムの最初の行事だった「非正規職権利保障のための法制度改善方向」の全体会議には、イビョンフン労務士(労働人権実現のための集い)の司会で、ティム・トゥ・メイヤー(ILO)、チョギョンベ(民主主義法学研究会)、脇田滋(日本龍谷大学)、アポロン(香港、アジア労働情報センター)氏など、国内外の専門家が発表した。〔……〕/メイヤー氏は「競争の時代と世界経済体制で、躍動的で経済成長の源泉になることが誰にとっても良いと思う」と述べながらも「ILOは、国連やその他の国際機構よりはるかにこの過程で起きることについて心配と憂慮をしている」という言葉で、労働の柔軟化に対する危険性に言及した。「"労働柔軟化を追求すること自体は望ましく、それが世界的な傾向」だが「非正規労働者、女性労働者、失業労働者など、さらに多くの形態の労働者がすべての恩恵を同等に享受できなければならない」ということだ。〔……〕/脇田教授は「日本の派遣法は、世界で一番貧弱な派遣法」だと強調し、「韓国も、同じように企業別労組に派遣法を導入するのは基本的な前提を無視した処置」と批判した。日本は、1986年から派遣法が施行され、当初は16業種に制限されていたが1996年には26業種に拡大され、1999年にはネガティブリストに転換、派遣期間も1年から3年に延長されるなど、韓国政府が施行しようとしている派遣法拡大と似たモデルだ。/脇田教授は「派遣法を作り、不法な派遣を防いで派遣労働者を保護するという政府の言葉は全くの嘘」とし、その証拠として「むしろ偽装請負が蔓延しているのに、これを摘発せずに放置している。派遣できない業種の製造業にまで不法が幅をきかせている状況」と話した。/契約職労働者の状況も韓国と似ている。日本の労働者の二人にひとりが非正規職労働者で、正規職労働者の平均賃金が33万円であるのに比べて、派遣職は20 万円、パートタイム労働者は9万円の賃金だという事実も伝えた。短期契約を繰り返して更新した労働者が正規社員と認定された最高裁の判例を利用し、二回の契約更新後に解雇するという使用者の形態も韓国と似ている。/脇田教授は「ILOでは韓国を憂慮している」というティム・トゥ・メイヤー氏の発言に関し、「日本こそ、ILOが憂慮しなければならない」とし、「日本のストライキは、労働市場が安定しておりほとんどストライキのないスウェーデンのストライキの数の半分しかない」という言葉で日本の労働運動を批判した。】。

  • 11月23日 ▼太田昌国「死刑廃止のための、ふたつの試みの中で考えたこと」.11.22up〔『派兵チェック』第158号 05.11.15掲載〕。▼「日弁連、中坊氏の退会届受理…不適切な債権回収で」.11.22読売 /「中坊公平弁護士が正式に廃業」.11.22日刊スポーツ /「中坊氏の弁護士登録抹消を受理 廃業表明から2年」.11.22朝日。「要するに、もし人を咬む犬なら、たとい岸にいようとも、あるいは水中にいようとも、すべて打つべき部類だと私は考える」1925年12月、魯迅。関連読書録:99.01.13付 /98.12.11付 /安田弁護士不当逮捕・不当起訴問題(総集編 vol.1)「インタビュー 魚住昭氏に聞く『特捜検察の闇』」〔『図書新聞』2540号〕。前田年昭「住管機構のファシズムを暴露 「国民の支持」を掲げた「正義」は勝利するか」〔1999年3月、『週刊読書人』第2279号 1999年4月2日付掲載〕。

  • 11月22日 11月21日放送のNHKクローズアップ現代「ダルデンヌ兄弟 若者へのまなざし」、【今年のカンヌ映画祭で最高賞パルムドールを受賞したベルギーの映画監督・ダルデンヌ兄弟。失業から抜け出そうともがく少女の格闘を描いた「ロゼッタ」。息子を殺された父親と加害少年との予期せぬ出会いと葛藤を描いた「息子のまなざし」。一貫して社会の底辺に生きる若者を描き高い評価を得てきた。「ロゼッタ」に続き2度目のパルムドールに輝いた新作「ある子供」はいわゆるニート青年の虚無と成長を描き、「若者と仕事」という兄弟の最大のモチーフを深めた作品。「仕事を抜きにして人間は社会とのつながりを構築し得ない」と言い、それを大人が子供に伝えることの難しさと大切さを伝えたいというダルデンヌ兄弟。来日の機会を捉え、そのメッセージをキャスターインタビューで聞く。(NO.2168)/VTR出演:ジャン・ピエール ダルデンヌさん(映画監督)/:リュック ダルデンヌさん(映画監督)】。関連:「「“恩返し”映画撮りたい」…ダルデンヌ兄弟来日会見」.11.02サンスポ /「FLixムービーサイト:ある子供」/「シネこみ:ある子供」/「2度目のパルムドールを受賞した兄弟監督が来日」.11.08 eiga.com 。

  • 11月21日 押井守「勝つために戦え!その13(押井守コラム)」。【ニートでもプータローでもいいけど、要は生き方が定まったかどうかだよ。日本で「生き方が定まった」っていうのは職業のことだから。職業を転々としてるけど生き方は定まってますというのは日本では通用しないよね。芸術家だけは、新聞配達してようがコンビニでバイトしてようが、詩人は詩人であるという生き方が例外的に定着してるかもしれないけど。通常生き方を定めるということは定職を持つということと等しいわけ。だけど、ニートそれ自体が生き方なんだっていう人間が現れたらどうするのか。今の日本では中流レベルでも、子供が遊んでても親が働いていればなんとかなる。昔は食えないから、学校出たらさっさと働け、じゃなきゃ出てけって言われる。】【ひとつには定職に就くことの価値が提示しきれなくなったんだよ。親父が一方的にリストラされたりとか、生命保険会社だって銀行だって潰れたり。終身雇用以前に、定職っていうものがそもそも存在するのかっていう話になる。手に職つけるというのは別にして、何の技能もなくて就職もしなければ、自動的に世の中の再生産単位ではなくなるわけだ。いち消費単位となるわけ。その消費単位の割合がこれから増えていくことは間違いない。〔…〕】【〔…〕消費単位としてしか生きないという人間が、これからどんどん増加するだろうね。良くも悪くも。/それは、単純に言えば世の中は階層化に向かっているということだよ。戦後民主主義的な理想とは裏腹に、全てを公平にしようという過程の中で、現実には階層化とか選別とかいうことが機能し始めている。真っ先にあるのは、消費単位と再生産単位。消費者は絶対的に必要でしょ?今の日本の産業は、若者向けの産業ばかりだから若者の消費単位化が進む。〔…〕】【〔…〕確かにニートには勝つという積極的な契機もない。だけど、負けないっていう構造にニートはなり得る。だって関与してないんだから負けようがない。】。

  • 11月20日 「身寄りない在日ら 安心の「追悼碑を」 堺」.11.18朝日(マイタウン大阪)、【在日韓国・朝鮮人と日本人のお年寄りがともに暮らす特別養護老人ホーム「故郷の家」=堺市檜尾=が、遺骨の引き取り手のない入居者のための「追悼碑」をつくる準備を進めている。資金集めのチャリティー・コンサート(実行委員会主催)が23日、「冬のソナタ」にも出演した韓国の人気歌手ユ・ヨルさんを招いて開かれる。/89年の開設後に亡くなり、ホームで預かっている遺骨や遺品は13人分。うち12人が植民地支配下の朝鮮半島から日本に渡った在日1世で、戦時下、徴用工として炭鉱や造船所で働いた人もいたという。身寄りのないお年寄りは、現在の約90人の入居者の中でも6人いる。/「故郷の家」は用地として、敷地に隣接する竹林(約2800平方メートル)を購入。入居者や来園者が気軽に散歩できる公園にし、一角に追悼碑をつくる計画だ。田内文枝・総括施設長(56)は「追悼碑があれば、身寄りのないお年寄りにも安心してもらえる。来園者にも、在日の高齢者らの生涯を知ってもらえる場になるでしょう」と話す。/コンサートは23日午後2時から、堺市茶山台1丁の国際障害者交流センター「ビッグ・アイ」で。前売り自由席5千円、チャリティー席1万円。当日券もあり。問い合わせは、「故郷の家」の河合さん(072・271・0881)へ。】。

  • 11月18日 「THE INCIDENTS」11.11付に、醍醐聰「警察庁長官等への取材制限に関する意見書 記者クラブの性格・実態と関わらせて」。記者クラブの歴史からその弊害、「記者室」問題に関する評価まで、極めて細かく論考されている。必読だ(寺澤有)。

  • 11月17日 ▼康宗憲「日朝ピョンヤン宣言3周年(韓国から見た日朝国交交渉)」05.09.17〔韓国の声65号、05.11.09〕。▼犬塚彰『右翼の林檎 “禁じられた”思想の系譜を飲み下すために』1999年6月、社会評論社。【かつて玄洋社の人々が「民権論を捨つる弊履の如く」(『玄洋社社史』)して国権論の立場に移行したとき、民権運動の挫折と権力によるその〈回収〉を歴史的背景としていたことは既にみた。しかしイデオロギーとしてみれば「民権」と「国権」とは近代ナショナリズム形成の二本柱であり、また表裏でもあったわけだから、その限りにおいて両者は必ずしも対立する訳ではない。nationalism の語が「国民主義」と訳され、また「国家主義」と訳され、共に「民族主義」で括られることを考えれば、もともとイデオロギーとしてのナショナリズムの〈容量〉は、松本や西光をささえ掌の上で弄ぶことのできるものだったと言える。/しかし民権闘争の挫折のはてに、なお民権か国権かと問題を立てるのはスジ違いだったと言える筈である。そう考えざるを得なくさせた大きな〈力〉の存在を背後に感じなgら、彼等は民権論をボロ靴のように捨て去り、自らもその一部であるアジア世界に一歩を踏み出した。その結果、彼等の背後からやってくる大きな〈力〉がアジアを侵略するという現実を目にするはめとなった。/このとき彼等はどうして、ついでに国権論もボロ靴のように捨て去らなかったのか。自らをアジアの志士として、その〈力〉と徹頭徹尾に闘い「アジア主義」を真の政治イデオロギーとしてうち立てる道もあった筈だ。ところが彼等はそうしなかった。民権論の何たるかを問わなかったように、国権論の何たるかもまた問わなかったワケだ。この段階で彼等のアジア主義的言辞が、無内容で白々しい響きを奏でることになったのは明らかである。/この数章、我々は「右翼イコール悪だ」式に問題を展開してこなかった。できる限り〈右翼〉的心性に密着したかたちで問題を整理してきたのだった。結論的に言えば、一九世紀的に形成されていった〈右翼〉は自らを確立すると同時に、二〇世紀帝国主義という敵を内部に抱え込んだのである。モチロン、そのことは「右翼」であろうが「左翼」であろうが関係のないことで、アジアに足を踏み入れるとき、ナショナリズムのくびきを外して帝国主義と対決しない限り、彼等の言説と行動は侵略的に作用するしかないのだ。】。

  • 11月16日 飛幡祐規「社会の亀裂」.11.15先見日記、【一方、若者たちの暴力が政治的な闘争や社会運動に移行できるかというと、その望みも薄いような気がする。先週も書いたように、これは不満の爆発であるばかりか、ギャング抗争などの混在した多面的な現象でもあり、当事者が言葉で政治的・社会的要求を表現できない事件だからだ。暴力の後ろには「俺を人間として尊重しろ(「リスペクト」は彼らのライトモチーフだから、シラクも使ったが)という叫びがあるが、サルコジを「やってやる」つもりで隣人の車を燃やしてしまうほど、彼らの視野は塞がれているのだ。10月12〜13日付リベラシオン紙の「私の日記」でアメリカの作家ラッセル・バンクスは、彼らが「消費者」として以外は社会でまったく不要な存在にされた点が、この暴力の原因のひとつだと指摘している。「教育をちゃんと受けなかった思春期の若者たちは、グローバル経済が製造する無意味でろくでもない商品の消費者となる。人は消費者として以外は自分が社会で何の役にも立たないと感じると、怒り出す。歴史的・思想的語彙を持たないと、彼らはその怒りを自分たち自身やすぐそばの人・物に向けるのだ」(部分訳筆者)(http://www.liberation.fr/page.php?Article=337863)/郊外の若者たちはフランスでいちばん先にブランド信仰に染まり、最新のナイキを身につけていないと「恥」だと感じるほど自分に自信がない。「恵まれない地区」の若者を対象にしたセーヌ・サン=ドニ県の文化・芸術アトリエに参加したアーティストは、「彼らは自分たちが嫌われていると信じ込んでいる」と言う。(http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-706693,36-709583@51-704172,0.html)とりわけ元植民地からの移民の子孫の場合、親たちの祖国の文化からもフランス社会からも疎外されているというアイデンティティ不安に陥りやすく、日常的な差別は被害妄想的な心情を生み出す。差別はたしかにあるが、被差別者がより弱い者を差別する図式に彼らがはまらないようにするには、つまり徒党を組んで自分のグループとなわばりに閉じこもり、男性優位主義と劣等感にもとづく規範に従わないようにするには、どうすればいいのだろうか?】。