2月27日 季刊『インターコミュニケーション』No.52 Spring 2005(2005年4月)が“文化の臨界”を特集。平芳幸浩+谷村博美+岡崎乾二郎+マリオ・ペルニオーラ+岡田温司「(シンポジウム)デュシャンと現代美術の保存・修復をめぐって:オリジナル/レディ・メイド/レプリカ デュシャン以後、「作品」はどう変貌したか」。岡崎乾二郎は「作品を決定するのは誰か」「作品の「完成」とは何なのか」ということについて次のように発言している。【〔…〕作家自身の死か、発表という形式で自分の持続する生を他者に受け渡すか。作品の完成とは、作家自身にとってはいずれにせよ「死」という問題に関わるものなんですね。/死と完成という問題に関して、デュシャンはレディ・メイドを発見したことを友人へ告げる書簡に、私はそれを「already finished」のものだとする、と書いています。つまりレディ・メイドとはすでに完成させられたもの、あるいは、すでに終わっているもの、死んだものだという重要な指摘です。〔……〕修復という他者性の導入によって、はじめて作品の完成が意識される。つまり修復によってはじめて、それがalready finishedであることが意識される。〔…〕/いずれにせよ作品は作者一人によって完結できるものではありません。むしろ作者がその作品成長の権利を放棄することではじめて可能になる。〔…〕われわれの日常で、これにいちばん近いのは「契約」という場面です。〔……〕/修復そしてレディ・メイド/already finishedに含まれているのは、再認という行為です。つまりレプリゼンテーションということですが、すでにあるものを再確認して再表象することが含まれている。作品の完成には再認を必要とする。作品の発表とは、この地点を標す儀礼的な場面であり、この儀礼を通過したとき作者自身の視点も転回し、自分の作品をalready finishedのものとして改めて見出すことになる。そこで再認される作品は、かつては自分自身に属していたとしても、いまや手に届かぬ他者となった死体のようなものです。他者性への移行という意味で、作品の「制作過程」と「完成」のあいだには大きな切断があるわけです。〔……〕修復という行為は、こうしてかつてひとたび存在が認知されたという出来事をトレースしなおすこと、再認しなおす「儀礼」のように感じられます。一度交わされた「完成」という契約を、繰り返し再契約する儀式のようなものではないでしょうか。だが一方で、その契約を交わした社会自体が不滅でない以上、交わされた契約も信用もいつか破棄され忘却される可能性がある。むしろそのように破棄される可能性があるからこそ、われわれは契約、約束事として、それを安定させようとしてきたのだと思います。デュシャンの作品はそういう社会契約としての作品という側面を強く考えなおさせてくれます。】。
2月26日 連続ティーチ・イン沖縄実行委員会から「沖国大「壁」について緊急署名のお願い」、【★★経緯/昨年8月13日に沖縄国際大に、米軍ヘリが墜落した。黒こげになった正門左手のその壁は、ごくふつうの幹線道路の脇に、ちょうど半年たったいまも、そそりたっています。/沖縄米軍基地に日常生活を脅かされている沖縄の普通の市民の現実を、この壁は象徴しているのです。/沖国大学生/教員や宜野湾市民は、この大学一号館の壁を歴史の証言として残そうと、9000人を超える署名を集め、各種シンポジウム、「記憶の壁プロジェクト」、「8・13・記憶の場を考える市民の会」実行委員会等を通じて活動して来ました。そこでは、壁の保存と新館建設を両立させるために、黒こげになった壁と階段を取り込んだかたちで新たな校舎を建設するアイディアが出されています。事故のPTSDに苦しむ住民に対しても配慮し、スイッチ一つで透明/不透明になるガラスで覆うというという斬新な案が学生から寄せられるなど、創意工夫に満ちた提案が学内でなされてきました。/しかし、沖国大の渡久地朝明学長ら執行部は、12月17日に壁を撤去し代わりにモニュメントを建てる案を、学内での十分な討議も経ずに公表しました。撤去の理由として、保存に費やす財政上の問題、周辺住民の心理的ストレス、汚染された現場の土壌入れ替えが必要、などの理由を挙げています。これらの理由に対し、学内外から疑問の声が上がり、教職員有志による「記憶の壁プロジェクト」から理路整然とした反証がなされたのですが、執行部はいまだ議論を深めることも、公表することも行っていません。/★★直近の動き/2月16日、事故から半年を経、「保存」と「撤去」の並行線が膠着状態を続けるままに、大学執行部は、学内での十分な議論を経ず一方的に、一号館の取り壊しを決議しました。そして近々行われる理事会で既定路線として押し切ろうとしています。/この半年間、沖縄国際大学学長および執行部に対し、壁の保存という問題を通しながら、大学の自治、民主的話し合いを訴え、地域にひらかれた大学として の役割を果たそうと努め続けてきた沖国大教職員、そして議論の蚊帳の外に置かれ続けてきた学生や市民たちは、このような一方的な決定に対し、議論の場を 密室から外へとひらき、様々な声をすくいあげ、説明責任を果たすよう、訴えています。/8月13日に、学内を占領した米軍によって自治を蹂躙された大学が、自ら学問の場の自治を否定するような暴挙にでることはあってはならないことです。/★★壁の保存を訴えるアピールへの署名のお願い/私達「ティーチイン沖縄実行委員会」は、昨年9月より東京で、車座集会、講演会などを行って来たグループです。(活動についてはHP参照 http://okinawaforum.org/okiwiki/index.php )この団体で保存を訴えるアピールを用意しています。/壁が保存されれば、歴史の証人としても、今後の沖縄米軍基地(とりわけ普天間基地)問題を考える上でも、重要なモニュメントとなることは間違いはない でしょう。このまま壁があとかたもなく失われるとしたら、それは沖国大や沖縄県民のみならず、日本全体にとって大きな損失となります。/このアピール文に多くのかたの賛同の署名を集め、議論の場を外部にもひらくよう、大学執行部に訴えます。ご賛同いただける方は、下記「アピール」に「賛同する」旨と、お名前、そしてご住所または所属を明記の上、JZW00142@nifty.ne.jp 宛に、3月6日までにメールをお寄せください。よろしくお願いいたします。】。
2月25日 連続ティーチ・イン沖縄実行委員会によるアピール、賛同者一同「米軍ヘリ墜落事件現場の保存を訴えるアピール」2月13日。【私たちは、沖縄国際大学構内の米軍ヘリ墜落事件現場の現状のままの保存を強く訴えます。/2004年8月13日、米海兵隊所属CH57D大型ヘリの沖縄国際大学への墜落・炎上は、単なる事故ではなく、在日米軍基地の75%を沖縄に集中さ せ、その危険性を知りながら放置してきた日本政府および日本に住む私たち全員に責任のある事件です。/軍事基地に隣接した沖縄の実情について、私たち日本本土に住む人間はあまりにも無知であり、また、軍事がらみの暴力に無感覚に生活しています。しかし、去る8月に起きたヘリ墜落事件は、改めて私たちに、基地を抱えて生活せざるを得ない沖縄の現実をまざまざと見せつけました。その爆発・炎上のすさまじさ、そして、その後の米軍による大学自治を完全に無視した封鎖状況は、私たちの想像をはるかに超えたものであり、地域の社会と沖縄国際大学が受けた屈辱はいかばかりだったでしょうか。/沖縄国際大学1号館の「壁」に刻まれた黒い染み、重油の匂いの残る黒こげのままの木。それらの暴力の痕跡のなかに、私たち自身の無知、無関心、他者の痛みへの無理解という自画像を目撃せざるを得ません。また、9月12日、沖縄国際大学のグランドに集まった3万を超える沖縄の人びとは、その黒い痕跡に、いつか頭上に降りかかるかもしれない基地被害の恐怖、「鉄の暴風」の吹き荒れた沖戦とその死者の姿、あるいは、沖縄の基地から飛び立っていった米軍が起こし、今なお起こし続けている殺戮が見えたのではないでしょうか。そして、事件後に開かれた沖縄国際大学の学園祭で、学生たちは、その現場を意識し、「米軍ヘリが墜落した大学としてふさわしい学園祭にしよう」と呼びかけています。また、地域の文化実践や芸術活動、平和学習の現場として、多くの人たちがこの「壁」の立つ現場に向き合い、今、私たちはどこに立っているのか、そして、どこに向かおうとしているのか、自問し、互いに語り合い、過去・現在・未来を展望しています。/1号館の「壁」や黒こげの木々は、それら自体は無言のまま、そこに立ち尽くしています。それは、沖縄戦で亡くなった人びと、無言の領域にいる死者の存在を想像させます。無言の死者に対して、生きている私たちは、自由に語り、考え、行動することができます。墜落現場の姿は、私たちに、無言の死者の声を想像し、歴史に対して真摯に行動を選択することを促している、そのように思えてなりません。私たちは、現場で議論を重ねている沖縄国際大学の学生の皆さん、そして、この半年間、困難な状況のなか、大学自治と民主主義を尊び、議論を重ねてこられた沖縄国際大学の教員・スタッフの皆さんの姿に、大きな励ましを受けています。/どうか、沖縄国際大学の米軍ヘリ墜落事件の現場を現状のまま保存し、私たちが、考え、想像し、語り合い、学び合う場を残して下さい。そして、沖縄国際大学が、教学の場から、軍事主義や暴力を問い、平和と学問の自由を日本、アジア、そして世界に発信する場となることを切に願います。普天間基地返還後の大学について構想するとき、まさに、この米軍ヘリ墜落炎上事件の現場の存在こそが、沖縄国際大学の大きな財産となることは間違いありません。現に、今このときにも、多くの市民が、また、県外からの学生や市民が、墜落現場を訪れ、この証言の「壁」に向き合い、記憶の場、平和を構想する場として、沖縄国際大学の重要性と独自性を認識し始めています。/事件を契機として、私たちは基地問題を、大学自治を、研究と教育の自由を、記憶の場を、死者の無言の領域と生者の選択の可能性を、絶望と希望を深く考える機会を得ました。私たちは、沖縄国際大学が、そうした市民の期待を裏切ることなく、沖縄の次世代、また、沖縄に来て学ぶ日本本土の次世代、アジアからの留学生など世界の次世代を育成する責任ある大学としてふさわしい決断をされるよう心から訴えます。】。
2月24日 アジアプレスネットワーク(APN)ウェブジャーナルのサイトに、「ネパール 非常事態宣言! 小倉清子の緊急手記」第1回(05/02/08)/第2回(05/02/10)/第3回(05/02/16)/第4回(05/02/21)、【2月1日、ギャネンドラ国王が非常事態宣言を発し、全権を掌握したネパール。国際電話、インターネットなどの通信は遮断され、カトマンズ在住の小倉清子との連絡も途絶えた。2月8日、ようやく通信が復活。通信の切断、治安部隊の出動、反国王派の監禁・拘束など、混迷続くネパールからの現地リポート。】。関連:毎日.02.02a/.02.02b/.02.04/.02.05/.02.08/.02.13/.02.16。ジャン=リュック・ラシーヌ、青木泉訳「マオイストの反乱に揺れるネパール王国」ル・モンド・ディプロマティーク2003年7月号。
2月23日 高橋豊「現代を映す劇場:「三文オペラ」など、ブレヒト劇が2月に集中」.02.22毎日、【今月、東京でブレヒト劇の公演が相次いだ。/俳優座が、創立60周年記念公演として「三文オペラ」(千田是也訳、安井武演出)を上演。まつもと市民芸術館と北海道演劇財団、TBSが手を結んだ「コーカサスの白墨の輪」(松岡和子訳、串田和美演出)は、東京公演が終了したが、北海道の朝日町、富良野市、札幌市、長野県松本市で上演が続く。〔…〕】。
2月22日 「第15回墨のかおりカリグラフィ展」2月21日(月)〜2月27日(日)11:00〜19:00、京橋・GALLERY KUBOTA 6F(東京都中央区京橋2-7-11、TEL03-3563-0005、地下鉄京橋6出口/宝町A5出口)、【毛筆によるカリグラフィが、イメージの伝達にどこまで有効か……。書道ではない書カリグラフィの造形をどこまで高めることができるか……。私たちの課題の成果を、ぜひご高覧・ご叱責いただきたく、ご案内申しあげます。〔…〕】。
2月21日 企画展「痕跡 戦後美術における身体と思考」1月12日(水)−2月27日(日)、月休、国立近代美術館、850円/大学生450円/高校生250円/小・中学生無料、【画家の激しい身振りを想起させる飛び散った絵具やカンヴァスに青くなすりつけられた人のかたち、紙の上に残された自動車の車輪の跡。第二次大戦後、様々な斬新な表現が美術作品として登場しました。今日、画期的な表現として高く評価されるこれらのイメージは、肖像画や風景画のように「何かに似ている」のではなく、「何ごとかの結果として」意味を与えられているといえるでしょう。この展覧会ではこのようなイメージに「痕跡」という名を与え、戦後美術を新しい角度から見直してみたいと考えます。/1950年代から70年代後半まで、およそ30年にわたる美術の流れの中に「痕跡としての美術」は多様に姿を変えて登場します。そして日本のみならず、アメリカやヨーロッパの戦後美術においてもこのような美術の系譜は脈々と続いています。日本における具体美術協会の活動、読売アンデパンダン展周辺の作家たち、もの派の動向、あるいはアメリカにおけるネオ・ダダやボディー・アート、コンセプチュアル・アート、そしてヨーロッパにおけるウィーン・アクショニズム。国籍も時代も表現も全く異なったこれらの動向を「痕跡」という視点から捉える時、現代美術の思いがけない同時性や共通性、表現の多様性と独自性が明らかになるように思います。/ジャクソン・ポロックやアンディ・ウォーホルといったよく知られた作家から、ヘルマン・ニッチやアナ・メンディエッタといった日本ではほとんど紹介されたことのない作家まで、日本、アメリカ、ヨーロッパのおよそ60名の作家、120点の作品で構成された本展覧会は美術という営みを新しい角度から問い直す、得がたい機会となることでしょう。】。
2月20日 ▼企画展「創造のさなかに ただ今制作中!」2月19日(土)〜3月31日(木)、月休、練馬区立美術館、500円/高大生と65〜74歳300円/小中学生と75歳以上無料、【現代美術のさまざまな局面をわかりやすく紹介する「手法」シリーズの第7回展。いままで、「コラージュ」や「メディアと表現」「光」「和紙」「日本画」など、いろいろな視点で展覧会を開いてきました。/今回は、作家の「制作過程」がテーマです。/コンピュータとインターネットに象徴される現代に生きる表現者たちは、どんな制作のプロセスをたどって作品を完成させているのでしょうか?/ご登場いただくのは6名の、分野も異なる作家の皆さんです。絵画では、荻太郎氏、彫刻では建畠覚造氏と青木野枝氏。インスタレーションでは、吉田亜世美氏と井上尚子氏。岡崎乾二郎氏は、平面作品と「発注作品制作」を行います。】。▼「状況20〜21」のサイトに、太田昌国「書評:高木徹著『大仏破壊』(文藝春秋)」〔「週刊読書人」2005年2月24日号掲載〕、同「2題噺ーーNHK問題と『となり町戦争』」〔「派兵チェック」149号(2005年2月15日発行)掲載〕。
2月19日 企画展「瀧口修造:夢の漂流物 同時代・前衛美術家たちの贈り物1950s〜1970s」2005年2月5日(土)〜4月10日(日)、月休、世田谷美術館、800円/大高生600円/中小生・65歳以上400円、【日本にいち早くシュルレアリスム(超現実主義)を紹介し、戦前より若手の美術家たちに多大な影響を与えてきた詩人/美術評論家・瀧口修造。その存在を抜きにして、日本の現代美術の展開を語ることはできないといっても過言ではないでしょう。/瀧口は1903年富山に生まれ、戦後の一時期、世田谷区成城に住まったのち、終の棲家となる西落合に居を構えました。この小さな家の書斎には、多くの美術家たちが瀧口を慕って次々と訪れ、いつしか「夢の漂流物」と呼ばれることになった物たち――デュシャン、ミロ、赤瀬川原平、加納光於といったさまざまな作家の作品や、貝殻や石ころ、オブジェの贈物など――が漂着していきました。人間の精神をいっさいの束縛から開放するような、「自由」への夢を託したこれらの作品・ものたちは、今日にあって、芸術なるものの本来の意味を、改めて私たちに語りかけてくれるのではないでしょうか。/本展では、富山県立近代美術館ほかに寄贈されたこれら瀧口旧蔵の「夢の漂流物」を、没後初めて東京で、まとまったかたちで展覧いたします。130余名の前衛美術家の作品や、名も無きオブジェたち、関連の書籍や資料、さらには瀧口自身の作品<デカルコマニー>なども加え、総数おおよそ700点ほどの「漂流物」たちを、皆様にご紹介いたします。】。
2月18日 「椹木野衣『戦争と万博』(美術出版社)刊行記念イベント 殺す・な博 戦争は続き、万博は繰り返される……」2月27日(日)15:00〜17:00(14:30開場)、青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山、定員:100名、¥1,000(税込)電話予約の上、当日精算、電話予約&お問い合わせ電話:03−5485−5511、出演(予定)=椹木野衣・伊東篤宏・宇治野宗輝・小田マサノリ・カスガアキラ・工藤キキ・田中偉一郎[展示参加]・点[グラフィック参加]・西尾康之・山川冬樹・山本ゆうこ・ヲノサトル。【70年代前夜、泥沼化するベトナム戦争を横目に、日本初の万国博覧会=EXPO'70を控え、芸術家や文化人が青山を舞台に仕掛けた一連の奇怪なイベントがあった。そしていま、椹木野衣『戦争と万博』刊行をきっかけに、著者も発起人のひとりである「殺す・な」のメンバー+αが、21世紀の新しい(最後の?)戦争と万博について奇矯に語る−−音あり光あり映像ありハプニングありの不定形イベント。】。〔02.20追記〕出演=椹木野衣「戦争と万博の塔」 伊東篤宏「光と闇(病み)館」 宇治野宗輝「まわる電磁館」 小田マサノリ「イルコモンズ生活館」 カスガアキラ「超気配主義館」 工藤キキ「万博鍋館」 田中偉一郎[安全爆弾] 点[グラフィック参加] 山川冬樹「人体のふしぎ館」 山本ゆうこ「山本・現代・映像館」 ヲノサトル「魅惑のムード音楽館」。【.05.08追補】05.04.24朝日書評(評者:鷲田清一)。
2月17日 ジャック・デリダ、中山元訳『パピエ・マシン 上 物質と記憶』2005年2月、ちくま学芸文庫。【〔…〕この脱紙化(depaperisation)という語が、窮乏化(pauperisation)という語と似ているのはたしかです。歴史的な逆転と堕落の法則が、この二つの現象を結びつけているようです。当面は社会において、そしてごく貧しい社会集団においては、紙をいわば「一次的」な相と形式において利用する方式が(これはすでに述べたように、機械による再生や商業的な再生以前の書き込みと疎通のことです)、紙の支配的な用途です。貧しい人々はクレジットカードではなく貨幣、多くの場合は紙幣を利用します。富める者は一枚、あるいは多数のクレジットカードを持っていて、紙幣は使いません。それにホテルなどの特定の場所では、紙幣をたくさん持ち込んでも支払いには利用できないのです。富の水準がさらに上がると、クレジットカードと比べて銀行紙幣や小切手は貧しさを、信用の制限を示すものになってきます。いずれにしても、まだ紙が利用されるということ(paperisation)は貧困のしるし、あるいは相対的な窮乏化(pauperisation)のしるしです。紙とは、貧者の贅沢なのです――もはや「使用停止」になった紙に対するフェティシズムによって、収集家にとっての付加価値が生まれるか、新たな投機的な投資の対象にならない限りは(草稿、紙幣、古い切手の収集など)。】。
2月16日 アップルのサイト(Pro/Design&Publishing)で向井裕一「Mac OS Xと日本語タイポグラフィ」(全10回)が連載中。第1回・ヒラギノはどういう書体か、第2回・ヒラギノProに仮名はいくつあるのか、第3回・ヒラギノの表情七変化、第4回・ヒラギノProの非漢字、第5回・ヒラギノProの漢字を巡る座談会(小池和夫・直井靖)。
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