読書録 2004年9月後半(敬称略)

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  • 9月30日 「生活保護の対象、94万世帯 11年連続で過去最高」04.09.29共同。「生活保護94万世帯、過去最多で保護率も1%突破」04.09.30日経、【2003年度に生活保護を受けた世帯は94万余りで前年度より約7万世帯増え、過去最多を更新したことが29日、厚生労働省のまとめで分かった。人口に占める受給者の割合(保護率)も1.05%と16年ぶりに1%を突破。失業で収入を絶たれたり、貯蓄がなくなったりして生活保護に追い込まれるケースが依然多く、増勢に歯止めがかかっていない。1カ月単位で平均した受給世帯数は94万1270世帯。11年連続で増えた。男性65歳以上、女性60歳以上が中心の「高齢者世帯」が全体の半数弱を占める。/保護開始の理由は「傷病」が最多で世帯数全体の4割弱だが、割合は年々低下。逆に「貯金等の減少・喪失」は12.7%と0.5ポイント上昇し、「失業」も6.4%と高止まりが続いている。受給者数は約134万4000人と約10万人(8.2%)増え、8年連続の増加。保護率はバブル期の1988年に1%を割り、95年の0.7%を底に上昇している。一方、同時にまとめた児童福祉関係の統計で、03年度に全国の児童相談所が対応した虐待についての相談は2万6569件と、過去最多を更新したことも分かった。前年度より約2800件増えた。】。「生活保護政策:「福祉から就労へ」転換−−厚労省」04.09.25毎日 /「厚労省、生活保護受給者に就労計画・給付膨張抑制へ」04.09.24日経。

  • 9月29日 ドキュメンタリー・ドリーム・ショー 山形in東京2004沖縄特集 琉球電影列伝/境界のワンダーランド)、会場:アテネ・フランセ文化センター。●10月1日(金)14:00、〈森口豁の仕事〉監督:森口豁〔1959年から15年間沖縄に住み、現在も沖縄に向かい合い、「日本復帰」「沖縄戦」「離島」の3本柱をテーマにその抱える深さを撮り、書き、語り続けているジャーナリスト・森口豁の仕事を、作品とトークで紹介。〕●10月1日(金)16:30第一章/18:30第四章、『ナナムイ 第一章 神歌編、第四章 行事編』Nanamui 2003/ビデオ/第一章79分・第四章79分 撮影:比嘉豊光〔宮古島・平良市の祭祀ナナムイに手招きされ、引き寄せられ、男子禁制の御嶽の世界に入り込み、ナナムイのために撮られた作品。その関係性が映し出す神々しくも親密な世界は、神女達の歌声が響き、見るものを包み込む。〕●10月2日(土)13:00、『沖縄戦記録フィルム〜1フィート運動収集フィルムより(未編集版)』アメリカ/1945/サイレント/16ミリ/100分(予定)〔1983年より活動している1フィート運動の会が、米公文書館より購入した膨大な沖縄戦記録フィルムの一部を上映。圧倒的な映像の中にある様々な局面。そこに見られる構図は、今もどこかで起こっているその戦争だ!〕●10月2日(土)15:00、『島クトゥバで語る戦世(1部・2部)』2003/ビデオ/120分(各60分)/日本語字幕版〔沖縄戦体験を島クトゥバ(琉球弧の島々の言葉)で記録した証言集。当時使っていた言葉で語ることで、呼び起こされる情動・感覚・記憶の渦。映画『ショアー』にも通底する、人が語る言葉の強さに圧倒される。〕●10月2日(土)18:00、『チェンバレンの厨子甕(ずしがめ)』日本/日本語・英語/2004/ビデオ/60分 監督:港千尋〔写真家・港千尋、初監督作。1893年、日本研究の泰斗チェンバレンは那覇で厨子甕と呼ばれる骨壷を購入。現在、イギリスに保存される厨子甕を今日の沖縄に辿り、〈記憶の器〉として過去を保存する方法と想起の営みを探る。〕。1回券:前売1000円当日1300円、3回券:前売2700円当日3600円。

  • 9月28日 「タイポグラフィ・タイポフェイスのいま。デジタル時代の印刷文字」11月17日(水)〜12月20日(月)、10:00-17:00、火休(11/23開館、11/24休)、女子美アートミュージアム(相模原市・麻溝台TEL.042-778-6801)、一般300円。▼再掲、「早稲田青空古本祭」10月1日(金)〜6日(水)雨天決行、午前10時〜午後7時(最終日のみ5時閉会、初日のみ午後8時まで、文庫コーナーは6時閉店)、会場;穴八幡宮境内(早稲田大学文学部前)、主催;早稲田古書店連合会。詳細情報はhttp://www.w-furuhon.net/aozora/

  • 9月27日 承前、大澤真幸「〈とき〉の思考 1/「形式」と化した規範」、つづき。【第一の方法にせよ、第二の方法にせよ、逆説はこうである。規範が純粋な形式にまで還元されたときには、それとは、まったく逆の外観を取るということ。つまり規範の形式性は、逆に、特殊で偶有的な内容を有する行為(些細でくだらない行為、殺人)への極度の執着によってこそ確保されるのである。このことを考慮に入れることで、ジェイムソンが指摘した、ポスト・モダニティのアンチノミーの問題に回帰することができる。/規範の形式への還元は、「You should(汝、為すべし)」と「X」の分離によって定義され、「X」には、どのような行為でも、原理的には、入りうるのであった。この意味では、これは、内容を欠いた普遍主義であって、どのような行為への命令をも特権視しない相対主義を帰結する。だが、Xの任意性・普遍性は、述べてきたように、逆に、ここに特殊で恣意的な行為を代入することによって、現実的には確保される。この場合には、むしろ、特殊な規範に執着する絶対主義が導かれることになるだろう。と、するならば、相対主義(構成主義)と絶対主義(本質主義)は、「規範の形式への還元」が呈する二つの様相なのである。/この結論は、現代的な保守主義が引き受けざるをえない困難の在り処を示している。一方では、保守主義者は、現代における極端な価値の相対化を嘆き、また批判する。だが、他方で、現代の啓蒙された保守主義者は、古典的な伝統主義者とはまったく異なっており、彼ら自身、――ときにリベラリスト以上に――伝統的な価値の権威が、すでに、すっかり解体してしまっていることを自覚している。つまり、現代的な保守主義者が依拠している「伝統」や「慣習」は、さしたる根拠もなく、恣意的に選出された行為の集合であることを、保守主義者自身がよく知っているのだ。問題は、このようないくぶんかアイロニカルな自己反省をともなった、「伝統」や「慣習」に対する、保守主義者の態度は、彼らが批判している相対主義と厳密に表裏一体だということである。/相対主義(構成主義)と絶対主義(本質主義)の間の対立的な共存によって特徴づけられる現代社会にあっては、規範は――権力の作用を裏打ちしている規範は――、内容を欠いた形式への還元を被っているのではないか。「法の門」は、規範のこうした様態への洞察を含む寓話として、解釈することができるのである。】。

  • 9月26日 『本』2004年10月号から新連載、大澤真幸「〈とき〉の思考 1/「形式」と化した規範」。「法の門」の寓話を引き「規範が、その内容を除去され、形式にまで還元されているという状態」「具体的な行為〔…〕への指示を欠いたまま、「汝、為すべし」だけが課せられている状況」を考察し、それへの対応として「規範の「普遍性」としての体裁を破壊することなく――、しかも違背への懐疑や行動麻痺から人を解放する手段が、二つだけある」として「第一に、「汝、為すべし」を、徹底的に些細で、くだらないことへの命令として受け取ってしまう〔…〕/第二の方法は、〔…〕最もありそうもない行為〔…〕通常のどのような規範においても禁止されている行為〔〕「汝、為すべし」を、殺人を命じる規範として受け取るのだ。」とする大澤は【こうした二つの方法によって、擬似的に、「形式へと還元された規範」が維持される。ところで、このように要約してみると、この日本を含む、現在の先進的な資本主義国に広く見られる、サブカルチャーや若者文化、若者の行動様式に、これら二つの方法の対応物を見ることができることに気がつく。第一の方法、些細な行為への執着に対応しているのが、「オタク」であろう。「オタク」に関してわれわれが常に驚かされるのは、特殊な行為――少なくとも伝統的な価値観から見ればくだらない趣味――への熱狂的な没入と、他のさまざまな重要そうな行為を命ずる諸規範に距離を取り、それらを相対化する、冷めた意識とが、一個人の内に共存していることである。オタク的な没入が、逆に、(他の)どのような行為を命ずる規範からも距離をおくことを可能にしているように見えるのだ。/他方、われわれは、一九八〇年代の末期以降、不可解な殺人、強い個人的な恨みや大きな利害とは結びついていない――しかしときにはたいへん陰惨な――殺人に、悩まされ続けてきた、こうした犯罪は、十代・二十代の比較的若い者によって為されることが多い。たとえば、一九九七年に神戸で起きた、十四歳の少年・酒鬼薔薇聖斗の連続殺人の後には、「なぜ人を殺してはならないのか?」という倫理的な問いが、論壇の流行の論材にすらなった。ということは、われわれの眼には、少年が殺人を許容する規範に従っているように見えたということである。さらに、一九九五年のオウム真理教の場合には、積極的に殺人を命ずる規範――彼らはこれを宗教用語で「ポワ」と呼んだ――をすら、掲げていたのだ。さらに、オウムの場合には、こうした規範と、オタク的な精神との連続性を直感させるものもあった。】と書いている。

  • 9月25日 「早稲田青空古本祭」10月1日(金)〜6日(水)雨天決行、午前10時〜午後7時(最終日のみ5時閉会、初日のみ午後8時まで、文庫コーナーは6時閉店)、会場;穴八幡宮境内(早稲田大学文学部前)、主催;早稲田古書店連合会。詳細情報はhttp://www.w-furuhon.net/aozora/

  • 9月24日 金[土+熏]我『在日朝鮮人女性文学論』2004年8月、作品社。宗秋月にふれて【異端で不自然な日本語の問題については、これまで様々な言語によって定義されてきた。猪飼野の詩人金時鐘は、「在日朝鮮人の生活実存が生ましめた在日朝鮮人語としての日本語」といい、それを「生理言語」と名づけた(『民涛』四号、三〇頁)。また、評論家の川村湊は済州島の方言と大阪の方言が混ざった「猪飼野語」を、フロリダ半島や西インド諸島などでフランス語と現地語が混合して生み出された混合言語である「クレオール語」になぞらえた。小説家の小田実は、母なる女性たちによる言葉の意味で「オモニ語」と名づけた。日本語はもちろん、韓国語のハングルも読めない一世の母親たちの言葉という意味であろう。また、宗は自らの詩に譬え、肉体を濾過した「へその緒と結びついた言葉」と述べている。〔……〕/在日としての自分を拒絶していた幼年時代は、耳に留まることなくはじき出された言葉を、宗がいとおしく掬い上げ、歌うようになったのは、彼女が猪飼野という場所に身を置いたことで可能となった。彼女はそこで初めて「在日を生きる」ことができたのである。〔…〕/同じ猪飼野の作家でも、男性作家の日本語は正しく端正で、「生活言語」に乏しい、硬質なものが多かった。そのほとんどが高い教育を受けたいわゆる知識人であった彼らは、猪飼野という場所が生み出した言葉を評価せず、書いたとしても持ち味が出にくく、文字にすることで力が無くなってしまうことが多かった。「インテリの文学」ではないがゆえに迫力を失うことのなかった宗の言葉は、彼女自身の日常の言葉なのであった。猪飼野の住民にとっては気づきにくい言葉のうまみと力を汲み出せたのは、宗が外部から猪飼野へ辿り着いた者であったからかもしれない。/猪飼野という地は、生の声の激しさと真剣さによって、宗に新しい日本語表現の可能性を垣間見させ、宗を新たな在日作家の一人へと導いた。日本語には存在しない比喩や隠喩、そしてリズム、また反対に朝鮮語にはないそれらによって、日本という国家にも韓国という国家にもとらわれない、在日の詩が生まれたのである。このことは、母性神話に傾きすぎるという問題があるとしても、在日の置かれた状況と不条理を、猪飼野の女性たちの姿によって再構築したことを意味すると同時に、このことこそ宗の作品が評価される最も大きな理由の一つだと思われるのである。】。

  • 9月23日 企画展「和紙と洋紙 その類似点と相違点」9月14日(火)〜11月7日(日)、月休、紙の博物館、300円。【中国で発明された紙は世界に広まり、ヨーロッパでは「洋紙」として日本では「和紙」として独特の発展を遂げました。そして明治初期に洋紙の製造技術が日本へ伝わり、和紙と洋紙が平行して使用され始めました。現在、当たり前のように使われている「和紙」「洋紙」という名称は、明治以降に生まれた意外にも新しいものなのです。/伝統的な和紙と洋紙の見分け方は比較的容易です。和紙は楮などの長い靭皮繊維を使用しているので、独特の風合いがあり、一方の洋紙は木材パルプの短い繊維を使用するので均一的で表面が滑らかであるという特徴があります。/1000年以上もの間、競争相手がなく、ずっと独占的優位性を維持してきた和紙ですが、明治後半からは洋紙に押されて、その優位性は急速に失われてきました。和紙はその存亡をかけて、洋紙の技術を取り入れて原料に木材パルプやその他の原料を混合し、機械すきされるようになってきました。このような紙が和紙と言えるのかといった議論は当時からあり、和紙が洋紙に接近してきたのです。/一方の洋紙も特殊な用途に対して和紙の風合いに近づけようとして、靭皮繊維を混合するなど、和紙・洋紙の区分はますます難しくなっているのが現状です。/本企画展は、和紙と洋紙の相違点と類似点について、例えば植物繊維の原料、ネリなどの分散剤、填料(紙内部に入れる顔料など)、にじみ止め薬品(サイズ剤)など、製造法や品質の違いを、歴史的また科学的な切り口を加えて対比し、当館なりの和紙・洋紙の定義を探ろうという試みです。】。

  • 9月22日 展覧会「古代中国の文字と至宝」9月7日(火)〜10月24日(日)、午前10時〜午後5時(毎週金曜日のみ午後7時まで、入館は閉館30分前まで)、サントリー美術館、1000円高校・大学生800円小・中学生 600円。【中国・湖南省の省都、長沙で発見された馬王堆漢墓は、奇跡的な保存状態のミイラと豊かな副葬品によって、世界的なセンセーションを巻き起こしました。その副葬品は、帛(絹の布)に書かれた書や絵から木簡、印、漆器、織物、楽器まで多岐にわたっており、前漢初期の歴史と文化を伝える極めて貴重な文物として知られています。また、長沙市中心部の走馬楼で見つかった木簡は、『三国志』の時代の歴史に光をもたらす画期的な史料であり、書道芸術としても、王羲之以前の草書を垣間見ることのできる書として注目を集めています。本展では、長沙の名前を世界に広めたこれらの発見を中心に、湖南省の出土文物を日本で初めて本格的に紹介します!】。

  • 9月21日 ギンザ・グラフィック・ギャラリー第221回企画展「疾風迅雷―杉浦康平の雑誌デザイン半世紀 展」10月5日(火)〜10月30日(土)、11:00〜19:00(土曜は18:00まで)休館日:日曜・祝祭日、ギンザ・グラフィック・ギャラリー(東京都中央区銀座)、無料。【グラフィックデザインの全領域、とりわけブックデザインやエディトリアルデザイン、タイポグラフィの領域で画期的な試みを展開し、意表をつく作品を次々に世に送り出してきた杉浦康平。/本展では、雑誌デザインに焦点をしぼり、この半世紀近くに取り組んだ2000点余の作品の中から約500点を紹介します。】。

  • 9月19日 「東京事変」のサイト(東京事変から)に声弦担当の椎名林檎単独インタビュー、「東京事変オフィシャルインタビュー第一弾」04.08.11up、「東京事変オフィシャルインタビュー第二弾」04.09.13up(インタビューアーはライター小野田雄)。

  • 9月18日 承前、須田諭一『頭脳警察』、ロックライター鳥井賀句の証言として【パンクというのは、いわゆる業界のジャンル分けの言葉で言うと、70年代中期に起こった「既成の商業主義ROCKに対するアンチな動き」というか、ROCKをもっとライブハウスレベルに取り戻そうというような動きだよね。/でも僕にとってのパンクは、精神の在り方というか、それこそROCK自体がパンクだと思ってるからね。ローリング・ストーンズが自分にとって最初のROCKの衝撃で、俺にとってのパンクだったわけ。「ストリート・ファイティング・マン」とか「黒くぬれ」とか。あの頃は、そういう曲を聴いて熱くなってデモに行ってた。そういう反体制意識みたいなもの、大人とか権威的なものに対して唾を吐きかけて「ふざけんじゃねえよ」みたいなことを歌っていたのがローリング・ストーンズだったんです。だから俺にとってのROCKとは、そういうエスタブリッシュされたものに対して、チンピラが「ふざけんな」「言いたいことは言うぜ」というような一番小さなレベルの異議申し立てみたいな部分があります。/あと70年代中頃までは、ROCKとは芸能界のようなところに対するアンチだと思っていたんです。だけど、だんだん70年代中期から、ビジネスになって、スタジアム・ロックなんかになってきて、でかい金が動く世界になってくるわけじゃないですか? 結局ROCKは、ただの芸能界になってしまったわけですね。まして今やROCKは死語になってしまった。〔……〕/つまり僕にとっては、音の形式よりも、存在がパンクであるかどうかが重要。そういう反体制的な意識をどこかに持っているものが、パンクなわけです。】。

  • 9月17日 須田諭一『頭脳警察』2004年8月、河出書房新社。ミュージシャン秋間経夫の証言として【PANTAが30年以上ファンに愛されている理由のひとつに、そういうPANTAの中から生まれてくるギターのフレーズのカッコ良さもあると思うんだよね。〔…〕「最終指令“自爆せよ”」のイントロにしても、聴いている人にとってはやっぱりあのフレーズが必要であり、カッコいい部分なんじゃない? そういう詞と曲とギターのフレーズやアレンジの一体感が、ファンを引き付けるんじゃないかな。〔……〕/ROCKのカッコ良さのひとつに「リフのカッコ良さ」があるじゃない? 「銃をとれ!」のギターのリフは、日本のROCK史上、もっとも偉大なリフだと僕は思っている。「銃をとれ!」はベースラインももちろんいいけど、ギターのリフがいい。/だけど、日本のROCKには、洋楽のように有名なリフがあまりないのはどうしてなんだろう。海外にはクリームの「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」しかり、ディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」しかり、有名でカッコいいリフがたくさんあるけど、日本で思いつくのは、キャロルの「ファンキー・モンキー・ベイビー」ぐらいかな。日本には有名でカッコいいリフが少ないよね。/頭脳警察が、生ギターとボンゴというアコースティックな編成でもROCKだった理由のひとつに、このリフがあると思うんだよね。それは『ファースト』の「銃をとれ!」や「赤軍兵士の詩」などを聴くと分かるんだけれど、アコースティック編成でやっていても、アコースティックギターにROCKのビート感やリフが乗っていて、完全なROCKになっているんだよね。このようなリフは、フォークと呼ばれる人達の楽曲にはないものだよね。】。

  • 9月16日 承前、酒井隆史「匿名性 ナルシシズムの防衛」。【〔…〕本当にいろんな面で貧しくなっていきつつある日本社会において、ほとんど数少ない決定的な規範コード、その貧しさを反映させたコードが「迷惑」ではないでしょうか。「迷惑」さえかけなければなんでも……という一見、慎ましい形で使われたりしますが、これが曲者で、「迷惑」はほとんど人間のあらゆる振る舞いをカヴァーできる恐るべき言葉です。今「迷惑」をかけないことが公共性の前提のように言われていますよね。公共空間ではとくにお互いに「迷惑」をかけないようにしようと。それが、市民社会のルールであるというわけです。しかし、そうでしょうか。「迷惑」をかけない社会というのは、見方を変えれば他者のいない社会です。「迷惑」がきわめて恐ろしいすべてを規制する言葉になるのは、この言葉がはらみもつそうした「存在論的」次元のためです。「迷惑」はつきつめれば、人間の存在そのものに否が応でもつきまとうものです。実際のところ、僕たちは、どこかで「迷惑」の論理を無視しながら生きています。そうしないことには生きていけない、どこかで食い止めなければ、僕たちは死ぬしかないのです。しかしそれは常なる「負い目」となって、僕たちの生を制約していくのです。「迷惑」とは、罪責なき日本社会の「世間」において、「負い目」によって人を支配するための重要な感情なのでしょう。だから介護を受けるお年寄りの自殺という痛ましい事件は、この食い止めるものがふっとんだ時、「迷惑」の論理が貫徹した時に生じるのではないでしょうか。〔……〕僕は問いを転換すべきだと思います。いかに「迷惑」をかけないかではなく、むしろ「迷惑」をどのようにかけ合うのかをお互いで問い続け考え続けることが重要だと思っているわけです。それを考えるところから、日本においては公共性という発想も根づいていくのではないでしょうか。】。