読書録 2004年7月後半(敬称略)

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  • 7月30日 中島らも7月26日死去(享年52)合掌! 中島らも公式ホームページには事務所からの「訃報」とともに7月28日付「夫人(中島美代子)より」メッセージ掲載。「鮫肌文殊の絵日記」2004.07.27&28。関連:「中島らもさん脳挫傷で死去、16日階段から転落」04.07.28大阪日刊スポーツ /「作家でミュージシャン、中島らもさんが死去」04.07.28スポニチ大阪 /「中島らもさんが死去−小説や劇団などで活躍」04.07.27サンスポ【★違う角度から発想していた−作家でミュージシャンの町田康さんの話「今月7日、大阪でコンサートを開き、一緒に歌ったばかりだった。関西出身ということもあって僕と共通点が多かった。音楽や演劇を同時にやるなど、非常に自由で固定観念にとらわれない。普通の小説家とは違う角度から発想していた。昨年逮捕される前ごろから「本当のことしか言わない」と話していたのが印象に残っている。活動がまた違う方向へ行くと思っていたのに…」/★危険な雰囲気もあるけど天才的−深夜番組で共演した作曲家キダ・タローさんの話「変わったおっさんやなあと思ってました。危険な雰囲気もあるけど話していると天才的な人。笑福亭鶴瓶さんの誕生日の歌を作った時は感動的な詞を書いてきて驚きました。いやらしいところがない人柄が、かわいがられた理由でしょう。いまも自分が死んだことに気付かんとさんずの川あたりで「これ、なんの川やろなあ」と言ってるんやないかなあ」】 /朝日 /河北 /日刊 /京都 /デイリー /毎日 /スポニチ /産経

  • 7月29日 ▼「TSUTAYA online」に『茶の味』の「我修院達也氏インタビュー」。▼(対談)柄谷行人・福田和也「現代批評の核(コア)」〔『新潮』2004年8月号掲載〕。【福田 ハイデガー自身、テクノロジー批判の論文でくりかえしているのは、端的な対抗運動――ユナ・ボマーとか、ラジカルなエコロジストとか――には何の意味もないということですよね。技術の拒否は、歴史的にもずっとあるわけです。イギリスで最初の本格的なマルクス主義者だったウィリアム・モリスの場合も、新しい大量生産テクノロジーを拒否して手作りのものを作ろうとする形での対抗運動をするけれども、それにはあんまり意味がない。しかし、だからどうするかについては歯切れのよい結論はなくて、ハイデガー的ないいまわしで、暦運――これも翻訳語ですけれど――が盛りあがるのを待つしかない。要するに「時が来るまで待て」という結論しか示されていないわけです。/文学の話になると、もうひとつ「リアリズム」の問題があると思うんです。小説が近代において大きく流通するジャンルになるのは、ひとつはバルザックにおいて顕著なように、ブルジョワ社会・近代社会の全体を捉えるのにもっとも適したジャンルは、詩でも演劇でもなく小説だったからに間違いありません。バルザックの『人間喜劇』では、「ゴリオ爺さん」では若い書生だったラスチニャック、「浮かれ女盛衰記」では辣腕の政治家になっていたりとか、何人もの登場人物が、違う小説に、異なる顔で再三出てきます。そういう仕掛けを使いながら、だいたい一八二〇年から一八四〇年ぐらいのパリをさまざまな角度から見ていく。「ゴリオ爺さん」みたいにカルチェ・ラタンの下宿から見るものもあれば、「従妹ベット」みたいに旧ナポレオンの顕官の元貴族のところから見るとか、スパイの世界とか、いろんな角度から見ることによって、はじめて、十九世紀のパリ・ブルジョワの世界ができると思っていた。やはりこれが小説の優位性だったと思うんです。/さらには、ドストエフスキーの作品に出てくるような、とんでもない人間性というか、人間性のなかの本当にグロテスクな、虚構を超えて現実よりも強い真実みたいなものが、小説の中で作りだされた。そういうタイプの小説を近代日本はあまり持てなかったので、日本にあてはめてドストエフスキーやバルザックを語っても意味のないところがあるんですが、現代の文学に、現実を超えた虚構のなかの真実を持ちだす力はまだあるのか。それともやはり柄谷さんが言われたような形で、すべてが情報になる中では、もはやそんなことはあり得ないのか。/柄谷 あり得ないと思います。】。

  • 7月28日 内田樹『街場の現代思想』2004年7月、NTT出版。【「生きることの意味は何か?」という問いに答えるのがむずかしいのは、答えが無数にあって収拾がつかないからである。〔…〕/人間が想像しうる最悪の事態とは、すべてのものがうつろい消え去る中で、おのれひとりが「不死」にとどまることである。手塚治虫は『火の鳥』でその「死ねない恐怖」を執拗に描いた。/そうやって手塚が導き出した結論は、『鉄腕アトム』の場合と同じく、涼しく平明なものである。それは「人間は死ねるから幸福なのだ」ということである。/人間は限られた時間、限られた空間のうちに封じ込められ、一度壊れたら二度と旧に復することがなく、一度失ったら二度と出会えないものに囲まれている。〔…〕/私たちが愛するすべてのものは、壊れ、失われ、消え去ることを宿命づけられている。私たちがなめらかな肌や緑の黒髪や皓歯を愛でるのは、それが加齢とともに確実に失われるからである。〔…〕およそ私たちが「価値あり」とするすべてのものは、それを失いつつあるときに、まさにそれが「失われつつある」がゆえに無上の愉悦をもたらすように構造化されている。だから、私たちが欲望するものは、それを安定的持続的に確保することが不可能なものに限られる。/生きることの意味についても同じことが言える。私たちが美貌や健康を重んじるのは、それがいずれ失われることが確実だからである。私たちがおのれの「生命」をいとおしむのは、それがこの瞬間も一秒一秒失われていることを私たちが熟知しているからである。】【〔…〕今の時代がしんどいのは、若い人たちに「未来がない」からである。もっとはっきり言えば、若い人たちが「死んだ後の自分」というものを自分自身の現在の意味を知るための想像上の観測点として思い描く習慣を失ってしまったからである。/今の若い人たちに欠けているのは「生きる意欲」ではなく、実は「死への覚悟」なのである。「生きることの意味」が身にしみないのは、「死ぬことの意味」について考える習慣を失ってしまったからである。〔……〕/私が若い方々に勧奨することは、とりあえず一つだけである。それは、自分がどういうふうに老い、どういうふうに病み衰え、どんな場所で、どんな死にざまを示すことになるのか、それについて繰り返し想像することである。困難な想像ではあると思うけれど、君たちの今この場での人生を輝かすのは、尽きるところ、その想像力だけなのである。】。

  • 7月27日 「脱北者200人余乗せた特別機 ソウル到着」.07.27朝鮮日報 /「脱北者約200人韓国着 東南アから空路、過去最大」.07.27共同 /「今日と明日200人ずつ分乗させ韓国入りか 脱北者450人」.07.26東亜日報。▼「牛腸茂雄 1946-1983」展2004年9月11日(土)〜10月24日(日)、10:00〜20:00(入館は19:30まで)、三鷹市美術ギャラリー三鷹市芸術文化センターB1アートスタジオ、休館:月曜日(9/20・10/11は開館)・9/21(火)・10/12(火)、800円、【〔…〕牛腸茂雄は、最初の作品『日々』(24点)において、他者としての日常を見ました。その日常とは、彼自身も生きるところの、そのような「日々」としての日常です。それは「自己と他者」の風景です。次の『SELF AND OTHERS』(60点)においては、対峙する一人ひとりの他者の内に自己を見ています。他者とは自己と無関係な存在ではありません。そこには自己がいます。それは「自己が他者」と言ってもよいでしょう。そして最後の作品『見慣れた街の中で』(47点)は、「自己が他者」という気づきに触れた牛腸が、もう一度「自己と他者」の日々へ帰り着いたものです。その意味で、「再びの自己と他者」と呼べる事態です。/牛腸の生涯は36年であり、残した作品は三冊の写真集です。しかし、常に自己の死を意識し続けたその視線は、自己の底深く、他者の底の底に透徹し、私たちの日常を繰り返し蘇生させるものです。牛腸のスナップ写真は、「自己と他者」の底にあるものを極めて明瞭に表現していると言ってよいでしょう。その類稀な持続がわずか36年で途絶えた事は残念でなりませんが、私たちはむしろそれ以上に、その存在の事実に感謝すべきなのかもしれません。牛腸茂雄の「自己と他者」とは、まぎれもなく私たちの「自己と他者」に帰着するのです。/三つの作品がすべて展示されるのは初めての事となります。第一会場の美術ギャラリーにおいては『日々』と『SELF AND OTHERS』他が、第二会場の芸術文化センターにおいては『見慣れた街の中で』他が展示され、また、芸術文化センター・星のホールでは佐藤真監督の映画『SELF AND OTHERS』が上映されます。併せてご覧くださいますようお願い申し上げます。】。▼藤田敬一「「新規約」と「運動基調」を読む −何がかわろうとしているのか」01.05.27〔奈良県部落解放同盟支部連合会のサイトに掲載〕。

  • 7月26日 ▼サザンオールスターズ7/21発売2★TOP SINGLE「君こそスターだ/夢に消えたジュリア」のビデオクリップをそれぞれストリーミング視聴(7/26まではフル視聴可能!)。→君こそスターだ夢に消えたジュリア。▼藤井貞和『言葉の起源 近・現代詩小考』1985年3月、書肆山田。【現代詩の〈うた〉はどこから来るのか、という課題、それは急迫した課題として、すべての、現代詩の神経の地獄に肉身をすりへらしている一群のひとびとのまえに、投げ出されている。〔……〕/日本の民衆は未曾有の戦争を体験し、そのくちびるから〈詩〉をもぎとられるばかりか、肉体そのものを戦場に消滅させられることによって、敗戦をむかえる。現代詩が現代詩である根底理由を問われる時季に際会して、現代の〈詩〉〈うた〉とは何か。時代の総体表現の引きうけ、過重な役務である。四季派・コギトの〈詩〉〈うた〉によって切捨てられたもの。けれども切り捨てられることでうたわれた反時代の予感抒情をかいくぐる渦中から、時代の表現の真の引きうけを否応なしに要請された荒地派は、現代の〈詩〉を最深の場所から呼ばうものであったといってよい。荒地派は戦争の時代をかいくぐる体験をとおして現代詩が自律の努力を続けている〈うた〉への近接を最も至近へとなしとげた。/那珂太郎は『音楽』(一九五七年−六五年)をあらわし、言語の聴覚映像の面(――ソシュールのいう)を極限にまで伸張する研鑚実験に〈うた〉の封じこめられた露出をけうな達成として、見せてくれたけれども、朔太郎のいう「有機的構成」とは、この『音楽』の意味ではなかったように、ふと、考えられる。那珂は無機質の詩語にまで到達することである可能性の極限を見せた。/昭和二十八(一九五三)年の興安丸で帰ってきた石原吉郎が、その『石原吉郎詩集』(一九六六)の序に述べた〈うた〉への意識は、ある種の唐突感とともに読者に深く印象づけられているけれども、それはけっして唐突ではない――「これらの作品を通じて私の意識に常にあったものは、詩における『うた』の復権ということであった」(石原)。/安東次男・谷川雁らの詩集は終始一貫して〈うた〉の魂魄を作品にとどめている。吉岡実の仕事は「有機的構成の韻文」を詩の未来にめざした朔太郎が生きてそれを見ることを得たならば不意のといきを禁ずることができないだろう。】〔以上、引用文中傍点は省略〕。

  • 7月25日 藤井貞和『自由詩学』2002年9月、思潮社。【戦後生まれが過半数をこえた瞬間、それはいつであったか。/七〇年代の、嵐の季節ののち。戦争、戦災を《体験していない》ことを根拠に、というか、ほこりにすらして、批評するひとが急速にふえる、現象の八〇年代。/でもほんとうには、みんなで《戦争》を隠蔽しているんだよな、一九六九〜七二年の《戦争》を。二百人をこえる、みじめでむだな犬死にの《戦死者》を哀悼することを、どうしても語れないんだ。だから三百万人の、二千万人の、一九四〇年代のアジアの死者たちのなかへ、かれらの犬死にの死者たちをそっとまぎれこませて、哀悼するんだ。/樺美智子、亡くなった東大生を、一九六〇年安保は哀悼する。それと比べて、もっともみじめなきもちにおそわれる理由はそこにあるだおう。/内ゲバの死者たちを哀悼するまぼろしの靖国神社はどこに。/思考停止とはそのことではないか。/語りつづけた永山が殺されることを代償として、無告の死者たちの“祭祀”は進行する。】。

  • 7月24日 藤井貞和『古日本文学発生論 増補新装版』1992年4月(初版78年9月)、思潮社。【詩の鋳型を作ることによって詩が書かれているのだ、ということは意識的、自覚的に考慮されていることではない。詩の鋳型を作り出すことと、それによって詩を生み出すということとのあいだに明確な二段階性や時間差があるわけではないから、詩の鋳型を作り出すことによって作品を書いているのだ、という現代詩のなかのさいごの定型問題は、無意識的、無自覚的な深層へ帰っている。/無意識的、無自覚的であることは、現代詩に課せられた危険な自由である。つまり新しい詩をつねに生み出すためには、いわゆる定型から切れていなければならず、既存の形式からの自由ということは、課せられているわけだが、一方、無意識的、無自覚的であることは、書き手が、安易に自己の鋳型を作り出したまま、同じような鋳型のなかに安住する無自覚、無意識をもゆるすので、危険な自由なのだ。〔……〕/発生する初期の古代詩や古代詩一般は、われわれの近代詩や現代詩的努力と、ちょうどむきあっているように想われる。たんに過去と現在とがむきあっているという印象ではなしに、定型からふっきれた詩的極相において、いわば科学的に、古代のなかの詩の発生と、われわれのなかの詩の発生とを対応させることのできる地点へ出た、というふうに想われるので、問題に立ててみるのだ。〔……〕/詩がなんらかのかたち(鋳型)を要求することと、詩は外から付着するようにして個人をおとずれる、ということとは、ふたつの、現代日本語の経験的な事実、としてあるだろう。そのふたつは、古来的なものとしてあるだろう。古代詩の問題として考察できることがらである。前者は定型を詩が必要としていったのは何故か、という問題へつらなり、後者は、宗教的欲求が詩的能力を育成していった次第を端的に説明する。〔……〕/古代日本は、神話そのものを急速にうしなうことによって、〈うた〉の自立をうながしてきたし、また一方、うしなわれた神話をみずからのうちに回復するようにして、自由な語りの領域を確保してきたところに、物語文学の大輪をひらいた。/神話そのものが急速にうしなわれた理由は、やはり中国大陸の文化や文学(文字をともなった)の甚大な影響ということ以外にかんがえられない。神話が自律的に崩壊しあらたな文学がそのなかから生まれるというかたちであるならば、たとい千年をついやしてもなおその歩みは遅々たるものであったのにちがいない。/そのような自律性は古代日本のしょっぱなにいきなりうちくだかれた。神話の断片は史書の体裁をとって改編せられるか、あらたな神話のよそおいをこらして「ふること」を称する固定化された書物(『古事記』)にしたてられた。歌謡は急激に文学的自立のみちをのぼりつめ、『万葉』の世界へと抒情化されてゆく。古代日本の当初から文学らしさをあたえられたのである。急激にうちくだかれた神話的なるものは、ばらばらになってそこここに残存し、またそうしたものの喪失の感情を生いそだてて、古代日本の文学に独特のかげりをつくりだす。その意味で古代日本の文学は、神話性の色濃く染みついた世界であるとみなすことができる。/われわれの詩は、物語文学とからまりあいながら、千数百年にもわたり、近・現代にまでそのような特徴を引きずってきたのではないだろうか。】。

  • 7月23日 「土本典昭全46作品一挙上映+ドキュメンタリー映画をめぐるシンポジウム」7月23日(金)〜8月14日(土)(日曜休館)、アテネ・フランセ文化センター(御茶ノ水)。→スケジュール(PDF)/ 作品紹介(PDF)。▼「新宿エイサー祭り」7月31日(土)13:30〜21:00予定(小雨決行、新宿通りは14:00〜17:00)、新宿通りを中心とした新宿東口商店街地区(新宿通り4会場:A.伊勢丹・丸井前、B.三越・さくらや・紀伊國屋前、C.高野・中村屋前、D.新宿駅東口・アルタ前/各商店街:東口中央通り、歌舞伎町ヤングスポット、モア4番街など)、出演:関東地区・沖縄地区エイサーチーム約500名、主催:新宿エイサーまつり実行委員会、後援:新宿区、沖縄県、(財)沖縄観光コンベンションビューロー。【新宿東口の4商店街が中心となって始めた「新宿エイサーまつり」は本年で3回目となり、夏の新宿の恒例イベントとなりました。昨年は、約80万人の人手があり、沖縄県からの派遣チームも含め総勢約500名の参加者がエイサー等を披露し、多くの見物客に感動を与えました。/今年も、新宿通りを中心に、新宿ステーションスクエア、東口中央通り、歌舞伎町ヤングスポット、モア4番街など新宿東口一帯でエイサーや沖縄伝統舞踊などを披露します。メイン会場となる新宿通りには4つの会場を舞台として創作エイサーの「琉球國祭り太鼓」や沖縄県からの派遣された2チームなどがエイサーを披露します。さらに、エネルギッシュな新宿の街に相応しいイベントにするため、今年は地元新宿チームを結成し、本当の新宿エイサーを披露して盛り上げます。】。▼「長居大輪まつり〜夏まつり全員集合 Homeless Communities Benefit Festival」7月24日(土)15:00-21:00、25日(日)10:00-16:00、長居公園自由広場(南西の芝生の広場)。

  • 7月22日 鈴木義里『つくられた日本語、言語という虚構 「国語」教育のしてきたこと』2003年6月、右文書院。【この数年、日本語はブームになっている。〔…〕/だが、この日本語を見つめる視線を手放しで喜んでいるわけにはいかない。というのは、現在の日本語ブームは、自信の喪失とその癒しとしての過去へのノスタルジーへと収斂していくように見えるからだ。】とする鈴木は【『日本語練習帳』では、規範に対する自信を失っていた人びとは「オマエの日本語はまちがっている」と説教され、権威ある師匠から「正しい道」を指し示してもらって安心を手にすることができた。他方、『声に出して読みたい日本語』では「オマエの読んできた日本語はすばらしいものなのだ」となぐさめられて心の平安を手にすることができたということなのだろう。〔……〕/ここにあるのは「日本文化論」と共通する、内向して自己を肯定する視線だ。それは、日本文化は世界に通用しない特殊なものだという議論〔…〕と、世界にも稀なすばらしいものだという議論〔…〕の間で宙づりにされていた世代が、「オマエたちのやってきたことは正しいのだ」という福音を与えられる視線である。/「日本文化」や「日本語」の現状を批判的に見ることは決して悪いことではない。いや、現状はたゆまざる批判を常に受けるべきものであろう。ただし、それはよりよい未来を創り出すためにという志向を伴わなければならない。だが現在の日本語ブームにはその志向は見当たらない。単に、過去は良かったというノスタルジーに過ぎない。/これは、団塊の世代以上の人びとに共有されている意識だろう。では、若者たち(団塊の世代の人びとの子供たち)の方はどうかと言えば、自分たちのことばがおかしいと親や先輩の人びとから言われ続けており、規範を拒否した親たちの「教育」のおかげで、権威なるものは眼中にない。だから、「キミたちのことばは乱れている」と言われれば、素直に認めることになる。だが、それは自分たちのことばに対する内省から生まれたものではない。だから、それを直そうなどとはまったく考えはしない。彼らにあるのは、肥大化した自己肯定以外の何物でもない。】と書いている。

  • 7月21日 太田昌国「「先住民族との出会い」3題」.07.09 up〔「独火星急使II」2004年7月1日発行に掲載〕。【米軍の占領支配に対する抵抗のたたかいが必然だとしても、そのたたかいの戦術が、多数のイラク民衆の命をも巻き込みながら展開されており、闘争の先に何を目指しているのかが伝わってこないことは、悲しいことだ。/民衆の犠牲を避けるために最大限の配慮をはらわない形で展開される闘争が「勝利」した後に、美しい「解放」の夢が実現するとは思えない。】とする太田は【武装闘争によって公然と登場しながら、いち早く「武装」に頼ることなく「政治闘争」への切り替えを図ったメキシコ・サパティスタ民族解放軍の思想と行動の意味が、いっそう鮮明になる。イラクの現在の状況とメキシコのそれとが同一化できるものではないことは、弁えている。/イラクの「レジスタンス」を批判するために、対照的なメキシコの例をひくというのでもない。大事なことを考える契機にできればよいのだ。】としたうえで、【サパティスタの思想と行動には、従来の左翼・革命運動のそれとは大きく異なる特色がいくつもあるが、そのひとつが「軍隊」「武装」「戦争」に関わっている。/彼らは、自ら武装していながら、それが本当にありたい姿ではないと言う。人を殺す役目をもつ兵士であることは、究極の目的ではない。/本来なら、医者や教師や看護婦やエンジニアや、人を生かす仕事に就きたい。「兵士が兵士であることをやめることができる」日を、一日でも早く招き寄せたい、と語る。それは、軍隊なき社会の夢想である。/武器を持つ者(軍隊・兵士)がそのことによって、武器なき者に対して優位に立つような、社会のあり方はおかしい――そう考えるサパティスタは、集会や会議において、武装兵士が持つ投票権を厳しく、最小限に限定する。軍隊の思うがままにはならない社会システムを、萌芽的に構想している。/このようなサパティスタの思想は、私の理解では、ラカンドン地域の先住民の考え・哲学を背景にして形成されている。/サパティスタの対外的なスポークスパースンのマルコス副司令らは、伝統的なマルクス主義の教義と理念を頭に詰め込んで、「オルグのために」メキシコの最貧困地域に入り込んだ。/そこには、独自の社会的闘争の経験を積み重ねてきた先住民族の活動がすでにあった。両者は対等の立場で出会い、互いに影響しあった。相互浸透・相互教育の過程が生まれた。マルコスらの西欧的マルクス主義に、先住民の自然哲学・歴史観・人生観が重なり合った。そこに、彼らの独自性の根拠がある。/異質な歴史過程をたどり、異質な価値観によって育まれた者同士の出会いは、それが対等な立場でなされるならば、このような豊かな「成果」をもたらす。/西欧的な価値が普遍性をもつものと信じられてきた世界に、その西欧の侵略によって否応なく作り出された「先住民」の価値観が浸透していくことによって、まだまだ計測し得ない意味が生まれてくるように思える。】と書いている。

  • 7月20日 「雑誌のできるまで」2004年7月17日(土)〜9月26日(日)、月休、印刷博物館(P&Pギャラリー)、無料。【わたしたちの周りのたくさんの雑誌。さまざまな情報が、見やすく、読みやすく編集されて1冊の雑誌としてまとめあげられ定期的に発行されています。あらゆる趣味から専門領域まで、雑誌の存在しないジャンルはないといわれるほどです。このような雑誌が、どのようにして作られているのかを1つの雑誌ができるまでを映像で追いかけながら、印刷の版などの実際の製作に使用されたものなどを交えて紹介します。】。▼〔再掲〕「荒井虹子展 尹東柱(ユン・ドンジュ)全詩集「空と風と星と詩」より」7月22日(木)〜28日(水)、11:00〜19:00(最終日17:00)、GALLERYこまち(電話・ファックス03(5228)0075、新宿区箪笥町25-6ファロス神楽坂1F、牛込中央通りと大久保通りの「牛込北町」交差点すぐ)。関連:『空と風と星と詩』1984年11月、記録社(影書房)/ 金時鐘3・1独立節85周年記念講演会「尹東柱を語るーめぐりくる春とともに甦る詩人」04.02.28

  • 7月18日 「イラク派兵撤回要求、全国民的に拡散」04.07.11民族時報第1040号。▼さきごろ(04.05.21)、戦後責任.comが立ち上げられた。特集ページ(中国人強制連行の記録)では3月27日付読書録既報の“新潟港強制連行裁判全面勝訴の背景”として、新潟強制連行訴訟・地裁判決全文新潟日報社説「強制連行 国は救済に立ち上がれ」新潟訴訟弁護団声明全国弁護団声明のほか、新潟訴訟/関連リンクが網羅的にまとめられている。▼「外国人ゆえ自由奪われ/無罪拘置 チリ人被告からの手紙」.07.18東京(特報)。

  • 7月17日 「ノンセクト・ラディカル 現代の写真III」7月17日(土)〜9月20日(月・祝)、横浜美術館企画展示室、1000円。【「現代の写真」のシリーズの第3回となる「ノンセクト・ラディカル」展では、国内外の8名の作家、アハラム・シブリ(パレスチナ)、アンリ・サラ(アルバニア)、スティーヴ・マックィーン(イギリス)、ダヴィッド・クレルボ(ベルギー)、奈良美智、石川真生、米田知子、露口啓二による、写真はもとよりビデオなど動画の映像作品を併せて約240点を展示紹介します。/本展のタイトル「ノンセクト・ラディカル」は、60年代末から70年代の初めにかけての我が国で盛んに使用された和製英語です。当時激化していた学生運動をはじめとする政治運動の中にあって、運動組織=セクトに属さず、かといって政治に無関心でないばかりかむしろラディカルな姿勢で社会問題に取り組むことを指しています。ここでは、そうした態度に見られる現実への取り組みを参加作家の作品を通して今一度捉え直そうとするものです。イデオロギーなき時代を迎えたまま新たな世紀に入るなかで、わたしたち一人ひとりの価値判断の重要性が問われようとしています。/現実の世界を素材とする写真や映像の作品においても、作家が如何に同時代の現実と向き合うかといった態度そのものが、真摯に問われるべき課題となっています。ここでご紹介する作品は、政治的なメッセージが直接込められているわけではありませんが、そこには様々な文脈が流れています。どういった文脈を引き出すか、鑑賞者それぞれに委ねられています。そして、そうした作品との対話の場を組織することも、本展の狙いの一つになっています。/※高嶺格氏の作品「木村さん」につきましては、本展にふさわしい作品としての公開を努力してまいりましたが、現在の日本では、上映が法に触れる恐れがあると判断しましたので中止いたします。】。▼「青山ブックセンター閉店 破産申し立て受け」.07.16河北新報 /「青山ブックセンターが営業中止 おしゃれな店づくり定評」.07.16 asahi.com(出版ニュース)/ 「閉店:個性的な商品展開で人気の青山ブックセンター」.07.16 / 「青山ブックセンター、7月16日付けで全店閉鎖」.07.16新文化【午後5時で本店(東京・青山)と六本木店を閉鎖、他の5店舗も営業時間終了後に閉鎖する。】(写真あり)/「【続報】青山ブックセンター倒産」.07.16新文化【16日午後、主帳合取次会社の栗田が代理人となり、東京地裁へ自己破産の債権者申立てを行った。栗田側の代理人はひいらぎ総合法律事務所の清水弁護士(TEL03-3573-1578)、青山ブックセンター側の代理人は田口法律事務所(TEL03-3571-3721)の出口尚明弁護士。】。

  • 7月16日 ▼飯沢耕太郎「「デジグラフィ」を巡って、」.07.15 artscape。【僕自身がデジタルカメラを使ってみて強く感じたのは、そのイメージ生成と使用のシステム自体が、従来のアナログカメラとはかなり違っているのではないかということだった。あえて「デジグラフィ」(digigraphy)という「フォトグラフィ」(photography)と対応する造語を使うようにしたのもそのためである。〔……〕/では、「デジグラフィ」には「フォトグラフィ」と比較してどんな特徴があるのだろうか。それについては5つの指標を挙げて論じている。(1)改変性、(2)現認性、(3)蓄積性、(4)相互通信性、(5)消去性の5項目である。〔……〕/「デジグラフィ」の表現について考える時、僕にとって最も重要と思えるのは5番目の消去性である。記録された画像を、ボタンを押したりパソコンのキーをクリックしたりすることで、一瞬のうちに消去できるということだ。僕自身がデジタルカメラを使ってみて、一番びっくりしたことのひとつがそれだった。これはむろん「デジグラフィ」が物質ではなく、非物質的なデータであることによる。そしてこの消去性ゆえに、「デジグラフィ」の画像はわれわれに脆さ、儚さ、寄る辺のなさといった不安定な感情(デジグラフィ的不安)をもたらすように思えるのだ。〔……〕/では、「フォトグラフィ」は今後どうなっていくのか。「デジタルは写真を殺すのか?」という疑念は、多くの写真関係者によって共有されているのではないかと思う。むろん先のことはわからない。だが僕自身は「フォトグラフィ」の未来について必ずしも悲観的には捉えていない。なぜなら写真には「デジグラフィ」にはない表現上の特質があり、置き換え不可能な魅力が備わっているからだ。/「フォトグラフィ」のプリントの「モノ」としての深みや存在感、われわれの感情や記憶を細やかに定着し、保存していくその卓越した能力、被写体を凝視することで見えてくる思考の蓄積──写真家たちが発明以来160年以上にわたって積み上げてきた「フォトグラフィ」の表現可能性は、「デジグラフィ」の出現によって逆に純化され、研ぎ澄まされていくことが期待できるのではないだろうか。かつて写真と絵画がそうだったように、「デジグラフィ」と「フォトグラフィ」が互いに刺激を与えあいながら、交流し、展開していく、そんな未来図が描けるのではないかと思っている。】。▼企画展「ポスターで観る日本映画Part2」7月1日(木)〜8月15日(日)、武蔵野美術大学美術資料図書館2階展示室、午前10時〜午後6時(ただし土曜日は午後5時まで)、日祝休(ただし8月15日(日)は特別開館)、入館無料。