読書録 2002年2月後半(敬称略)

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  • 2月28日 子安宣邦のホームページ(私の発言)に子安宣邦「講演:「事件」としての徂徠学─思想史の方法をめぐって」。【思想史の方法を再検討するにあたって、なぜ徂徠が主題とされるのか。〔……〕むしろここでは徂徠とは丸山真男の『日本政治思想史研究』における「思想史」の成立にとって不可欠な、鍵をなす人物であることの理解が優先される。】とする子安は【では丸山のこの書は徂徠をどのようにとらえたのか。丸山の『日本政治思想史研究』はきわめてはっきりとした方法的意識をもって書かれている。ここで「思想史」とは、ただ歴史的な諸思想を時間系列にしたがって、あるいは学派系列にしたがって叙述することを意味しない。「思想史」とは、研究者の明白な歴史意識、あるいは歴史哲学的な立場を前提にした、諸思想の歴史的展開についての再構成的な叙述である。ところで、丸山の歴史哲学的な立場は「近代主義」ということができる。彼の近代主義とは、近代的な自律的個人からなる市民社会の成立に高い価値基準が置かれた思想的な立場だといっていい。近代主義においては歴史のテロスは「近代」の実現に置かれる。だが丸山は社会の経済的な、産業的な指標に近代の達成を見ようとはしない。近代的な精神への人々の脱皮に、丸山の言葉をもっていえば、「近代的思惟」の成立に本物の近代を見ようとするのである。〔……〕/徂徠は丸山によって近代的な思惟の先駆的な表現者とみなされた。丸山は近代的な思惟の成立過程を二つのコースでとらえている。一つは、政治と道徳、国家社会と個人、人間の外部と内部との無分別的な連続から個人とその内部とが分離自立する過程である。二つは自然的秩序に立つ社会観から作為的(人為的)な社会観への転換というコースである。丸山はこの二つのコースを朱子学の解体から徂徠学の成立への過程としてとらえようとするのである。『日本政治思想史研究』の第1章が前者を主題とし、第2章が後者を主題とするものである。この両章において朱子学が、そして徂徠学がどのように記述されていったかはここでの問題ではない。むしろ徂徠が丸山によって見出され、あの近代の成立過程を体現する思惟として徂徠学が見出されたことが問題なのである。徂徠と徂徠学とは近代主義的な歴史解釈者丸山によって見出され、再構成されたとていっていい。それ以降人々は疑うことなく徂徠によって日本の近代的な思惟の成立を語ることになるのである。】と指摘している。

  • 2月27日 ▼2002年2月25日、韓国の鉄道、発電、ガス労組を中心とする公企業がゼネストに突入し、2月26日には民主労総の事業所も連帯ストに突入した。→「2002年民営化反対ストライキ」(レイバーネットのページ)。▼死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90のページに「02.01.28死刑執行抗議集会 報告」(02.02.15)。▼03.16発売予定の新刊情報。共立出版(近刊情報)から【[書名]『文字符号の歴史―アジア編―』B5変型判 384頁 7500円、[ISBN]4-320-12040-X、[著者]三上喜貴(みかみ・よしき)長岡技術科学大学経営情報系教授、[内容]漢字、ハングル、インド系文字(デーヴァナーガリ、タイ、チベットほか)、アラビア文字、蒙古文字、アルファベットなど、アジアの多様な文字について、文字の成り立ちとしくみ、国語・文字政策、国語情報処理、および文字符号の形成の過程を、初期の活字印刷、電信符号や機械式タイプライターの時代から説き起こして歴史的に記述する。アジアの公用語で使用される25種類余の文字系のほとんどをカバーしており、各文字の例文、文字表、活字見本、文字符号表、代表的な鍵盤配列など、合計250点を超える図版類でわかりやすく図解する。】。

  • 2月26日 人権・報道・インターネットのページ(情況に対して発言する)に、山下幸夫「人権擁護法案について考える」(02.02.25)。【法務省は、本年1月30日、新たな人権救済機関を創設するための「人権擁護法案」(仮称)の大綱を公表した。3月上旬にも、閣議決定を受けて、今通常国会に上程される予定となっている。/この法案は、二つの潮流の流れを受けたものであると指摘されている〔…〕。/第1は、同和問題対策である。〔…〕第2は、国際的に、「国内人権救済機関」の設置を求める流れである。〔……〕毎日新聞が入手した法案によると、「放送機関、新聞社、通信社その他の報道機関または、報道機関の報道、もしくはその取材の業務に従事する者」を規制の対象にすると明記するとともに、犯罪被害者、犯罪加害者の少年、犯罪被害者や加害者の家族らへの取材のうち、(1)私生活に関する事実をみだりに報道し、名誉や生活の平穏を著しく害すること、(2)取材を拒んでいるにもかかわらず、継続的、反復しての取材活動を行い、生活の平穏を著しく害することが人権侵害に当たると規定しているという(毎日新聞インタラクティブ2月25日)。/このような人権擁護法案には重大な問題がある。最大の問題は、公権力による人権侵害と私人間の人権侵害を全く同一に扱い、しかも、報道機関による人権侵害を法案の対象にしたという点である。/そもそも、国内人権救済機関の必要性については、公権力による人権侵害についての救済が問題となっていたはずであるが、いつの間にか、私人間の人権侵害が中心に据えられている。人権侵害の主体が異なれば、被害の内容や被害の効果も異なり、それに対する救済の方法にも差が出るのは当然であって(奥平康弘「『人権』ということばを問う」法律時報73巻2号5頁)、それを同一に論じること自体が杜撰と言わざるを得ない。また、報道機関による人権侵害を対象としたのは(「報道機関」にはフリージャーナリストも含まれると言われている)、メディアに対する法的規制を意識したものであることは間違いない。個人情報保護法案や青少年有害社会環境対策基本法案とのメディア規制3点セットと言われていることは周知のとおりである。〔……〕報道被害やメディア・スクラム(集中豪雨的取材)の問題があることは確かであり、権力側は、メディアに対する市民の不信感を巧みに利用して、人権擁護法案を制定しようとしているのである。〔……〕私たち市民は、個人情報保護法案と併せて、権力側の真の意図を見抜き、何としてもこれらの法案の制定を食い止めなければならない。】。

  • 2月25日 『The Incidents』のページに、寺澤有「警視庁発注の信号機関連業務で談合の疑い」(02.02.23付、『FRIDAY』(講談社)2002年3月8日号に加筆)。【「東京都情報公開条例」が改正され、警視庁が対象に加わったのが2001年10月1日。これがとてつもない威力を発揮しつつある。今回、「談合が行われている」との証言を裏づける文書が手に入った。「入札経過調書」のコピー付き!】。▼文化通信のページ(出版業界ニュース)2月18日付(3431号)に【緊急シンポジウム「どうする?日本の書籍流通」。鈴木書店の破綻から考える。マーケティング力を強化=菊池氏。責任販売、受注生産も=尾下氏。正しい取引構造構築へ=中村氏。書籍流通の自立が課題=村上氏。流通システム見直しを=木下氏。(2002-2-13,2002-2-18,7段,5面)/出版ヘルメスの会、文化通信社共催の緊急シンポジウム「どうする?日本の書籍流通 鈴木書店の破綻から考える」が2月13日、東京・文京区民センターで行われ、出版社、取次、書店の240人が参加した。パネリストはセゾン総合研究所主席研究員・木下修、出版流通ジャーナリスト・村上信明、ジュンク堂池袋本店・中村文孝副店長、図書館流通センター・尾下千秋社長、筑摩書房・菊池明郎社長の5氏=写真右から。文化通信・星野渉記者の司会で進行した。】。

  • 2月24日 『図書新聞』2002年3月2日付に、ジョン・M・マッケンジー「サイードへの挑戦」。【九月十一日のニューヨークでの同時多発テロ事件の後、エドワード・サイードはそこで起きたことを嘆き、西洋は多様で異なるイスラムが存在することを認めるべきだ、と強く示唆する記事を書いている。西洋はイスラムを一緒くたにしてその何もかもにアルカイーダ・テロリズムのレッテルを貼ってはならない、と。これは誰もが受け入れる当然の立場である。しかし、サイードは西洋のオリエンタリズムに関してはその多様性を認めていない。サイードはイスラムを擁護する論拠としてはその拡散性と多様性を言い、オリエンタリズムに対してはつねにその多様性の認知を拒否してきたのである。これはとても興味深い。サイードは、つねに西洋は画一的で絶えず再生産される客観性、「基本的な客観性の中に他者を凍結」する傾向を持っていた、と論じてきた。その間に、西洋は「本質化されて、基本的に変わらざる自己」に退却した。/私の著書『大英帝国のオリエンタリズム』は、どの頁もこれとは反対のこと、すなわちアジアについての西洋の視野はきわめて多様性に富み豊かなものであったこと、西洋の学者、哲学者、芸術家たちは、サイードがいつも示唆している東洋の「汚染」から自分たちを守るどころか、実際は可能なときにはいつでも東洋の諸形式を取り入れようとしてきたことを示唆するものである。〔……〕/サイードはヨーロッパ(実際は主としてイギリスとフランス)の文献と学問について書いていると称しているが、全著作を一貫しているのは彼のアメリカ的な環境である。〔……〕サイードの『オリエンタリズム』を読んだとき、凍結された客観性、変わらざる自己、および他者の二項対立的で対立的な構築をそのまま信じるわけにはいかないと思った。オリエンタリズムにもあれこれ多くのタイプがあって当然のことである。】とするマッケンジーは【〔…〕さらに、サイードの理論はきわめて侮辱的なものではないかと私にはつねに思われた。それはアジアの人々が行為主体であることを認めていない。それが意味するのはアジアの人々はつねに客体であり、西洋の搾取や権力に屈するふがいない犠牲者であるというものである。しかし、実際にはアジア側の条件であれほど多くの芸術上の交換がなされた。さらには、東洋の人々は西洋にいきわたる彼ら自身のイメージをしばしば自分たちで創りあげようとしていた。最後に、サイードの理論は、何らかの目的のための手段として使われるとどうなるかという観点から見ると、この理論が意図しているものとは反対のことをしてしまうように私には思える。】と指摘している。

  • 2月23日 新曜社のページ(著者エッセイ)に、山田正昭「何も新しくはない」(02.02.04)。【〔…〕9月11日を境として何かが決定的に変わったかのようにいう言説は欺瞞ではないのか、〔…〕何度か目にしたこの「新しさ」の強調は、本当は隠されてはならないはずの、ある「古さ」を隠蔽することに役立ってしまっているのではないか。 少なくとも、アメリカによってアフガニスタンを舞台にその後に行われたことは、事態が本質的に反復であることを示しています。「新しさ」や「断絶」の強調は、もしそれが「事件」のスペクタクル的華々しさによる一過性の錯覚でなかったとすれば、アメリカの戦争遂行イデオロギーの一部にしか、そしてそれゆえにアメリカの政策に盲目的に追従する(あるいはそれを利用しての自衛隊の正真正銘の国軍化、戦時体制の構築をはかる)日本の体制の正当化の論拠にしかなりえないように思えます。だからこそ、あえて「何も新しくはない」というべきなのだと思います。】と鵜飼哲『抵抗への招待』をひきつつ指摘する山田は、【カール・シュミットの述べたことが、異様なまでのアクチュアリティを取り戻しているように感じられ】るとして【『現代議会主義の精神史的地位』の中で民主主義の本質について、すでに次のように書いていました。「あらゆる現実の民主主義は、平等のものが平等に取り扱われるというだけではなく、その避くべからざる帰結として、平等でないものは平等には取り扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に、必要な場合には、異質的なものの排除ないし絶滅ということである。(...)すなわち、民主主義の政治的力は、他所者と異種の者、すなわち同質性を脅かすものを排除ないし隔離できる点に示されるのである。」(第二版へのまえがき(1926)、稲葉素之訳)日本がとっくの昔に実現してしまっているこうした「民主主義」を、アメリカはこれから血道をあげて追求していくことになるでしょう。いうまでもなく、同質性の確保は敵の措定と表裏をなします。ブッシュは1月29日の一般教書演説の中で、ついに北朝鮮とイランとイラクとを名指しで「悪の枢軸」と呼びました。「もっとも破壊的な兵器を持つ、世界でもっとも危険な政権」がこのような遂行的発話をおこなったとき、それがどのような帰結を持つかは予断を許しません。】と書いている。

  • 2月22日 ▼2月19日、東京の労働スクエア東京ホールで「活路を開く新たな闘いを全国へ! がんばれ闘争団ともにGO! 2・19集会」(主催:国労闘争団共闘会議準備会)が闘魂あふれる700人の参加のもと開かれ、今後の闘いへの確信と決意に満ちた集会となった。『人らしく生きよう 国労冬物語』全国上映運動からもアピール。がんばれ国労闘争団のページに、集会レポート「活路を開く新たな闘いを全国へ!/共闘会議正式結成を呼びかけた2・19集会に700人が参加!」掲載。▼板垣雄三「パレスチナの現在をどう理解するか」〔『情況』2002年3月号 特集“9・11とアラブ・イスラム”所収〕。【〔…〕パレスチナ人の抵抗はイスラーム教徒としてやっているわけではなく、またイスラーム教徒だけが行なっている運動でもありません。/パレスチナ人が置かれている現実を考えるとき、「イスラームの運動」の話にこれを押し込めて考えたり、ましてや「イスラーム原理主義」のテロリズムの話に結びつけ、「収拾困難な紛争の片側」と位置付けたりする語り方、捉え方の構造そのものを徹底的に批判しなくてはなりません。広く世界のイスラーム教徒が提起しつつあるグローバルな現状への批判、世界の中の不公正に対する怒り、イスラームの退廃状況に対するラディカルな批判、それらがパレスチナ人の直面する厳しい現実への同胞的連帯と深部で結びあうものであることを見落としてはなりませんが、同時に、抵抗運動に立ち上がるパレスチナ人の絶望の意味と一縷の望みというべきヴィジョンの意味とを正しく見分けることが非常に大切です。パレスチナ人は某々教徒として怒っているのではなく、一個の人間として怒っているのです。観念からではなく日々抑圧される生活現実の中で発する怒りなのです。日本の社会においても、何らかの不公正に対する抗議者は、生きる現実からではなく原理原則や建て前が先にあって、発言したり行動したりはしてはいないでしょう。パレスチナの抵抗運動をイスラーム運動に押し込め、これをテロリスムに分類したりする人は、「地に足をつけて考える」ところから遊離した発想をしているのではないでしょうか。パレスチナ人が闘っている現実は、われわれの想像力を厳しく問いつめているのです。】。

  • 2月21日 ▼asahi.com 2月19日付に「フランス「無料新聞」の配布、印刷労組の反対で大荒れ」。▼ミスター高橋『流血の魔術 最強の演技――すべてのプロレスはショーである』2001年12月、講談社。【〔…〕真のプロレスは、新日本プロレスが掲げてきた“キング・オブ・スポーツ”ではなく、“キング・オブ・エンターテイメント”だと、そうなれる可能性を秘めたジャンルなのだと、私は胸を張りたい。/プロレスが一般の新聞やテレビのスポーツ番組で扱われないのは当然で、そこに入り込むことをめざして“市民権獲得”などと言うのはバカな話だ。有名タレントの記事が日経や朝日の一面に掲載されないことを、芸能関係者が問題にするだろうか。/「これはお芝居ですよ」と宣言して、別の場所でメジャーになることをめざせばいい。そのほうが潔いし、ずっと大きな可能性がある。「プロレスはスポーツではありません。エンターテイメントです」と言ったときに、初めて市民権が得られると思うのだ。〔……〕プロレスを真剣勝負だと言い張るから八百長なのであって、エンターテイメントだと堂々と宣言すれば、八百長ではなくなる。〔……〕どんな優れたアクション映画でも、役者が本当に相手を殴っているわけではない。ましてや血を流しているわけでもない。しょせんは嘘、すべてがつくりものだ。/それでもエンターテイメントとして高く評価されるのなら、徹底的に鍛え抜いたレスラーが本当に肉体をぶつけ合えば、もっと大きな感動を与えられる。〔……〕「プロレスはエンターテイメントです」と宣言した瞬間から、レスラーは世界最強の芝居を演じる、選び抜かれたエンターテイナーになれるのだ。プロレスラーはリアルファイターではなく、リアルアクションスターだと、胸を張ってもらいたい。】。

  • 2月20日 『The Incidents』のページに、寺澤有「警視庁の天下り会社が信号機の保守業務独占でボロ儲け」(02.02.17付)。▼承前、辺見庸「戦争(1)(2)」〔連載・反時代のパンセ第26・27回、『サンデー毎日』2002年2月24日号・3月3日号〕。【〔…〕さて、そのような狂気に彩られた一般教書演説に対し、米上下両院合同会議はどのような反応を示しただろうか。あろうことかなかろうことか、凄まじいばかりのスタンディング・オペレーションだったのだ。狂気は勝利したといっていい。/日本のマスメディアには狂気が存在しないのだろうかと、ときおり私は考える。ブッシュの一般教書演説を総じて事理相通ずるまっとうなもののように扱ったテレビや新聞報道は狂気じみていないか。ありていにいえば、つよい関心は示さなかったのだ。ということは、そこに狂気はなかった、ともひとまず診断はできる。だが、パスカル流に解析すると、「狂気じみていないことも、やはり狂気じみている」のである。ブッシュ演説のこれほどの狂気に対し、べっして反発もみせないこと自体に静かな狂気が宿っていると私は思う。これは取りも直さず、ブッシュの悩乱の世界観が日常的に投象されて、日本の戦争構造が日々穏やかに立ち上がっていることを意味するだろう。風景は刻々じつに静謐に穏当に狂いつつある。あたかもこれ以上の正常はないかのように。/ボードリアールは前述の論考[引用者注=2001年11月3日のルモンド紙に寄せた論考]で「自由という比較的新しい思想はすでに風俗や意識から消滅しつつあり、リベラルなグローバリゼーションが自由とはまったく逆の形態をとって実現されようとしている。警察の支配と全面的管理のグローバリゼーション、セキュリティという名の恐怖政治だ。管理からの解放〔を求める運動〕は、原理主義社会にも匹敵する最大限の束縛と制約のうちに終わりを告げたのである」と述べた。われわれの狂った正気と根拠のない理性と日々の惰性がそうさせたのだ。】。

  • 2月19日 辺見庸「戦争(1)(2)」〔連載・反時代のパンセ第26・27回、『サンデー毎日』2002年2月24日号・3月3日号〕。【〔…〕死屍累々たる戦場だけではない、欠伸がでるほど退屈な生活のなかにも、じつは戦争がある。〔……〕愚昧が“卓抜”に、悪が“善”に、狂気が“正気”に、そしてなにより、戦争が“平和”に反転して、われわれの生活を侵しつつある。】と指摘する辺見は、ブッシュが米上下両院合同会議で行った一般教書演説を引きつつ次のように書いている。【/●わずか四ヶ月、われわれは数千人のテロリストを捕まえ、アフガニスタンのテロリスト・キャンプを破壊した。人々を飢えから救い、一つの国を残虐な圧制から解放した。●たとえ七千マイルも離れ、海と大陸で隔てられ、山の頂や洞窟に潜もうとも、お前たち(テロリストのこと)はこの国の正義から逃れることはできない。われわれの大義は正しく、今後ともそうである。●この戦争(対テロ戦争)の戦費は膨大である。毎月十億ドル以上を費やしてきた。アフガンで証明されたのは、高価な精密兵器は敵を負かし、罪のない人々の命を助けるということだ。こうした兵器がもっと必要だ。/文例一は、ブッシュなりの勝利宣言である。日本の中都市の財政規模にもおよばない年間予算しかなかった超貧乏国の飢えた大地を襲撃し、タリバンだけではない、食えないから隊列に加わっただけの失業者、農民とまったくの非戦闘員多数を空爆によりごく気楽に虐殺して、対テロ戦争に「勝利しつつある」というのだ。ほとんど無抵抗の者たちを圧倒的軍事力でむごたらしく殺すことを「勝利」といい、途方もない戦争犯罪を「解放」という。一万歩譲歩しても、しかし、事実はちがう。すなわち、アフガンの人々は飢えから救われておらず、「解放」されてもいない。/文例二は、どうやら格調が高い文とでも思ったか、ブッシュが躰を揺すり、自己陶酔気味に一段と声を張り上げたくだりである。これが、三千八百億ドルという驚愕の国防予算をもつ戦争超大国の最高指導者の言葉なのである。格調どころではない、復讐を誓うそこいらの組織暴力団の偏執と大差ないではないか。ここには高い政治理念など微塵もない。国家という暴力装置とそれを担う暗い情念を、なにはばからず発現しただけのこと。〔…〕/文例三は、米国がアフガンで生身の人々を被験者とし多彩な兵器の実験をやりましたと告白したのに等しい。それらはトマホーク、バンカーバスター、デイジーカッター、クラスター爆弾、そして秘密裏に実戦使用された新型爆弾などを指している。〔…〕高価な精密兵器こそが人を救うとは、哲学の貧困を通り越し、哲学絶無という満目荒涼たる地平を見せつけられているようなものではないか。】。(つづく)

  • 2月18日 松浦玲『検証・龍馬伝説』2001年12月、論創社。【司馬遼における脱イデオロギーは、脱イデオロギーのイデオロギーではない。〔…〕脱イデオロギーの普遍化運動をやらない。それほど徹底した――したがって見事な――脱イデオロギーである。それは、まさに一九六〇年代以降の日本に対応しているといえよう。】と指摘する松浦は【司馬は“庶民”ということを言う。〔……〕非政治、非イデオロギー人間である庶民は、ほうっておかれればだいたいにおいて平穏無事に暮らしているのだが、ときどき、本当はフィクションに過ぎない政治やイデオロギーが干渉してきて、庶民は大迷惑をこうむる。〔…〕『人間の集団について』の中では、十五パーセントが右、十五パーセントが左、七十パーセントが普通の人間という話が出てくるが、この七十パーセントが庶民である。〔……〕私は、司馬のこの図式を胡散臭いと思っている。司馬にとっては現在の日本は政治やイデオロギーの圧力が少なく庶民に迷惑が及んでいない社会であるらしいのだが、私は、あやしいものだと思う。現状認識もそうだが、そもそも“庶民”とはどんなものかという問題についても、そうである。関東大震災で朝鮮人を殺したのも、太平洋戦争下で「非国民」を迫害したのも“庶民”だという恐怖が私からは抜けない。私は、“庶民”がそうならないためのイデオロギーが必要だという説である。】と書いている。

  • 2月17日 日本語による出版情報の海外提供システム「JiBOOKS」(Japanese info on Books)がこのほど実験的に公開された。「我が国で出版されている書籍約60万冊の書誌情報『日本書籍総目録』を世界中の大部分のブラウザで「日本語で迅速に」検索できるシステムが国立国語研究所で完成の運びとなりました。」とのことで、国立国語研究所・情報資料部門の横山詔一、熊谷康雄、エリク=ロング、米田純子らによる〔02.02.12 EMSJ電子かわら版からの情報〕。

  • 2月16日 『技術と人間』2002年1・2月号に「『技術と人間』創刊30周年の集いのご案内」。【〔…〕この大きな歴史の変わり目を示唆する2002年は雑誌『技術と人間』が創刊されて満30年になります。/『技術と人間』誌30年の歩みは、二十世紀後半急速に発展を遂げてきた原子力、生命科学、情報化などの現代技術は人間にとって何をもたらしたのか、その全側面を問い続けた営みでもあったのではないかと思われます。『技術と人間』誌は以上の視点から人間と現代の科学技術との諸問題を考察し続けて30年間、日本の一時代において社会的、歴史的困難を克服しつつ、『技術と人間』誌を刊行し続けて来られたのは、編集者たちの不屈の意思とそれを支え続けてきた多数の読者の力強い支持があったればこそと改めて感じられます。〔…〕】。日:3月2日(土)、会場:東京・文京区民センター、第1部:記念シンポジウム〔14:00−17:00〕21世紀技術の到達点と人間、環境的諸問題(高橋昇、西尾漠、田中公雄、天笠啓祐、井上澄夫)、第2部:祝賀会〔17:30−19:30〕、主催:創刊30周年記念集会実行委員会〔呼び掛け人:天笠啓祐、井上澄夫、高須次雄、田中公雄、西尾漠、福本英子、降旗節雄、星野芳郎、前野良、宮嶋信夫、村上茂樹、山路靖雄〕。