読書録 2002年1月後半(敬称略)

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  • 1月31日 森岡正博『生命学に何ができるか 脳死・フェミニズム・優生思想』2001年11月、勁草書房。金森修書評「「いのちの倫理」深く問う」(読売新聞02.01.20付、関連:bk1 登録情報)。/『現代思想』2002年2月号・特集「先端医療――資源化する人体」に、村上陽一郎+中谷瑾子「対談・生命はどこへ行くのか」、中辻憲夫「インタビュー・再生医療研究の現在」ほか。

  • 1月30日 ▼1月28日午後1時、国労闘争団・遺族計283名は解雇無効を訴える鉄建公団訴訟を東京地裁に起こした。四党合意を乗り越え、当事者である闘争団が主体となった新たなたたかいがスタートした。「がんばれ国労闘争団」のページに「国鉄闘争に新たな一ページ/鉄建公団を提訴」(01.29)。▼承前、「砦になるカメラ、小川紳介没後十年/鼎談 小川紳介をめぐって」における矢部史郎の発言。【三里塚作品で重要なのは、三里塚で何が行われたかということであって、それを誰が撮ったかなんてことはどうでもいいんですよね。20世紀という時代に、農村が解体させられて、工業化されて、移住が強いられる。それは映画であれ文書であれ口伝てであれ、どんな形態であれ、誰かが記録し伝えていく。文章が書ける人間はレポートを書くし、カメラを持っているならそれを使えばいい。そういう意味で、三里塚作品は「小川作品」ではない。本当に無名性に到達している。だから見ていて楽しい。だから、「小川作品」を云々したい人が、初期を除いてしまって、集団移住以後しか扱えないというのは、当然だと思う。〔……〕映画というのは、国家を前提にしたメディアだと思うんですね。で、ビデオというのは、子供の運動会とか親戚の結婚式とか撮るものでしょう。この前、靖国神社で抗議行動をやったときに、ビデオ撮ってもらったんだけど、それは映画じゃなくて、ほとんど記念写真なの(笑)。友達呼んでビデオ見せて「ここでこの右翼が殴ってきたんだよウヒャヒャ」ってね。〔……〕運動には映画はもう必要なくなっていると思うんです。かつて「第二、第三のベトナムを」なんて言ってた時は、それは、第二、第三の新国家を建設する、そういう国家に関わる主題があっただろうと思います。でも、新国家を建設するっていう主題は、ポル・ポト政権がカンボジアで人骨を並べてしまった後には、そう簡単には語れない。そこで、左翼にとっての新しい映画という主題も終わったと思う。もしいまも残っているなら、早く終わらせるべきだと思う。/映画はいらないんです。記念撮影のビデオでいいんです。それが無数にあって、闘争の数だけビデオテープがあって、人づてにまわってきて、継承されていく。そういうマイナーな展開に未来があると、僕は思ってます。】。

  • 1月29日 ▼『図書新聞』2002年2月2日付に「砦になるカメラ、小川紳介没後十年/鼎談 小川紳介をめぐって」。井土紀州、平沢剛との討議で矢部史郎は語っている。【〔…〕三里塚作品はおもしろかった。〔…〕ところが『ニッポン国古屋敷村』(82)と『1000年刻みの日時計』(86)を見て、おそろしくつまらないのに驚きました。〔…〕なにがつまらなかったかというと、対象への執着がないんですね。炭焼きとか稲とかしつこく撮ってるんだけど、ポーズだけなんですよね。それはなにか教条的にカメラをまわしてるだけで、対象への愛着とかシンパシーとか、カメラまわしてウヒャヒャみたいな無邪気さがない。〔…〕我々は映画を作っていますってことを映画にしてしまっている。それがすごく不満でした。お前らの理屈映画なんか見てられんと思った。〔……〕『DEVOTION』のなかの証言で、「無名性」ということが言われていて、ぼくはそれで合点がいったんです。三里塚作品を撮っているときは、「無名性」なんて言う必要はなかったろうと思うんですね。「無名性」を言わなきゃならなくなったのは、集団移住後に映画を作るというときに、「小川プロの映画作り」が映画の主題になっちゃったからなんですね。三里塚に行って、ジュラルミンでガタガタやられてるときは、機動隊からカメラを守る必要はあっても、作り手とか編集とか作家性とか、そういうことは関係ない。〔……〕一連の三里塚作品は、真面目に学生運動をやってる人間ならたぶんやらないようなことを、ちょっとネジの外れた軟派な集団が、カメラ持ち込んでウロウロしてたと、そういうことだと思うんです。〔…〕学生運動があって、農民と連帯する闘争があって、そういう大きな構築物があったときに、そこから逸脱した異例の軟派集団がいて、映画を撮った。そういうアナーキーな運動感が、三里塚作品のおもしろさだと思うんです。ところが移住後の映画は、どういうつもりかすごく真面目になっちゃってるんですよね。なんか活動家みたいに使命感でカメラまわしちゃう。軟派を通せなかったんですね。そうなるともう映画が説教じみてきて、うざい。】。▼JAGAT(日本印刷技術協会)のページ(PAGE2002)に、コンファレンス「OpenType時代の文字」。2月8日(木)9:00-11:00、プリンスホテル2F「琴」。

  • 1月28日 ▼文化通信のページ(ヘッドラインニュース)に、緊急シンポジウム「どうする!? 日本の書籍流通 鈴木書店の破綻から考える」。【2月13日午後6時30分から、東京・春日の文京区民センターで/主催は出版ヘルメスの会・文化通信社/パネリスト・菊池明郎(筑摩書房)、尾下千秋(図書館流通センター)、中村文孝(ジュンク堂書店)、村上信明(出版流通ジャーナリスト)、木下修(セゾン総合研究所)、司会・星野渉(文化通信)/定員200人、参加費2000円、参加費は当日精算になります。/事前申込みFAX03(3812)7465 メールhensyuu@bunkanews.co.jp 文化通信社シンポ係。/お申し込みの際は、お名前、参加人数、会社名、住所、電話番号、メールアドレスをご記入下さい。】。▼デビッド・グリーンバーグ「アルカイダ兵士たちは正当に裁かれるのか−−戦争と国際法」(MSNジャーナル02.01.24)。▼再掲、JIS改訂の考え方公開レビューの御案内(02.01.15 財団法人日本規格協会符号化文字集合調査研究委員会委員長・樺島忠夫)。公開レビューの実施期間は2月15日(金)まで。

  • 1月27日 ▼『日本経済新聞』2002年1月27日付に宮内勝典「海亀塾とクレオール」。【〔…〕グローバル化は、それぞれの文化圏の固有なもの、異質なものを障壁とみなして、それらをなぎ倒し、破壊しながら進行していく。白か黒か、たえず二者択一を迫っていく。グローバル化は、多様性を受け容れない。/そうした単一性への反撥として、いま多くの国々が、表面的にはグローバル化へ向かいながら、深層においては、民族主義やナショナリズムに回帰しようとしている。日本にもそうした〈ねじれ〉現象が見えるはずだ。/日本だけに限らない。インターネットで世界は開かれ、互いにつながっているように見えるけれど、それは表層だけのことかもしれない。〔……〕グローバル化を謳いながら、いま世界は細分化し、ひそかに閉じつつあるのではないか。/では、どんな理念が可能なのか?/グローバル化に代わりうる世界観が、もしあるとすれば、クレオール化ではないだろうか。クレオールとは、人種や、言語、文化の〈混血〉現象を意味する。たとえて言えば、料理のようなものだ。複数の文化が混じりあって、より複雑な味覚の、もっとおいしい料理が次々に生みだされてくる。クレオール化は、多様性そのものであり、異なる民族、文化がゆったりと共存する。料理はさらにおいしくなり、しかも停滞することがない。/グローバル化は、文化の貧血だ。クレオール化は、文化の輸血なのだ。〔…〕】。▼[aml 26207]に人権救済申立運動 参加38団体「公安調査庁による市民団体スパイ問題での日弁連人権救済申立団体声明」(02.01.23)。「日弁連から公安調査庁への「警告」」(02.01.23)。▼再掲、JIS改訂の考え方公開レビューの御案内(02.01.15 財団法人日本規格協会符号化文字集合調査研究委員会委員長・樺島忠夫)。公開レビューの実施期間は2月15日(金)まで。

  • 1月26日 『沖縄タイムス』2002年1月25日付に「個人情報保護法案つぶせ/作家ら招きあす集会、県マスコミ労協」。【今国会で本格審議入りする見通しの「個人情報保護法案」を廃案に追い込むことを目的とした「個人情報保護法ぶっつぶせ大集会」を二十六日に開催する同実行委員会の謝花尚実行委員長らが二十四日、県庁記者クラブで会見。「集会を法案反対のうねりを全国に広げる起爆剤にしたい」とするアピールを発表した。同委員会は、県マスコミ労協が主体。/アピールでは「法案は公権力の責務を免責し、国民の知る権利を保障するメディアの活動も規制対象にしている。戦前の暗黒時代の情報・報道統制にもつながりかねない危険な法案」とし、昨年九月の米中枢同時テロ後の米軍基地内の情報非公開や、県民の生命・財産を脅かす原子力潜水艦の寄港情報のマスコミへの非公表など、県内での「情報統制」の現状を指摘。/同集会の成功は「法案廃案への大きなエネルギーとなることにとどまらず、市民を国家の思惑に組み込み、その権利を抑えつける今後のさまざまなもくろみにも対抗する礎となる」とし、多くの参加を呼び掛けた。/同集会は二十六日午後二時から那覇市久茂地のパレット市民劇場で開かれる。在京ジャーナリストやノンフィクション作家らの討論や地元記者による米軍基地取材を通した報告、フロアを交えた自由討論を行う。〔……〕】。

  • 1月25日 ▼承前、マイケル・マッキンレー「グローバル化という名の戦争(2)」、同「グローバル化という名の戦争(3)」。▼帝国データバンク(倒産速報&集計)のページに「全国企業倒産集計2001年報(2001年1月〜12月)」。【件数1万9441件、戦後2番目の高水準/負債16兆2129億8500万円、戦後2番目を記録】として統計を示した上で「今後の問題点」として殖産住宅相互の民事再生法申請(02.01.13)を例に【従来の債権放棄は単に影響を最小限にするソフトランディングを狙った臨時の延命策として、先行きの見通しが立たない企業に対する銀行の縁切り宣言であり、数年後には倒産処理に至らざるを得ないことを改めて浮き彫りにした。今後も、同様の状況下にある不振上場企業が相次いで法的な倒産処理の俎上に載ってくる可能性が高いと見なければならない。】とし、【法定準備金の取り崩しに象徴されるように、大手銀行は体力の限界を露わにしながらも、ぎりぎりのところで巨額の不良債権処理を断行しなければならない。それでも不況で増殖しつづける不良債権に処理が追いつかないだけでなく、倒産による思い切った不良債権処理をやったとしても、連鎖倒産の発生や信用不安の連鎖的な高まりなどによりそれがまた不良債権を新たに増やすという悪循環に嵌まって身動きが取れない状況になっている。〔…〕不良債権処理の悪循環の中で銀行間の暗闘は熾烈化して混迷の度合いが深まり、金融不安が高まっている。/こうした中で銀行への公的資金再々注入が議論の的となっているが、そもそも過去2回の公的資金の注入自体がメガバンクを生み出したとはいえ、銀行の収益力回復、配当・返済能力維持に繋がらず、金融庁を特別検査に踏み切らせるなど重大なジレンマに落とし入れているからこそ問題は大きい。であるからこそ、繰り返し「再注入は必要ない」と強弁してきたはずである。ペイオフ解禁を目前に控えて柳沢金融担当相が「金融危機時には公的資金を入れて金融システムを守るのは当然のこと」とコメントしたことについて、自家撞着に陥らざるを得ない苦衷は理解できても、実際に危機対応に踏み切る事態が生じた時こそ、先送りされ隠されていた問題のすべてが表面化し市場や産業界の不信と疑心暗鬼がピークに達するであろう。不良銀行の清算をつきつけられるだけでなく、融資先についての査定が強化されて破綻懸念先以下へと落される企業が続出、大倒産の集中発生によるパニックの引き金になりかねない。〔…〕】と指摘し、【〔…〕過剰債務を抱えて本業不振に陥っているにもかかわらず、抜本的な再建策を打ち出せない大手・中堅企業に加え、極端な業績不振に襲われ、地域金融機関の集中破たんの影響も加わって資金調達難に直面している中小零細企業にも大量淘汰の波が押し寄せており、年度末にかけて倒産は一段と増勢傾向を強める】と予測している。

  • 1月24日 ▼杉本つとむ『漢字百珍 日本の異体字入門』2001年12月、八坂書房。【〔…〕本書を通して現代の漢字教育を批判してみました。漢字研究家と自他ともに許す学者が、中国の漢字には通じていても、己れを生み育てた祖国の漢字や文化には無知に近く、〈漢字〉が日本の国字であることすら自覚していません。〔…〕何かというと中国を規準に、正とか誤とか無責任な発言をしています。拙著は、さまざまな思いを託して、日本の漢字の過去と現在と、そしてさらに将来のあるべき姿を思いつつ、〈日本の漢字〉の実態を史的見地から素描したものです。】という杉本は、【戦前の〈旧字体〉とても、所詮は明治以降の近代の所産でしかなく、古来日本人には、民衆の知恵として、俗字使用の長い歴史があるのです。そして現行の常用漢字には、まぐれかもしれませんが、こうした伝統が結果的に生きているような一面もみうけられます。以下、そうした〈民衆の文字〉の中から代表的なものをいくつかとりあげて紹介するとともに、〈異体字〉成立のメカニズムやその本質についてもふれてみたい】として豊富な文字たちの事例を挙げている。▼字游工房のページに「游明朝体開発ノート」。游明朝体の使用例・その1(2002.01.17)、「游明朝体」という名前(2002.01.10)。

  • 1月23日 ビル・トッテンのページにマイケル・マッキンレー「グローバル化という名の戦争(1)」〔原文:"Triage: A Survey of the New Inequality as Combat Zone" 選択:戦闘地域としての新たな格差の調査〕。【明確な価値観、消費パターン、社会構造、国家の形態を組み入れた、いわゆる「新資本主義」は、社会に独特な破壊的結果をもたらした。それは世界の政治経済に危機的状況として多数表れている。我々は過去における資本主義の初期段階、カール・ポランニー(経済人類学者、1886−1964)の第一期に逆戻りした。そこでは国家が現実の経済活動から手を引き、規制のない世界経済の動きに国家経済を順応させる役割になり下がる。ここで「規制のない」ということは、資本や財やサービスの動きを規制する国家の特権を放棄することを意味するが、労働者は特定の地域に留まったままであり、伝統的な国家の国境内に居住することに変わりない。この質的な変化を以下に続く議論を読み進む上で心に留めておいていただきたい。国際貿易は新しい現象ではないが、国家が主役の競争経済を含む資本主義的な政治世界から、国家は競争し合う政治的独立体であるものの、従属的な参加者に過ぎなくなった資本主義的な経済世界への転換である。それを理解した上で、経済のグローバル化という戦争は革命の性質を持つ。企業資本によって、またはその利益のために政府を動かす統治制度に国家は変質したのである。したがって、世界の主要経済の参加者が新資本主義は不可欠であり、人類の社会的、政治的、経済的生活を組織するための原則として受け入れるべきものであると信じていることが、戦争の原因となっている】。

  • 1月22日 帝国データバンク(TDB Watching)のページに「特別企画:1980年以降の上場・店頭企業倒産動向調査/2001年の上場企業倒産/件数・負債ともに戦後最悪〜11月単月の4件発生も史上初〜」。【2001年、上場企業の倒産は14件発生、負債総額は2兆8806億6600万円に達した。これは件数で97 年に並び、負債総額では2000年の2兆6768億6900万円を超え、ともに戦後最悪を記録。特に11月には4件の上場企業倒産が発生し、単月ベースでは戦後最多の記録を塗り変えた。/2001年の企業倒産は、件数・負債総額ともに戦後最悪に迫る勢いで発生、とりわけ上場企業の倒産が多発した年であった。1月〜8月の上場企業の倒産は5件発生、負債は比較的中規模にとどまっていたが、9月14日のマイカルの倒産以降、上場企業の倒産が多発する事態となり、負債規模は大型化し、業種も多岐にわたった。〔……〕】。

  • 1月21日 日刊デジタルクリエイターズNo.1010(02.01.21付)に柴田忠男「またやってるよ、危ない公募」。【パイオニアとニール・バレットとのコラボレーション「PDP EX-Contents Award 〜Collaborate with Neil Barrett〜」なるCG、映像などの動画作品公募が行われている最中だが(http://www.pdp-ex-contents.com/)、コンテスト運営は「C's Bridgeコンテスト事務局」である。「Artdex Design Contest2001」なるコンテストで信じられないような応募規定を掲載し問題になった、あのプロックスジャパン株式会社である。当方からの公開質問状にもだんまりをきめこんで逃げ切った、あの会社である。/またもや危険な応募規定の「注意事項」表示。まったくこの会社は懲りないのだなあ。/【注意事項】にこうある。/●応募作品の著作権は応募者に帰しますが、作品はパイオニア株式会社ならびにNeil Barrettの販促、広報用として複製、発表、展示、上映することがあります。/これは、「応募した作品」は「パイオニア株式会社ならびにNeil Barrettの販促、広報用」に使うことがありますということで、むちゃくちゃ勝手な言い分ではないか。「入賞作品」を、コンテストの広報用に限って複製、発表、展示するというのなら、普通のコンテストでも行われているから理解できるのだが、「応募作品」を「コンテストの広報用」ではなく「企業の販促、広報用」に使うかもしれない、というのである。とんでもない話ではないか。/また、グランプリ、準グランプリ、Neil Barrett特別賞の作品の扱いについてなにも記されていないのもおかしい。こういう映像コンテストなら、入賞作品はNeil Barrettのショップ内で、プラズマディスプレイで上映します、とかあるのが普通だ。入賞作品の著作権についてなにも書かれていない、というのもなにかたくらみがありそうだ。入賞作品をどうするつもりなんだろう。/これはコンテストの名を借りた、企業の販促、広報用のビジュアルをただで集める仕掛けなのだろうか。プロックスジャパンに質問をしても、たぶん返事はないだろう。主催するパイオニア株式会社はただち釈明すべきだ。だが、パイオニアのサイトにこのコンテストの情報が見あたらない(コンテストサイトからもリンクされていない)。いったいどういうことなのだろうか。】。▼再掲、JIS改訂の考え方公開レビューの御案内(02.01.15 財団法人日本規格協会符号化文字集合調査研究委員会委員長・樺島忠夫)。

  • 1月20日 2002年1月19、20の両日、大学セミナー・ハウス(東京都八王子市)で財団法人 大学セミナー・ハウス主催第187回大学共同セミナー「科学論は科学の敵なのか?―科学をめぐる言説のゆくえを見据える―」が開かれ、講師・運営委員ほか約30人が参加、活発に討論、交流した。講演は村上陽一郎(国際基督教大学)、長谷川眞理子(早稲田大学)、三中信宏(農業環境技術研究所)の3氏。関連サイト:科学技術社会論学会(STS学会) / STS Network Japan Web Site

  • 1月19日 状況20〜21(太田昌国の発言)のページに、太田昌国「微かな希望の証し 2001年におけるマフマルバフの映像とテクスト」(02.01.12)、同「他者の痛みの部所を突く、慢り高ぶる者の最低の悪意 「カンダハール発→グアンタナモ行」輸送機が孕む問題を読む」(02.01.15)。

  • 1月18日 ビル・トッテン「カジノ経済」(02.01.16)。【外国為替の世界の取引高(売り買い両方)は現在、貿易額の45倍、またこの地球上で生産されている製品やサービスの総生産高(GDP)の9倍にものぼっていることが、データを調べてみて明らかになった。〔…統計挙証…〕通貨が製品やサービスの生産や取引を促進するための道具であると主張する人がいるが、本当にそうだろうか。この数字を見ても本当にそういえるだろうか。〔……〕しかし、為替の取引高が貿易額の45倍、またこの地球上で生産されている製品やサービスの総生産額の9倍にも達している現在、輸出入や生産を助ける、すなわち産業や商業活動を促進するために為替取引が行われているといえるだろうか。私は、為替取引はむしろ博打同然と考える。〔……〕ほとんどの日本人の貯蓄は、人々が安全と信じている銀行口座に預けられている。いわゆるローリスク、ローリターンである。しかし、預金者の承諾を得るどころか、預金者の知らないうちに、銀行は預金者から預かった資金を外国為替取引に投じている。そしてその博打の結果、利益が生まれればその配当金はすべて銀行にわたり、何も知らされていない預金者にはまったく見返りがない。逆にその博打に負ければ、掛け金を負担するのは預金者であり、納税者である。なぜなら日本では政府が預金者を保護する責任を負っているため、銀行が破綻すれば公的資金でその銀行の博打のつけを補填しようとするからである。なんとすばらしい世界だろうか。】。

  • 1月17日 ▼『朝日新聞』02.01.17付「米ホームレス「予備軍」増加 不景気に下がらぬ家賃、さらにテロ…」。【〔…〕リー・ストリンガーさん(50)は数年前まで12年間、ニューヨークの麻薬におぼれたホームレスだった。〔……〕――ホームレスに対する社会の目に変化は?「最初は哀れみ深かったのが、『間違った同情だ』と言われ続けて、少しずつ敵視しだす。で、それが政策になったってわけだ。貧乏でもホームレスでもいいが、ほかの人から50ヤード離れ姿を見せるな、と。9・11の直後、みんな優しく見知らぬ人のために泣いたのに、政治家が星条旗を掲げよといった途端に戦争と復しゅうのことしか考えなくなったようなもんだ」/――ニューヨークのジュリアーニ前市長の政策のこと?「ああ、彼は『きれいな新しいニューヨークのため、ホームレスは排除せよ』と。心の病、麻薬、酒とホームレスはいろんな問題を抱えているが、もっと悪いのは孤立ってことだ」/〔……〕――同時多発テロ、アフガン攻撃。考えは?「アメリカは偉大だが、それがすさまじく多くの人々の犠牲の上に成り立っていることを知らなきゃ。高級車を買ってテロリストに負けてないと見せつけてやれ、なんて言ってるが、その代償に窓から自由を放り投げようとしている。高級車なんていらない。自由が大切だ」/――米国では珍しい意見です。ホームレスの経験からの考え?「黒人だからじゃないか。金持ちの白人地区で『いるべきじゃない』貧乏な黒人だったから」】。▼「平成13年度 符号化文字集合調査研究委員会」議事資料公開のページに、平成13年度 第3回 新JCS調査研究委員会(親委員会)(01.11.20開催)、平成13年度 第4回 新JCS調査研究委員会(親委員会)(01.11.27開催)。JIS改訂の考え方公開レビューの御案内(02.01.15 財団法人日本規格協会符号化文字集合調査研究委員会委員長・樺島忠夫)。

  • 1月16日 丸川哲史「賈樟柯『プラットホーム(站台)』を観て――絶望の虚妄なること……」〔學燈社刊『國文學』2002年2月号所収〕。【〔…〕1979年という年は、ポスト文革に向けて中国(人)が始動し始めた、希望と不安が入り混じる複雑な心理状態を印象付ける標識】であり映画の【〔…〕舞台が、文革が終結した1978年の翌年、1979年から始まっていること】への注意を喚起する丸川は【〔…〕紛れもなく『プラットホーム』は、ポスト天安門事件(いわゆる第二次天安門事件〔1989〕)に属するフィルム以外ではあり得ないのである。それは何よりも、『プラットホーム』に漂う著しい「希望の無さ」である。〔……〕しかしこの「希望の無さ」にこそ、広義の意味での中国知識人の「らしさ」が表現されていると言えるのではないか。かつて日本の知識人の一部は、中国のナショナリズム(あるいは社会主義)に希望を見出し、そして絶望した。しかし、その絶望された中国の知識人自体は、その絶望とは全く無関係に生き続けなければならなかった。絶望する身振り自体が贅沢なものであり、またそういった絶望こそ虚妄なものであることを知ること無しに中国の知識人は生きられない。〔……〕絶望する身振り自体が虚妄だと示す、そのような身振りとは、例えば前作『一瞬の夢』から引き継がれている主演役者、王宏偉の演技に結晶化されているように思われる。王の演技に特徴的なのは、その表情が極端なまでに抑制的であることだ。〔……〕『プラットホーム』から『一瞬の夢』へと向う道筋とは、1989年までの幻想として機能し続けたポスト文革の希望的観測の途絶の深化をこそ表現するものとなっている。〔……〕新たな「階級分化」の経験である。これこそ賈樟柯のフィルムが、月並みな文化批評によっては捉えられない根本的な由来だと思われる。有り態に言ってしまえば、賈のフィルムは、1980年代から1990年代にかけて、あからさまな事実として中国社会が「階級分化」した事実を捉えている。〔……〕表現を奪われたあの王宏偉の木偶ノ坊のような表情こそ、階級的屈辱そのもの、つまり階級的な概念に訴える以前の原風景としての「プロレタリアート」の表情に他ならない。〔……〕……絶望の虚妄なること、まさしく希望と同じ。/魯迅が、ハンガリーの愛国詩人であるペトフィ・サンドルから引き継いだ「構え」である。王(小武)は、スリで捕まった。そしてまた、スリで捕まるだろう。彼には、反省(絶望)しているヒマなどないのだ。】と指摘し、【〔…〕『プラットホーム』というフィルムが、その叙述の形式としてふんだんに青春のノスタルジーを投影しているにもかかわらず、ノスタルジー一般の甘さに堕していないのは、これらのフィルムが街中に遺されたままになっている過剰な「現実」を抱えこんでいるからなのだ。そういった地方都市の中に抱えこまれた記憶の痕跡とともに生き続けようとするフィルムの意志――それは、あの王宏偉の表情が、様々な過剰な感情を抱えこんだために無表情になっている事態とどこかで通じていることなのだ。そしてここにこそ、決して打ち消されることのない中国人性がある。】とむすんでいる。