7月31日 承前、中岡哲郎「労働・近代・技術」(聞き手・柿原泰)。戸坂潤の科学と哲学にふれて【…科学というのは、もともとは哲学であってガリレオでもニュートンでも自分は哲学者だと考えていたわけですね。哲学が問題にしていたことは観念論であっても唯物論であっても、結局、共通している。それはつまり、世界とは何か、人間とは何か、そのエッセンスとしての精神とは何かということです。……科学とは何かを問おうとすると、どうしても人間の精神的な活動を対象化する作業に入らざるを得ない。】と指摘する中岡は【唯物論が本当に哲学になるためには、唯物論的立場から本格的に精神を問う必要がある。それは物質が何故、自己認識できるのか、物質が発展して行って、最後には自分自身の運動法則を認識できるようになるのは何故なのか、という問いの形を取るだろう。それはカントやヘーゲルが観念論の側から考えようとした問題を唯物論の側から考える仕事になるだろう。少なくとも唯物論を名乗る科学論はそこまで行き着く必要がある。戸坂は獄中で空間論を書いていたといわれますが、空間論の戸坂を発展させて行けば自然にそういう作業に行き着くのではないか。それは、認知科学、生態学、人類学などの成果も取り入れた、比較的科学的な作業となるだろう。そういう作業を通して、もう一度科学を哲学の世界に取り戻す、全体知、とすることができるのではないかというようなことを、これは戸坂論に書かなかった部分ですが、当時考えていました。】と提起している。
7月30日 『現代思想』2001年8月号が「サイエンス・スタディーズ」を特集し、中岡哲郎「労働・近代・技術」(聞き手・柿原泰)。中岡は【土法というのはつまり農民が自分たちの手持ちの技術と材料を使って今ある状態のところから工業化を始めること……もう一方では洋法つまり西洋技術も否定しないで最先端の工場を作って工業化を追求することもやる。】という【毛沢東の二本足の工業化】の視点から日本の工業化を比較検討している。【日本は一本足という認識はとんでもない誤りで、毛沢東の中国よりも日本の明治以降の方がもっと模範的な二本足の工業化だった】と指摘する中岡は、厳マニュ論争にふれて【あの論争はある意味では事実を非常に良く捉えていた論争】であり、【…製糸業が工場制段階に入っているとき、織物業は問屋制家内工業の下にある。その上に、紡績業に眼を向ければ一八九〇年代には既に機械制大工業の段階に入っていたわけです。だから全部を一まとめにして、公式を公式的に適用して、いつが日本経済の厳密な意味のマニュファクチュア段階であったかと問えば、回答は出なくて当然なのです。/もっと冷静に見て、明治の日本の発展は二つの流れからなっていた、一つは江戸時代以来の在来産業基盤が、世界経済と西欧の影響を受けて開始した発展の流れであり、もう一つは、そうした自生的な発展とは別に、一九世紀西欧の産業をそのまま日本に移植して定着させようとする努力の流れだと捉えれば、問題は自ずと解きほぐれたはずです。……/ところが不幸なことに、戦前の学者には、紡績業が機械制大工業の段階に達しているのに、膨大な零細織物業がまだ問屋制の支配の下に置かれているという資本主義は、例外的な資本主義であり、歪んだ発展形態だと考えられ、零細織物業の大群は日本の後進性のシンボルとされた。……しかし、それは日本の工業化の中の最も民衆の日常に近い部分から起こった正真の発展なのであり、毛沢東が土法の名で夢見ていたものと、実は近かった部分なんです。】として、【一方は一八世紀のイギリスに起こった工業化と非常に似た形で在来的要素を含みこんだ発展、他方は一九世紀中頃のヨーロッパをモデルにして全く洋式の工場をもってきて日本の低賃金の基盤でそれを動かして発展させる。日本のインテリは後者の方のみに関心を注いで、日本がどこまで先進国に追いついたか測定してきたけれど、客観的に判定してみたら、日本の経済の大部分を支えていたのは、少なくとも明治時代は前者の流れなんです。】と指摘している。
7月29日 『実話時代』2001年9月号(メディアボーイ)に、三代目侠道会本部長・森田健介「新世紀K-1バトル宣言」。【…ヤクザは裁判官から、しばしば“差別判決”を言い渡されています。四代目工藤會・上高謙一組長への恐喝未遂事件しかり、二代目清勇会・川口和秀会長のキャッツアイ事件しかり、山健組・桑田兼吉組長の短銃共同所持容疑事件しかり……。……/要するに、国や警察庁、裁判所は、ヤクザがやることだったら、何でもかんでも“悪いこと”にしたいんですよ。「ヤクザに対してはどんな人権も与えたくない」ということなんです。/そうやって、ヤクザはどんどん社会での権利や発言力を奪われ、ますます“日陰者”にされています。その結果、社会はどうなったかといえば、人をいきなり刺し殺してしまうような、どうしようもない若者が増えてしまっている。/彼らは反社会的な性格を持った“ワル”です。学校では持て余され、会社にも勤められず、社会の中に居場所がない。そういうワルは、昔は親自らがヤクザの組に連れて来て、「どうにもならんバカですので、ぶん殴るなりなんなりして、そちらで人の道を教えてやってください」と頼みにきたもんです。かく言う私も、かつてそういう“どうにもならん大バカな若者”でしたからよくわかります。/しかし、ヤクザを人間として認めず、差別して、そのすべてを否定するような今の時代では、ヤクザが大バカ者を教育することもままならない。いきおい、大バカな若者は大バカなまま成長し、やがて無法の限りを尽くすギャングとなり、カタギの人から、奪い、殴り、殺すようになる――。そういう意味では、今のような時代を作ったのは、国家であり政府である、とも言えるわけです。】。
7月28日 ▼毎日Interactive 7月27日付が「小泉首相発言:「こじきでも」でホームレスの団体が抗議」として【小泉純一郎首相が「(日本では)こじきでも字が読める。新聞読んでいる。ホームレスでも」などと発言した問題で、東京都内のホームレスの団体が27日、国会周辺で抗議行動を行い「差別発言だ。社会の底辺で生きる人間の痛みを考えろ」などと訴えた。/女性を含め約40人のホームレスとその支援者は午後1時半過ぎ、東京永田町の首相官邸前に姿を見せた。一団は「官邸前では騒がないように」と警察から命じられたため、約100メートルほど移動。国会議事堂の裏手でシュプレヒコールを繰り返し、小泉首相の謝罪を求める抗議文を読み上げた。「新宿野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議」の笠井和明さん(39)は「小泉さんは、リストラなどでこうした境遇にいる人の気持ちを理解すべきだ」と話した。……】と報じている。▼レイバーネット日本のページ、「反世界化デモに銃を抜いた! [ローマの活動家、G8会談反対デモで警察の銃で撃たれて死亡]」は、【現在G8(西側先進7か国+ロシア)首脳会談が開かれているイタリアのジェノバでは、昨日からこの会議に反対する激烈な反世界化暴力デモが行われ、デモの過程で数百名のデモ隊が負傷する等、死傷者が続出している……】と画像付きで報じている。〔関連〕→フランスの市民団体ATTACの声明「イタリア警察の責任、ジェノヴァの事件が示したG8の姿を糾弾する」〔毛利嘉孝さんのページ、01.07.29追記〕
7月27日 承前、野村保惠「これが、「出版業界初の提言!」なのでしょうか」。【原稿整理にコンピュータを使うことは悪いことではありません。しかし、コンピュータに何をしろと命令をするのが編集者の仕事です。コンピュータはあくまでも補助作業者です。……大切なことは編集者がジックリ原稿を読むことであり、できるだけ完全原稿に近いものとして印刷所に渡すことです。原稿整理をキチンとすることです。……編集者・校正者も「素読み」のできる能力、原稿の問題点に気付く能力が要求されていますが、その教育は大変難しいと申しておきましょう。私はこれからの本づくりで大切な能力は、「素読み能力・字体に関する知識・組版ルール」の三点だと強調しております。/コンピュータを使うことが目的ではありません。良い本をできるだけ低い定価で読者に提供するのが出版社の使命であり、良心ではないでしょうか。コンピュータで手間が省ける部分についてはどしどし利用すべきです。しかし、それ以外の部分の方が大きいのではないでしょうか。/本の内容からいえば、出版社内部の編集者が行うべき作業が中心になっていると思います。著者にこんなことまで要求するのは大間違いです。コンピュータおたくの著者なら、逆にこんなことは先刻ご承知でしょう。】と指摘する野村は【結論は、ご自分の知っていらっしゃることは、自分だけが知っており他人は知らないだろうと思い上がられているようです。/皆さん先刻ご承知のことを臆面もなく「初の提言」とは恥ずかしいですね。こんなことで「出版不況」をうち破る可能性をもっているとは、到底信じられません。/お名前は売れたでしょうが、心有る人たちには顰蹙を買っています。もっとも『顰蹙』を買えと自社の編集者に教えている新進出版社の経営者がいらっしゃる世の中ですから、そういう効果も期待されていたのかも知れません。/『出版はこころざしの業である』といわれた方が昔いらっしゃいました。】とむすんでいる。
7月26日 このほど“グラフィックデザイン批評誌”として創刊された季刊『d/SIGN』no.1(責任編集:戸田ツトム、鈴木一誌、入澤美時、2001年8月、筑波出版会、発売:丸善出版事業部)が「紙的思考」を特集。『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』書評として、野村保惠「これが、「出版業界初の提言!」なのでしょうか」。【…周知の事実を「出版業界初の提言!」と銘打って大々的に宣伝する内容ではないことは確かです。/出版業界ではすでに公知の事実を、自分が知らなかったからといまさらのように「大発見」されても困ります。コロンブスのアメリカ大発見は、すでにアメリカ大陸には人間が住んでいましたから、言葉の魔術です。ヨーロッパにとっての大発見であり、この本を書かれた方は、本づくりの現場・現実を知らない人種に属されています。/我々原住民は、とうの昔からFD入稿と取り組んでおり、いまさら「出版業界初の提言!」といわれるとどこの国のお話かとビックリいたしました。私のような者ですら、1995年に自著『<電算植字>本づくり入門』でFD上で編集者と散々やり取りし完全原稿として、コマンドまで入れてデータ入稿しました。それにも拘わらず、精興社の現場に組版ルール無視の目茶苦茶な校正を出されて痛い目にあっております。/パソコンをいじって駆け出しの編集者が、コンピュータはこんなことができると感激している図でしょうか。25年も編集者をやってお書きになる本がこのレベルかと思うと情けなくなります。原稿整理・原稿指定の基礎もご存知ないのではと疑いたくもなります。それとも、「他の編集者はこんなことを知らないだろう。私が教えてやる」と思われたのでしょうか。】とする野村は【もっとも基本的な問題点は、著者に何を求めるのか、編集者の役割は何か、です。/原稿整理を著者に押しつけて完璧な原稿整理ができるのでしょうか。それぞれの分業体制を確立することが大切ではありませんか。著者のいちばんの仕事は、原稿を書くことです。よい原稿を書くことです。その際、ワープロなりパソコンを使っているのであれば、その電子データをいただくことは当然です。そこでは最小限度のしばりだけで良く, 原稿執筆に専念していただくべきでしょう。/あとの原稿整理は編集者の仕事です。編集者のやるべきことを著者に押しつけることは、人件費を著者に付け回ししていることではありませんか。それで原価が下がったと思うのは、素人の出版経営者です。…】と書いている。
7月24日 すが秀実『「帝国」の文学 戦争と「大逆」の間』2001年7月、以文社。【われわれはいまだに漱石、独歩、藤村以降の「国民文学」のパラダイムのなかに生きている。しかし同時に、その「国民文学」のパラダイムは、「国民」〔ルビ:ネイション〕概念が日常的にも理論的にも必然的に脱構築されつつある今日、機能の失調をきたしはじめてもいる。文学にとって日露戦争(後)とはいったい何であったのかが問われねばならない理由も、そこにある。】として【啄木が喝破したように、そして本書が――今日なお支配的ではある――啄木的コンテクストとは異なったレヴェルから論じてきたように、「大逆」事件は、「父殺し」に憑かれた日露戦後の文学の帰趨にほかならなかったのである。】と断じるすがは、【漱石を日露戦争後の「帝国」の時代にふさわしい、今日においても再建されるべきナショナリズムにとって、理念型たりうる「保守的」な作家とみるか、「帝国」への批判的まなざしを内包した、現今のポストコロニアル的状況にとっても有意義な「進歩的」な文学者と捉えるかは、今や「国民(文学)」をめぐるヘゲモニー闘争における潜在的な一主題を形成している。】と提起し、【両者はともに漱石と「その時代」という物語〔ルビ:ナラティヴ〕を採用しながらも、「大逆」事件への言及はおこなわないのである。そのことが逆に、今日もなお、「大逆」事件が日本文学における乗り越えがたいアポリアとして存在していることを、証明しているといえよう。】と指摘している。さらに幸徳・管野と漱石の【…分析から明確に知られることは、「修善寺の大患」が「大逆」事件の反復にほかならないという一事である。そして、それが作家としての漱石にとって決定的な体験であったことは、そこでえられたという「則天去私」なるものをどう評価するにせよ、その後の漱石作品を規定していったであろうことは、想像にかたくあるまい。もちろん、それはドストエフスキーを介して、文学的・美学的な「死」の体験として卓越化されようとしている。そして、そのことが漱石をして、「大逆」事件についてのリアルな思考を妨げているともいえよう。いうまでもなく、それを妨げているのは、「残酷な父」を否認する慈愛に満ちた父=天皇というイメージにほかならない。】【…『道草』においても、漱石が「大逆」事件において突き当たった問題は、再び反復されただけだということになろう。それは、明治期の「死すべき者」たる「王」への拝跪から、大正期の不死の身体をもった「王」への屈伏という、「則天去私」ともいうべき高次化をともなった反復であった。漱石にとっては、読む者をそのようなものへと誘うということは、日本でただひとりの「国民作家」にふさわしい旋回である。】と書いている。漱石を「世紀末の予言者」とする「ポスコロ」「カルスタ」の莫迦さかげんと胡散臭さを暴いて痛快!全文必読!
7月23日 吉本隆明『心とは何か 心的現象論入門』2001年6月、弓立社。植物と動物と人間の構成のあいだに進化の連続をみる三木成夫を【…この種の洞察は三木成夫を本質的意味でナチュラリズム(自然主義)の理念にみちびいています。…わたしは生半可なエコロジストから、ただ認識の退化とナチュラリズムを装った比喩主義しか感じたことはありません。だが、三木成夫はまったくそれらと類を絶しています。】と評する吉本は【この著者は内臓の発生と機能と動きを腸管系の植物神経に、感覚の作用を体壁系の動物神経に、はっきりと分けてむすびつけています。そして肺の呼吸作用が体壁系の筋肉や神経作用にむすびついている側面をもつこと、また腸管系の入口である口腔と出口である肛門の両端は、体壁系の感覚にむすびついて脳の働きに依存しているが、その両端を除くと脳とのむすびつきはぼやけてしまい、ただ肉体の奥のほうで厚ぼったく、ずしりとした無明の情感や情念のうごきにかかわっていることがわかります。この指摘と洞察は、とりわけわたしには眼から鱗がおちる気分でした。つまりわたしははじめて、長いあいだもやもや膜を隔てているようだった〈こころ〉とその働きがわかったとおもえたのです。/〈こころ〉とわたしたちが呼んでいるものは内臓のうごきとむすびつくことを第一義としたあるひとつの表出です。また知覚と呼んでいるものは感覚器官や、体壁系の筋肉や、神経のうごきと、脳の回路にむすびついた表出とみなせばよいわけです。わたしはこの著者からその示唆をうけとったとき、いままで文字以後の表現理論として展開してきたじぶんの言語の理念が、言語以前の音声や音声以前の身体的な動きのところまで、拡張できる見とおしが得られました。もちろん内臓系の〈こころ〉のうごきはわたしの定義している自己表出の根源であり、体壁系の感覚器官のはたらきは指示表出の根源をつくっています。】と書いている。
7月22日 『サンデー毎日』2001年7月29日号からの新連載・辺見庸「反時代のパンセ 第1回 裏切りの季節」。【「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向からはじまる。」】という自社55年体制発足の翌56年の丸山眞男の言葉をひきつつ【ジャーナリズムとは過去に学ばないものだ、という丸山の嘆息が聞こえてくる。二〇〇一年のジャーナリズムは、しかし、もっと学んでいない、と私は確信する。すなわち、このアフォリズムのとおりに、重大な過ちを繰り返しつつある。権力をチェックするのでなく、権力を翼賛する古くて新しい過ちを。解釈改憲も改憲そのものの動きも、いまや五六年当時とは比べものにならないくらいに拡大し、加速もしている。ジャーナリズムの抵抗の水位は、だが、戦後例を見ないほど低い。】とする辺見は、【…「転向」も「非転向」も廉恥もなく、裏切りもまた自他ともに感知されない。哀れといえば哀れ、惨めといえば、人としてこれほど惨めなことはない。激突などさらになく、論点も徐々に溶解し、無と化してしまう。表面、穏やかなこのなりゆきこそ、新しい時代のファシズムの特徴のひとつだと私は思う。……きょうびのこの国は、けだし、満目不気味な背理の風景ばかりではある。マスコミだけではない。政党が党員を、労働組合が組合員を、宗教団体が宗徒を、教員が生徒を、司法が憲法を、弁護士が被告人を、言葉が現実を、歴史学者が歴史を、哲学者が自身を、それと意識せずに裏切りつづけ、かと思えば、関係が転倒し、逆に裏切られつづけてもいる。】と書いている。
7月21日 正高信男『子どもはことばをからだで覚える メロディから意味の世界へ』2001年4月、中公新書。【乳幼児の行動を観察し、実験を行った結果……言語の習得とは、子どもにとって身体全体を巻き込んでなされる営みなのだ】として、【にもかかわらず、いったん自由にあやつれるようになるや、ことばを用いることが「理性的」かつ「主知的」な営為であるとみなされるのは、何とも不可思議……どうして、言語の身体的側面はこうまでも軽視されるようになったのだろうか?】と問う正高は、【…ことばというものを、産出した者とひとまず切り離されたテキストとして扱う傾向がきわめて強かったことが、大きくかかわっているように思えてならない。…「ヒトはことばを持った動物である」とは、すなわち遺産としてのテキストを継承できる存在と結びつけられたのだった。とりわけ歴史のなかで、権力が誕生したとき、テキストとしての言語は、いったん確立した支配−被支配の関係の長期維持にうってつけの手段であることが判明した。現在に残る古来の口承伝承とは、往々にして、支配者(あるいは支配層)が被支配層へ自身の正当性を語るものであるのは決して偶然ではない。】とこたえ、【産業構造の大規模な転換は、知的世界においても古典というものの地位の相対的低下をもたらした。過去から受け継いできたテキストの忠実な解読のための技法にも、さほど注意が払われなくなった。知的営為の大衆化によって、洗練されたエリート層の言語だけがどうして「正しい」ことばでなくてはならないのかという疑問が生じてくるのは、不可避であった。…linguistics の世界では、人々が使用している言語に「正しい」ものと「誤った」もの、「美しい」ものと「そうでない」ものの区別は存在しない。どういう体系であれ、人々が用いている以上、言語としては平等に扱われるようになったのだった。】と書いている。
7月20日 ▼ビル・トッテンのページに、ウィリアム・パフ「公益事業の民営化は悲劇につながる」(『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙2001年2月22日)、ウィル・ハットン「世界的な携帯電話の動きから読み取るべき警告」(『オブザーバー』紙、2001年4月22日)。▼JCJのページ(リレー時評)に、吉原功「危険な「情報の治安維持法」固め」(2001年7月20日)。人権擁護推進審議会が5月25日に提出した「人権救済制度の在り方についての答申」を批判し【…メディア規制が急浮上し、「個人情報保護法案」「青少年社会環境対策基本法案」と3点セットになって全面的な言論統制構想の一翼を構成する内容が秘められている。/メディアによる常軌を逸した取材や報道、プライバシーの侵害が多発するなかで、メディアに対する市民の目も厳しい。それを逆手にとっての規制案である。一昨年10月、審議会が日本新聞協会にヒヤリングへの出席を求めた際に法務省担当者が発言したという言葉が、この構想の本質を表明している。「行政命令によって記事を差し止めることなども視野に入れて検討したい」。明らかに憲法違反の検閲を法務官僚が口にしたのである。各方面からの激しい抗議で撤回されたとされているが、「発言」が撤回されただけで「意図」が明白に否定されたことはない。】とする吉原は【1999年、保守勢力は日米ガイドライン関連法、改正住民基本台帳法、盗聴法、国旗国歌法という戦後の野望を一気に、ほとんどの国民が知らぬ間に法制化した。3点セットは、「情報の治安維持法」と呼ばれる99年諸法の内実を固める意味をもっている。教科書問題、教育基本法の改正、集団的自衛権、有事法制、憲法改正なども同じ枠組みのなかにあるだろう。】と指摘している。
7月19日 『The Incidents』のページに、寺澤有「「知りすぎた男」が実名で告発する警視庁の裏ガネ」(2001年7月19日付、FRIDAY』(講談社)2001年8月3日号に加筆)。【警察庁と警視庁にとっては、もっとも望まない展開と言えるだろう。「警視庁警備部が機動隊の旅費を操作し、年間12億円もの裏ガネを捻出している」と内部告発した、「警視庁の経理に精通しているX氏」が堂々と名乗り出た。その正体は警視庁で会計一筋18年の元職員・大内顕(おおうち・あきら)氏(43)。しかも、大内氏は実名で告発するばかりか、警視庁の裏ガネに関して、会計検査院へ審査を要求した。】【退職直後、大内氏は脳出血で2週間入院し、「死が身近に感じられた」と言う。/そして、大内氏は「自分は個人的な問題で職を追われたが、不正経理という組織的な犯罪を行っている者たちはドンドン出世している。このような警察の在り方でよいのか。また、自分が知っている不正経理の詳細は、『組織の秘密は墓場まで持っていく』という警察の身勝手な論理により、納税者である国民へ知らせなくてもよいのか」と思い悩み、「警視庁内部で『コイツに気をつけろ』と顔写真が出回っている寺澤さん(筆者)へ電子メールを送った」と話す。/さらに、今回、大内氏は自らの希望で、実名、顔写真入りの登場となった。/「私はこれまで匿名の『X氏』として内部告発を行ってきました。しかし、警視庁は『機動隊の旅費は適正に執行している』と木で鼻をくくったような対応です。『X氏』として発言するだけでは、真相はうやむやにされてしまいます。そこで、私が実名、顔写真入りで登場すれば、警視庁もシラを切り通せないだろうと考えたのです」(大内氏)】。
7月18日 帝国データバンク(倒産速報&集計)のページに「全国企業倒産集計2001年6月報」。【倒産1563件、3カ月連続の前年同月比増加/負債6907億2700万円、6月としては戦後4番目の高水準】として集計内容が示されたうえで、【…破産(321件、前年同月比30.5%増)は18カ月連続の前年同月比増加となったうえ、前月(331件)に次いで過去2番目を記録した。……不況型倒産の構成比は76.8%(前月76.9%、前年同月74.4%)に達し、99年8月(72.5%)以降23カ月連続して70%を上回るとともに、2カ月連続して76%台の高水準となった。】などと特徴を挙げている。
7月17日 救援連絡センターのページ(事務局ひとり言)が、沖縄県北谷町で起きた米兵による女性強姦事件をめぐる米兵の身元引き渡し問題について書いている(7月7日)。【逮捕状がでてから5日目で逮捕となったのは、アメリカ側が「容疑を否認している本人の人権を守る必要がある」「軍の規律を乱したくない」などが理由とされ、また、日本では被疑者の人権があまり守られてないとの懸念などがあったからとされています。/警察庁幹部は「米国人だろうが、軍人だろうがどんな容疑者でも同じに扱う」と一見毅然としたことを言っています。/ここには色々な問題があると思います。アメリカは、米兵に対して取り調べの際の通訳を要求するなど、いわば特別扱いを要求してきたわけです。それに対して、特別扱いはしないと日本側が応酬した構図になっています。とすると、これを機に、特別扱いを定めている日米地位協定自体の見直しが問題になってきますが、外務省幹部は「改定を提起するとアメリカ側から新たな要求がでかねない。容疑者拘束でアメリカと同等のものを求められ、国内法改正が必要になる可能性もある」と懸念しているようです。/日本における被疑者の人権は、例えば保釈が認められない、取り調べに弁護士が立ち会えない、代用監獄での23日間の長期勾留など、国際的にも批判されているところです。こうした問題は棚上げにしておけるものではありません。アメリカ側が懸念しているのも、理解できるとまでは言いませんが、話としてはわかります。ただ、根元的には基地の、そして軍隊の存在が今回の自体を引き起こしたわけで、そこを問わない限りでの「兵隊の人権」という議論は上滑りなばかりです。基地や軍隊は、人々の人権を踏みにじってきたのです。/基地を撤去し、軍隊をなくしていくと同時に、日本での被疑者の人権保障をはかっていく。それは同じ方向だと思います。】。
7月16日 7月9日公開になった字游工房のページのなかの「もじマガ」で、書体設計家インタビュー/文字の巨人(1)橋本和夫さん(インタビュー・構成:瀬川清)が始まった(次回は8月1日掲載予定)。【「僕には、タイプフェイスデザインの師匠で、先生と呼ぶ人が二人います。そのうちの一人が、素人の僕に一から手ほどきをしてくださった太佐源三先生です。太佐先生は大阪朝日新聞で活字書体のデザインをされた方と聞いています。……太佐先生から僕は、文字の画線をフリーハンドで描くことを教わりました。習いはじめは烏口や溝尺などは使わせてもらえなかったですね。明朝の『永』をフリーハンドで書くことを指示されました。この意味は、画線の力を入れるところや抜くところなどの動きを体得するためです。彫刻の活字は、彫刻刀を自由に動かして文字を彫るのですから、いわゆる生きた線の文字が生まれたのでしょう。手書きの線は、画線の動きを意識するためか、不思議に自然な線質になるものでした。このようにして線質を見分ける能力が開発されました。……文字の形や筆の動きの基本を学ぶには、中国古典の『欧陽殉・九成宮醴泉銘』の拓本を見なさいと、太佐先生はよくいわれていました。文字デザインを始めると、字形などをデザインするほかに、文字を評価することの能力も必要になってきます。この評価能力が高まらないと、結局、文字がわからないことになります。徐々に古典の筆跡を見る意味が理解できるようになり、文字を知るには書道も無視することはできないと考えて、書道(手習い)を始めたのもこのころでした。…」】。
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