2月15日 「DTP Class A」のページに、近藤信男「本日の一言(第九十一回)」(01年2月11日付)。【印刷会社の(デジタル)版下部門は、完全に消滅するかもしれない。/InDesignを使用していて、つくづくそう感じます。/私のような電算写植あがりは、「便利になったなぁ…、これでストレスなく、組版が行えるよなぁ…」などと感じるのですが、デザイナーさんは、どう感じられているのでしょう。/Illustratorのような自由度が、ルールによって制限されているように感じられているのでしょうか。/実は、この制限が重要で、制限がルールとなり、美しい組版が実現してしまうはずです。/美しい組版であると、まず、写研の写植機時代に携わっていたデザイナーの方々が感じ、逆にごく最近、DTP業界に入ってきた、QuarkXPressを使ってきた方々は、少し戸惑うかもしれません。/デザイナーの方々が感じる、戸惑いが無くなった時に、印刷会社の版下部門は崩壊してしまうのかもしれません。】と指摘する近藤は【自分がいつまでも職人であると信じ込もうとする方々は、私の回りには、非常に多いように思います。機械加工の職人が職人にしかできない領域の仕事をしているように、印刷会社にも、そのような領域は存在するのかもしれません。/しかし、それはごく一部の領域であり、現在の印刷業界で、そのような領域に頼るのは、危険です。/なぜならば、印刷は大量生産が目的だからです。ロケットの部品を造っているのではありません。プリプレスの知識もオープンになりつつあります。/プリプレス内の知識は流出し、その知識から新しいアイデアが生まれる…。そのような状態です。プリプレス内よりも、むしろ、表側で頑張っているデザイナー達の方が、私は恐いと感じています。】と書いている。
2月13日 JCJ(マスコミ批評)のページに、亀井淳「石原新党、背後に中曾根元首相の影」(2001.2.1)。【石原待望の背景には、だらだらと続く森無能政権へのいら立ちや、悪化する経済、世相への不安などがあるが、もうひとつ、大衆の危機意識を海外に向けさせる石原一流の扇動がある。/「週刊宝石」(1・11/18)のインタビューで彼は北朝鮮、中国の“脅威”を説き、同時に「アメリカ依存、他力本願から抜け出」せと主張する。そういっておきながら、アメリカ新政権が日本に求めるであろう新たな軍事的協力に対して、日本が「馬鹿げた憲法論議など」で反発したら、「日米関係はいまよりもっと本質的な形で危機を迎える」と脅す。/石原知事は「ブッシュ政権の中枢に人脈がある」と得意そうに語る。今後彼は米新政権にとっての、“もうひとつの日本政府”として振る舞うつもりかもしれない。/「石原新党」の話は、7月の参院選で自民党が「大惨敗」し、連立3党でも「過半数割れ必至」という予測と密接にからんでいる。/「週刊朝日」(1/19)の対談で福岡政行氏は、「(石原)知事の都市新党ができたら比例区で一千万票近く取る」と予想。/森田実氏は、「石原新党の話の背後に中曽根康弘元首相の影」を見ている。「改憲」を旗印に、小沢一郎、鳩山由紀夫氏らも糾合する「保守勢力の総括集」というシナリオがあるのだそうだ。12月11日の夕刻、中曽根氏は「ひょっこり」都庁を訪ねて、知事と1時間会談している。それを詳しく「週刊読売」(1・21)に書いているのは、読売新聞社会部の記者である。「週刊読売」のその号は石原知事を表紙に掲げ、「首相公選」をテーマにした特集を2本も組んでいるが、いずれも“主役”は慎太郎氏だ。/ナベツネ(読売社長)、中曽根、慎太郎の“改憲=軍国化枢軸”ができているという説もある。】。
2月12日 『朝日新聞』2001年2月12日付に、「5000〜7000のうち2500の言語『絶滅』の危機、国連環境計画で報告、グローバル化が背景(ナイロビ11日=江木慎吾)」。【グローバリゼーションによって、二千五百以上の言語が「絶滅」の危機にさらされていることが、ナイロビで九日まで開かれた国連環境計画(UNEP)の閣僚級環境フォーラムで報告された。……/言語の数については、分類の仕方によって様々なとらえ方があるとされるが、この報告は世界中の言語を五千から七千とみている。/千五百以上の言語が、千人以下の担い手しかいない状況。五百五十三言語については、話し手が百人以下になっている。報告はすでに二百三十四の言語が失われたとしている。/グローバリゼーションによって人々が画一的な、西欧化された生活を営むようになったことが、自然や伝統文化とのつながりを稀薄にし、密接につながっていた言語を危機に陥れているとUNEPはみている。】。
2月11日 EMSJ研究の小箱のページに、ましこひでのり「社会学部唯野教授たちの生態」(1)00/12/16(2)00/12/29(3)01/01/15(4)01/01/27(5)01/02/08〔03.01.09リンク変更を訂正〕。【3.自称「正義の味方」たち(その1)】でましこは指摘している。【研究者のなかには、女性やコドモなど、非主流派集団を研究するのが、実はかっこいいという、学界主流にのりそこねた層のねじれた優越感があります。権力をにぎれたのに、あえてにぎらず、弱者のがわにたっているという自己意識です。……それは自己欺瞞であり、劣等感を抑圧するための防衛機制にすぎません。……たとえば、マイナーな言語(地域外で通じない「方言」などもはいります)などの話者は、「継承されないかもしれない貴重なデータをぜひ後世にのこしたい」などと、大学人にささやかれると、「そうだ、自分たちのことばはきえていってしまう運命で風前のともしびだ。この先生に、しっかり記録しておいてもらおう」といった納得をさせられてしまうわけです。/これは一見、マイナーな文化にこころをよせる、崇高な理念のもちぬしにみえますが、実は、植物採集者や狩猟者と大差ない連中であることがすくなくありません。極端なはなし、古老から言語データを収集しおえて、ノートに記載したり、録音が完了すれば、あとはしずかに息をひきとってほしい、とねがっていると、うたがって、まちがいありません。なぜなら「先生のこの分析は、ちがうような気がする」といった批判をしはじめる危険性をもっているからです。理念的には、古老など情報提供者は「神様」なはずなので、その意見を虚心にうけとめるべきなのですが、実際には、データの収録がおわれば、その分析処理は、大学人の権益になってしまいその結果うみだされた学術刊行物は権威となります。そういった権威の象徴をもって任ずる連中は、「情報提供者は、もっともふかく記憶し実践しているが、全体像を客観的に把握できてはいない。その意味で、収集者の自分たちが、もっとも客観的に全体把握ができている」という信念をもっているのです。……注意すべきことは、少数言語を研究する主体が、それをこどものころから実際にしゃべってきた現地出身者ではなくて、有力言語や首都方言などを日常的にしゃべってきた人物であり、しかも、特権的な大学を修了するなど、エリートが大半だという事実です。……もともと、少数言語研究というのは、メジャーな言語研究とちがって、メシのタネにすることが困難な領域です。したがって、出身がどこからみてもエリートそのもので、学歴もピカピカといった人物が「なにをちまよったか、マイナーな言語などにも、てをだした」という構造がほとんどなのです。つまり、特権をもつものが、特権を一部放棄して、超越的なたちばから、辺境地域にまいおりる、という、ヒロイズムが、そこにはあるのです。「メジャーな空間もあるけたのに、わざわざ、マイナーなことをやる奇特なひと」という、周囲の評価と、自己満足的な自負といえます。だからこそ、現地出身者など、通常出番がないのも当然です。そして、だからこそ、少数言語研究のおおくは、現地のひとびとの日常生活とか近未来とへの責任感がかけた、収集のための収集になりがちです。……現地に何度も何度もあしをはこび、そこに長期間すみこみ、ひとびととしたしくつきあう。ときには、現地にねをはやして、結婚し、大都市での栄達などどうでもよくなってしまう、といった研究者もマレにいるようですが、あくまで例外的です。少数言語の復権、復活に熱心にとりくむ研究者も少数派です。当然ですね。/これは、言語研究のような領域だけでなく、差別問題にとりくむ研究者についても、あてはまります。…】。
2月10日 『文學界』2001年3月号に、【「敗者」から日本近代を読み変える――『内田魯庵山脈』が描く「月の文明」、山口昌男インタビュー】。【普通、明治の人物を扱うと「父よあなたは強かった」式になってしまいがちです。内田魯庵という語り部を登場させることによって、大正という時代の面白さを大きく伝えられると思ったからです。私は「淡島文明」と今、名づけるのですが、世に隠れて太陽に対する月のごとくに、近代日本の夜の世界を照らしていたというかんじで「淡島文明」というのがあるのではないか。】という山口は【とにかく断簡零墨、雑誌のはじっこまで見るんだけど、どうしても薩長を中心にした日本の近代を作ったものの方が、圧倒的に活字になっているわけですよ。文字っていうのは、要するにフェアーなものであると言われますけど、やはり文字には選択が働いているということです。そして、文字になったものが残るかどうかという場面でも、選択が働いている。同じことは、デジタル化するコストを考えると、インターネットでも将来起ってくるという可能性があります。どんな面で現れるかは別としてね。というのは、われわれの持っているコミュニケーションの材料のすべてがデジタル化され得るわけではないからね。とにかく、文字の世界に徹底的にこだわって、文字の世界で起ったことを考えてみようとしたんです。】と述べている。
2月9日 生田武志「シモーヌ・ヴェイユのために」〔『群像』2001年3月号〕。【ぼく個人は、下請け構造の最下層で、日雇労働者が日本経済の景気の安全弁として使い捨てされている状況に、そしてそれがその他の労働者、市民、そして行政から無視され、放置されていることに二十一の頃から問題を感じていた。そして日雇・失業・野宿・行路死という形態が、社会の圧倒的多数の立場から様々な形で不当な差別、偏見を受け続けているのに絶望し続けていた。】という生田は、【…いわゆる下層労働者の反失業闘争への連帯から始まった彼女の社会正義への闘争は、そもそもアナルコ・サンディカリズムに近い共産主義者としての行為であって、資本主義への闘争を意味するものだった。彼女にとっての正義は、最終的に「隣人愛」という「愛の狂気」へと集約されていったが、資本主義への闘争が正義にとって不要であるわけではない。例えば、現在進行形の日雇労働者の総失業、総野宿生活化(そして一部の生活保護化)の最大の原因は、高齢化し、相対的に賃金が上昇してきた日雇労働者を、景気後退にあわせて資本が一気に就労から切り捨てたためである。一言で言えば使い捨てである。資本は、景気の安全弁としての下請け構造の末端を、日雇労働から別の不安定就労形態、例えば派遣労働者や相対的に若年で低賃金なフリーター層などへと移動しようとしている(…)。その意味では、寄せ場にかかわる者は、このままであれば資本の軸足移動の後始末を強いられ続けることになる。つまり、社会的距離の新たな発現と関係の創造と同時に、資本への抵抗は依然不可欠なのだ。こうして、我々はシモーヌ・ヴェイユがシモーヌ・ヴェイユとなった工場体験以降の「聖女」としての彼女ではなく、むしろそれ以前の俗人である活動家としての彼女に共感する。】と書いている。
2月8日 Web現代(編集者の学校/連続インタビュー取材する側の技術)のページに、吉岡忍「予備知識を抜いて現場に行け」(その1)(その2)。【取材者は器だというのは、ある意味ではなにが入ってきても、驚かないということです。しかし、大変なのはそのあとです。事件の意味、事件を起こした青年や少年少女が生きてきた軌跡の奥の奥まで踏み込もうとしたら、捜査当局者やそこらの精神医学の専門家などでは理解できないところまで考えなければならない。ぼくらは器だけれど、器に入れたものを練ったり造形して考え抜くのは、またぼくら自身でもある。】と語る吉岡は【…ぼくは、だから悪い人間を悪く書くことができないんです。今度出した『M/世界の、憂鬱な先端』(文藝春秋社)では幼女連続誘拐殺害事件の宮崎勤や酒鬼薔薇少年のことを書いていますが、彼らをいかにも悪い人物だったとは書いていません。あれは必然だったと思っています。/それは彼らの内部における必然だけではなくて、当時の消費文化もふくめた社会環境から言っても、ああいう事件が起きたのは必然だったと思う。人間というのは謎が多くて複雑なものだから、いろいろなものが複合的に重なり合うことによって宮崎勤が宮崎勤になっていく。/それは彼だけの責任ではなくてね、彼という人間をつくったのは当時の文化でもあるし、当時の教育でもあるし、当時の地域社会でもある。もっと言えば、戦後日本の歴史のすべてが彼らにおおいかぶさっている。事件のそのような全体を見るのは、すごく大変なことだけれど、それをやらずに事件の概略をまとめるだけだったら、結局は何かを書いて伝えたことにはならないだろうと思うんです。】と述べている。関連読書録:2001年1月10日付。
2月7日 INTERNET Watch連載中の「小形克宏の『文字の海、ビットの舟』―― 文字コードが私たちに問いかけるもの」。“第3部 JIS X 0213は世界になにを発信したのか?”。第1回 情報部会での反対は“コップの中の嵐”ではない(2001年1月24日)、第2回 日本IBMが、0213原案に反対をした理由(1)(1月31日)、第3回 日本IBMが、0213原案に反対をした理由(2)(2月7日)。
2月6日 『文藝別冊 赤軍1969→2001』2001年1月、河出書房新社、にインタビュー植垣康博「連合赤軍事件の核心とは何か?」。【連赤問題のあとで組織というものを改めて考えられるようになった。連赤問題がなかったらそういう問題をもっと大きい日本の運動全体のレベルからとらえなおすという方向はでてこなかったんじゃないか、と思います。ソ連がなくなったことによって、左翼が崩壊するというように国外の動きで運動が変化するのと、国内の運動自身がもっている問題で運動が変化するのとは意味が全然違うことだと思う。そこに僕らの経験の重要性があるんじゃないか。経験があるから考えていく基盤ができる。国外の運動をとらえてあれこれ議論してもそこからは結局、外国の物まねが生まれてくるだけです。日本の左翼運動はコミンテルンの指導を受けて日本共産党が結成されて以来、それだったんですが、その歴史を考えた時、日本人自身の経験からうまれる革命運動というのはいろんな失敗や過ちをおかしながらはじめてみえてくるんじゃないのかな。それが連赤問題の本質であり僕の立ち直りの基盤なんです。】という植垣は、日本赤軍について問われて【…テルアビブの闘いが、連赤の過ちをのりこえるために闘われたという、その気持ちはよくわかるんだけど、それは必ずしも国内の運動に役にたったとはいえないんじゃないかな。気持ちはよくわかるんですよ。僕らが仲間殺しをして日本の革命運動に大打撃を与えたというのは確かですから。しかし国外の運動でそれを克服するということには必ずしもならない。それはやはり、大打撃を与えてしまった自分達自身で克服の方向をみつけるしかない。】と述べている。
2月5日 ビル・トッテンのページ(OurWorld)に、チャーリー・リース「憎悪の種がもたらす苦い果実」(2000年11月26日付『オーランド・センティネル』紙)。【ほとんどの米国人は、外交政策において米国政府がどんなに凶悪であるかを理解していない。昨年9月、スコットランドの新聞、『サンデー・ヘラルド』紙は、米国とその同盟国が故意にイラクの上水道を破壊し、さらにその後9年間、必要な装置や薬品の供給を断つことにより、上水道の修復を意図的に阻止していると報道した。/ジョージタウン大学のある教授は、米国防情報局が作成した7ページの文書を入手した。それにはイラクの水道網の弱点や、必要な装置や薬品を輸入に頼っていること、そしてそれを破壊すればどのような影響があるかについて書かれていた。/この記事はまったくもって正しく、米国と同盟国はイラクの上水道を破壊した。『サンデー・ヘラルド』紙によれば、8つの多目的ダムが繰り返し爆撃を受け、治水、生活用水および産業用水の貯蔵、灌漑用水、水力発電のためのインフラなどが破壊された。イラクの7つの主要な揚水基地のうち4つが破壊され、同様に31の生活用上下水道設備も破壊された。/その結果、腸チフス、赤痢、肝炎、コレラ、小児麻痺といった、汚水が媒介する病気によって数千人のイラク民間人が死亡した。……攻撃を受けた上水道網は、クウェートのイラク兵士に対する兵站や支援とは何の関係もないことから、これは故意にイラク民間人の生命や健康を脅かすことを狙った冷血な攻撃、すなわち戦争犯罪である。/法原則を持ち出したがる人々は、自分の政府が法律を遵守しているかどうかを顧みるべきだ。ユーゴスラビアの新大統領は、米国の本質を見透かしている。「ワシントンは、任意、不確実、自由裁量といった、法原則に反するものをすべて採用した」と彼はいう。……犠牲者が「自分たち以外」、すなわち外国人である限り、米国人のほとんどは彼らに何が行われたか気にしないようである。人々は、宗教の普遍的な教えを持ち出すことを嫌うが、自分の播いた種は自分で刈り取ることになる。米国政府は、米国の名のもとに、憎悪の種を播いている。そしていつの日か、我々はその憎悪の実を刈り取ることになる。それは苦い実になるであろう。】。
2月4日 宮内勝典「海亀通信」のページのなかの「海亀日記(日記と発言)」1月30日付。【少年犯罪がつづいている。/その理由を大人たちがいろいろ詮索(せんさく)してしているが、いちばん最初の原因は、大人たち自身の空洞化にあると思う。】と指摘する宮内は、【ぼくもおじさんの一人だが、同世代のおじさんたちと話していると、つくづく絶望する。会社のことやエッチなことに、ほんとんど話題が集中しているではないか。あとはプロ野球と、飲み屋と、競馬だろうか。/むろん、ぼくだってエッチなことには人並以上に大関心がある。イチローに、ぜひとも首位打者になってほしいと思っている。酒も毎晩飲んでいる。アルコールぬきでは眠れない。これまで、さんざん悪いこともしてきた。叩けば、もうもうとホコリが立つ。/だが、好奇心のへりが大体そこまでのおじさんたちには、ほんとうに退屈させられる。話をしていても、10分でうんざりしてくる。外部のこと、世界の動き、知的なことに、もう完全に関心を失っている。いつも不満たらたらのくせに、自分の人生や、世の中を1ミリでも変えていこうという意欲もない。そして、ものごとをシニカルに揶揄(やゆ)するばかり。/情けないが、そうしたおじさんたちの諦念を、だれも笑うことはできないだろう。現実の巨大さが、つくづく身にしみているからなのだ。みんな、リストラされまいと必死なのだ。会社から使い捨てられて、焼身自殺した中年男性の憤怒が、ぼくにも痛いほどわかる。だが自分のからだを燃やす前に、実存について自問したことが一度でもあったのだろうか。おそらく、会社=世界だったはずだ。】といって、【大人たちが、見事に、空っぽなのだ。森首相と同じぐらい未成熟で、空っぽなのだ。そこから、すべてが始まっている。そこが病理の始まりなのだ。空っぽのくせに、自尊心ばかり高くて、実存が満たされていない。そのルサンチマンや、欲求不満が、いま日本中にめらめらと渦巻いている。大人たちの無自覚なヒステリーや神経症が、子どもたちに感染しているのだ。少年犯罪と、ぼくたち大人たちは、たがいに鏡合わせに映っている。/大人たちが空洞化している。】と書いている。
2月3日 鈴木一誌+知恵蔵裁判を読む会編『知恵蔵裁判全記録』(2001年1月、太田出版)について、『図書新聞』2001年2月10日付に「『思想的事件』の全貌――インタビュー鈴木一誌氏に聞く」(聞き手・米田綱路)。鈴木は再販制とのかかわりについての問いに答えて次のように発言している。【文化という概念と再販制度は固く結びついているのですが、知恵蔵のフォーマットは実用的である、つまりは文化的ではないという理由で、敗訴の判決を書かれた側面があります。知恵蔵のフォーマットに対して、文化は排斥的に働いた。では、フォーマット・デザインを文化と認めさせたいかというと、そうでもないんです。実用的であるまま、存在を認めさせることばがないのか。文化だから守れ、とは違う論理が必要かもしれませんね。実用的でないフォーマット・デザインなど考えられません。……/知恵蔵裁判も、著作権是か非か高見から問うたわけではない。知恵蔵のフォーマット・デザインというスクリーンに写るかぎりの著作権を観察しようとした。同じように、横組み一般というものがあるわけではなくて、たとえば岩波書店の国語辞典の横組というあらわれが目の前に姿をあらわす。それに読者がどう対峙するかに視覚的な勝負があるわけで、その勝負を微細に見つめないといけないんでしょう。再販制度も、是か非かの議論もあるべきだが、具体的な事例に写し出して観察しなければならないのだと思う。是か非かの高所からの議論は、論者を不動の一点にする可能性がある。個々の問題の決着ではなく、動いていく自分という視点とそれに付随する文体の確保のほうがいまは重要に感じるんです。】。「文化を守れ!」という論調のあやしさに対してウザイんだよテメーらと毒づいていた私自身の憤激をことばにするとこういうことになるんだと納得!
2月2日 「人権・報道・インターネット」(情況に対して発言する)のページで、山下幸夫「不起訴事件について民事裁判で「有罪」認定をした事件から考える」(2001年1月26日)。【第174回国会で成立した「犯罪被害者等の保護を図るための刑事手続に付随する措置に関する法律」は、犯罪被害者が民事裁判で使用することができるように、刑事事件の訴訟記録の閲覧・謄写が認められるとともに、民事上の争いについて合意が成立した場合に、刑事事件の係属する裁判所に申し立てることによって、その合意を公判調書に記載することによって、民事裁判上の和解と同一の効力(強制執行をする効力)が認められるに至っている(…)。】として山下は【立法において、特に、被害者保護の分野において、双方の手続を同一次元で捉えていこうという動き】の顕在化に検討を加え、【いずれにしても、検察庁が不起訴処分にした事件につき、民事事件が起きて、検察庁の判断とは異なる判断がなされるという事態は今後も多く予想される事態ではある。被害者救済という観点から見ればこのような方向性は一見望ましいようにも思われるが、被疑者という観点から見れば、一旦嫌疑不十分で不起訴処分になったとしても、その後、公訴時効の期間が経過するまでの間は、いつ、再び捜査の対象にされ、場合によって身柄拘束をされたり、起訴されて被告の立場に立たされるか分からないという極めて不安定な地位に置かれることを果たして許容して良いかという問題がある。】と批判、【私が何よりも恐れるのは、民事事件と刑事事件が同一次元で捉えられ、双方の手続が交錯することが広く認められるようになることによって、刑事事件における厳格な証拠法則に基づく事実認定のあり方や、「疑わしきは被告人の利益に」といった近代刑事訴訟法の鉄則が弛緩させられはしないかという点である。……最近では、被害者救済の観点が全面に出過ぎて、従来保障されていた被疑者・被告人の権利自体を制限しようとする動きも出ているように思うが、そのような風潮とそれを利用して被疑者・被告人の権利を制約しようとする新たな立法策動の動きを注視しなければならない。】とむすんでいる。
2月1日 『朝日新聞』2001年1月31日付夕刊に間宮陽介「論壇時評/ナショナリズム論――国家を一枚岩とみなす歪み、文化本質論の“幻想”を指摘」。「Voice」2月号の特集「日本『百年の計』」をとりあげて間宮は【国家を一枚岩と見なす国家論はデモクラシー像にも大きな歪みをもたらしている、と私は思う。例えば小渕首相の私的諮問機関「21世紀日本の構想」懇談会はその最終報告のなかで、国家にとっての教育は一つの統治行為であり、「共通の言葉や文字を持たない国民に対して、国家は民主的な統治に参加する道を用意することはできない」、と断言している。なるほど共通の言葉や文字をもつ国民であれば「民主的な統治」は容易になるかもしれない。だが言葉や文字が違ってもデモクラシーは不可能ではないし、場合によっては従来のデモクラシーとは違う新しい形のデモクラシーを生む可能性もある。だいいち、言葉や文字が違うところ、またデモクラシーも不可能というのなら、グローバルな規模でデモクラシーを実現することなど、端から不可能ということになってしまうだろう。】と明確に断じている。
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