12月15日 家辺勝文「ウェブノート」のA batons rompus 12月14日付に『人文学と情報処理』(勉誠出版) No.24(1999年9月30日発行、特集・電脳東洋学)、No.25(1999年10月30日発行、特集・歴史学系データベースと文字コード)、次号(特集・文字コード論から文字論へ)の紹介記事のなかで家辺は重要な指摘をしている。【世の中で使われている文字はどれもコンピュータで扱えるようにしたい、という方向性はどの立場にも共通しているように見えるが、実はいくつかの異なる文字観が整理がつかないまま混在している。そのうち最も重要なものは、No.24 の巻頭言で山田崇仁氏が端的に述べている「漢字データベース」と「文字コード化」という目的性の違いだと思う。この二つの目的性の混同は「漢字データベース」の洗練という作業にとっても、「文字コード化」がもたらすデジタルテキストというユニークなメディアにとっても、決して生産的な結果はもたらさないだろう。「漢字データベース」として期待の高い「今昔文字鏡」が BTRON 仕様 OS「超漢字」の中でコード化されたことがどのような波及効果をもつかは、一つのテストケースになる。「超漢字」から、より小規模な文字セットのエンコーディングへの変換では、通常「文字鏡」として SGML/XML の文字実体参照に使える番号も保存されない。これは「文字コード化」のロジックからはある意味で当然である。しかし、「漢字データベース」のロジックからは致命的である。】
12月14日 レジス・ドブレ、嶋崎正樹 訳、西垣通 監修『メディオロジー宣言(レジスドブレ著作選1)』1999年10月、NTT出版。【キリスト教中世は宗教的表象によって、天の力(キリスト、聖母マリア)を人間化するとともに、地上の権力(王とその肖像)をも神格化することができたのであり、やがては別の世俗の権力とそれに付随するもの、すなわち世俗の芸術のために、自律的な空間が解放されるにいたるのである。……こうした共同体的なまなざしの主観化は、自然の科学的な客観化の必然的帰結であり、それによりヨーロッパでは、印刷術の時代になって「芸術」と「芸術家」とが現れることになるのである。その出現は、教会による統制と世界の神学的秩序(唯一の創造主は神だった)からのゆるやかな乖離によって生じている。後にイタリアのトレチェントに見られるように、これは「偶像」から「作品」へ、崇拝の対象から歓喜の対象へ、職人から芸術家へ、現前から表象へ、超自然から自然への推移である。人格としてのイメージから、モノとしてのイメージへの推移なのだ。風景画、肖像画、美術史、そして芸術家の伝説の誕生である。…ルネサンスとは要するに、数の上ではより多くのイメージが生まれたものの、イメージの影響力はより小さなものとなり、媒介者としての力が衰退した時代なのである。……私はしたがって、「反復可能性」、つまりベンヤミンの言う「技術的再現性」について、コピーをオリジナルに、あるいは機械を生者に対置するような、あまりに否定的な概念化に身を委ねてはこなかったのだと考えたい。…私は逆に、イメージの工学的な飛躍の数々に残滓も両義性も認めず、進歩だけを見ようとするような「楽観的肯定論」の立場とは、確実に一線を画してきたつもりである。コンピュータ・グラフィックとサイバースペースは、批判もせずに熱狂するにはまさしく値しないように思われるのだ。】
12月13日 法政大学大原社会問題研究所OISR.ORGのページで「OISR.ORG 20世紀ポスター展 ―法政大学大原社会問題研究所所蔵資料2600点で見る戦前期日本の〈モダンの力〉― 」開催中。【ミレニアム特集として、法政大学大原社会問題研究所が所蔵する歴史的ポスター資料約2600点をオンライン展示しています。戦前期日本における〈モダンの力〉をご鑑賞ください。8秒間隔のスライドショウ形式でお届けします。谷口朗子・監修。……実物の資料はすべて法政大学大原社会問題研究所が所蔵しているものです。資格を問わず閲覧できますので、お気軽に研究所までお越しください。】として、戦前の日本共産党、労働農民党、在日朝鮮青年同盟から皇道会、産業報国会まで画像データベースがオンライン展示されている。
12月12日 村上淳一『〈法〉の歴史』1997年6月、東京大学出版会。日本と西洋ことにヨーロッパを比較しながら、古代から現代にいたる法の歴史とその文化的・思想的背景を検討する村上は、ヴィレム・フルッサーを援用しつつ【近代のアルファベット的・数的コードによるコミュニケーションもまた人間の自立を可能にするものではなかったのに対して、いまや論理性め因果性にとらわれない構想力を展開することにより真の自立可能性が見えてきた…西洋では、一旦はイメージによるあいまいなコミュニケーションに代って線形的・論理的なコミュニケーションを試みた実績があり、今度も線形的なコードに代る旋回的な(テクノ画像の)コードを用いたコミュニケーション、それに基づく析出的秩序の模索が始まっている。……これに対して日本では…あいまいな秩序が線形的・論理的なコミュニケーションによって不徹底ながらも批判されることさえなく、そのまま現代に受け継がれている。明治以後行われることになった西洋起源の法も、長い間いわばお仕着せの洋服にすぎず、自分で裁断したものではなかった。そして今、コンピューター時代を迎えて従来のお仕着せでは済まなくなっても、人々は新しい社会秩序の在り方について積極的な取り組みを見せず、技術的発展の可能性とその実現の採算性だけに眼を向けがちである。それに不満をもつ人々も、情報化に対応した新しい秩序をデザインする能動性を見せず、むしろ古くからのあいまいな秩序に回帰しようとする。】とし、【もはや「適用モデル」を維持できなくなりつつあるコンピューター時代の法秩序を、既成観念にとらわれない多くの選択肢に基づくダイナミックな発展を約束するものとして明るくとらえるか、無秩序が人類の破滅をもたらすかのように暗く描き出して偶像崇拝に回帰するかは、われわれが積極的にフレキシブルな秩序を生み出してゆく能動性とエネルギーをもつかどうかによって、決まってくるのである。】とむすんでいる。
12月11日 大澤真幸『行為の代数学 増補新版』1999年12月、青土社。初版(1988年)から増補された「日本語の言説空間の雑種性をめぐって」で【オウムの教義において、前近代性とポスト近代性が混融しているのを、あるいは前近代的な要素が直接にポスト近代的な要素として機能している】ところで雑種性を説く大澤は、日本語の特異な文字のシステムを検討し、【漢字(音読み)がかな(訓読み)に注釈を与えている、ということが、どのような状況を指しているのか】、柄谷行人を引きつつ【中国からの漢字の導入の意義は、奈良・平安朝の、中国からの法制度(律令)と普遍思想(儒教、仏教)の導入との関係で理解すべきである。というのも、漢字かな混じり文は、法制度や普遍思想の導入を規定するレセプターの機能を果たしたからである。……日本語においては、特異な文字のシステムによって、抽象的な概念が、本来の日本語に対して外圧的なものとして刻印されてきたということ、この事実が示しているのは、それゆえ、法、規範そして知の…普遍的な妥当性を保証するような超越的な審級が、日本語の話者には完全に内面化されていない、ということである。……日本語の特異な文字のシステムは、外来の普遍的な規範に対する両義的な態度を反映している。…その受け入れは全面的なものではない。われわれは、こうした態度を、「拒絶的受容」とでも呼ぶことができる】とし、折口信夫を援用しつつ【ほとんど全ての日本の芸能は、同一の形式の二項対立…すべて同一のフォーマットを共有している。…要するに、…外来神による土着の神の征服を物語化しているのである。……この両義的な態度が、言語の欠如、語ることの不可能性(沈黙)と関係づけられていることである。漢字で表現されるような外的な概念がなかったならば、あるいは外的と見なされるような概念がなかったならば、日本語の話者は、スピヴァクが語ったようなサバルタン(服属者)と同様に、己を語ることの不可能性を甘受するしかなかっただろう。】とむすんでいる。
12月10日 蘇培成・尹斌庸 編、阿辻哲次・清水政明・李長波 編訳『中国の漢字問題』1999年12月、大修館書店。中国で出された『現代漢字規範化問題』1995年4月、語文出版社、の抄訳。周有光は【『漢字簡化方案』の推進成果】と題して『漢字簡化方案』の1956年公布以降の歴史を概括し、【簡体字が社会にスムーズに広がった理由は、「約定俗成(習慣が定着すればやがてそれが原則となる)」という方法を採用したことにある。つまり大衆の習慣に従い、社会の流れにしたがって事を進めれば、半分の労力で倍の成果をあげることができるのだ。…「約定俗成」という原則は非常に重要で、一九七七年の『第二次漢字簡化方案(草案)』が多くの人から反対され、最終的には廃棄されてしまったのも、それが「約定俗成」の原則にのっとっていなかったからである。】【漢字の簡略化は中国の伝統的な文化を破壊してしまったという人もいる。しかしこれは「文字」と「文化」を混同した発言である。「五四」の白話文運動の中でも、白話文は伝統的な文化を破壊してしまうと言った人がいるが、それは「文体」と「文化」を混同していたのであり、この種の誤解はよく起きるものだ。春秋時代の『論語』や『孟子』などの書物はもともと篆書で書かれていたはずだが、漢代以降に隷書や楷書で書かれるようになり、字体がかなり簡単になった。しかしそのことで、漢代に伝統文化が破壊されたなどと言う人はいない。繁体字から簡体字への移行は、篆書から隷書への移行に比べればごくわずかな変化であるのに、どうして伝統文化を破壊することなどできようか。それどころか逆に、現代の字体で古典文献を印刷し、現代語で古文を解釈することこそが、伝統文化を継承し発展させる有効な手段なのではないだろうか。】と書いている。
12月9日 黒木玄ソーカル事件と『知的詐欺』以後の論争のページにアラン・ソーカル(田崎晴明 訳)「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」。【より一般的にいって、サイエンス・スタディーズでずさんなものの考え方が現れるときには、以下に挙げる異なったレベルの問題の二つ以上をいっしょくたにしているように思える。1.存在論 この世界にはどのような対象が存在するか?これらの対象について、どのような言明が真であるか? 2.認識論 人間は如何にしてこの世界についての真実に関する知識を得ることができるのか?どのようにすれば、知識がどの程度信頼できるかを評価できるのか? 3.知識の社会学 ある社会に属する人間に知られている(あるいは、知ることができる)真理は、社会的、経済的、政治的、文化的、イデオロギー的な要素にどの程度影響されているか(あるいは、規定されているか)?誤って真実だと信じられている正しくない事柄についても、同じ問題を考えることができる。 4.個人の倫理 科学者(あるいは技術者)は、どういう種類の研究を行うべきか(あるいは、行うことを拒否すべきか)? 5.社会の倫理 社会は、どういう種類の研究を奨励し、助成し、公共予算で援助すべきか(あるいは逆に、やめるように勧告し、税を課し、禁止すべきか)?……サイエンス・スタディーズが、認識論をもてあそぶことだけに慢心してしまうと、科学や科学技術のもつ社会的、経済的、政治的な役割を解明するというサイエンス・スタディーズの本来の目的を忘れてしまうことになる。もちろん、このようになってしまったのは、偶然ではないだろう。その過程を、社会学的に研究することもできるはずだ[48]。しかし、サイエンス・スタディーズに携わる人々が誤った認識論にこだわり続けなければならないという法はない。そんな認識論は捨てて、科学を研究するという真摯な目標に向かうことができるはずだ。おそらく、これから数年後に振り返ってみれば、今日いわれている「サイエンス・ウォーズ」がそのような方向転換の時期だったということになるだろう。】
12月8日 aml mailing listに千代丸健二「人権問題とオウム問題記事メモ」。【揺れる教団、だんまりの教団、寝たふりの教団、カルマとして規制法をも受け入れようとする教団、ボロボロでいまや死に体に等しい教団−−いくつもの見方がある中で、オウム真理教は一体何をどのように考えているのだろうか。そして何処に行こうとしているのか。世間や住民運動はオウムをどう見ているのか、住民との「共生」は可能なのだろうか。対立を越えて、その問題に焦点を当てようという対話を模索する動きがでてきた。…人権の視点から私はこの半年間取り組まざるを得なくなった。オウム真理教、長老部の正悟師、二ノ宮耕一氏ににインタビューした。】という千代丸は【オウム追放の住民運動と行政、国、公安調査庁、警察、マスコミの包囲網の中で対処するのは至難の業だ、今やその人材も機能もほとんど力はないといえる。死に体である、今やオウムは怖くはないのである。サンドバッグで打たれ放し、ゴジラの縫いぐるみだ。全然怖くないのである。むしろ、いたぶり、イジメの対象である。怖いぞ、こわいぞ袋叩きにして実は楽しんでいるのである。本当にオウムの信徒たちが怖かったら、目の前に監視塔を作ったり、覗いてみるものか、と言いたい。】と言っている。
12月7日 『実話時代』2000年1月号(メディアボーイ)に「暗雲たちこめるテキヤ社会の前途、郷愁のプロデューサーは消え去るのか!」と題した無署名記事。【どうやら暴対法による影響をモロに受けたのは、ある意味では任侠界以上に神農界――それも高市〔たかまち〕で商売〔バイ〕にいそしんでいる生粋の稼業人であったようなのだ。つまり、ヤクザ社会で最も“暴力団”的要素のない部分、露店だけで生計をたてているテキヤの多くが、祭りの場から締めだされるというあり得べからざる現象を生んでいるというのが実状である。……たとえば、八月七日から三日間の期間中、毎年約二百万人の人出で賑わう「仙台七夕祭り」。毎年、仙台市の目抜き通りを中心に、道路沿いに並ぶ露店はざっと三百店。それが三分の一の七十店に減って現在に至っているという。大幅な減少になったのは、宮城県警が、露店のほとんどを暴力団関係者として締めだしを図った結果だった。】
12月6日 対抗言論のページの「在日の参政権を拒絶する櫻井よしこの凍り付いた心」が、櫻井よしこ『続日本の危機 第17回「永住外国人の地方参政権」は亡国への第一歩である』週刊新潮1999年11月18日号を批判している。【敗戦まで参政権を持っていた本土在住の朝鮮・台湾出身者がそれを奪われたのは、1945年12月の改正衆議院議会選挙法によってである。…この改正衆議院議会選挙法では、「戸籍法の適用を受けざる者の選挙権及び被選挙権は当分の内これを停止す」という一片の条項によって、戦後第一回目の総選挙という重大な政治的節目を前に旧植民地出身者の参政権は消滅させられた。…では、45年10月の閣議決定段階では認められていた参政権が、そのわずか2ヵ月後に議会を通過したときには剥奪されていたのはなぜなのか。これも、京大の水野直樹教授が国会図書館で発見した資料によって、既に明らかになっている。在日朝鮮人に参政権など与えておいては、天皇制に反対する勢力に大挙して票が流れかねないという恐れが、隠されたその真の理由だったのである。】
12月4日 ▼メディアの辺境地帯のページに大住良太「団体規制法報道、法案成立後の新聞屋の姑息なアリバイづくり(12.4)」。オウム真理教のページに教団広報部「“オウム新法”成立について」。▼12月3日、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会は佐藤勝巳・小島晴則両共同代表名で「村山訪朝団に関する声明」を発表。
12月3日 承前、山之内靖『日本の社会科学とヴェーバー体験』。近代市民社会そのものの全体主義化をみる山之内は「第13章プロテスタンティズムの倫理と帝国主義の精神」でシュルツェ-ゲヴァーニッツを取り上げつつ書いている。【…資本主義の発展とともに価値の現世化が進展した。人々の行為動機を規定する価値はそうした超越的目的との結びつきを失って自然科学と結合し、力学ないし数学の法則に即して量化され、形式化される方向をたどっていった。こうした思想傾向が社会認識に及ぶにつれて、国家からは文化的価値内容が剥奪されるとともに、歴史からは特有の文化的個性という側面が切り落とされてゆく。宗教改革という西欧に起った一回限りの文化現象とのかかわりで資本主義精神の形成をとらえる視点は見失われ、あらゆる社会事象が技術学的に考察されることとなる。………】さらに新アングリカン美学運動とウィリアム・モリスについても言及し【芸術的創造がもつ労働の喜びを保証する社会、これがモリスの理想社会であった。だが、民衆芸術のおのような可能性は、資本主義の土壌の上では育ちようがない。モリスは画一的な機械制大工業の産物に対し、手工業的労働の価値を復元しようとしたのであった。だが、日常生活を全面的に芸術化しようとするモリスの要求に対応しうるのは、現実には、世界の最も富んだレントナー階級のみである。皮肉なことに、モリスの工芸作品は、彼にとって軽蔑された社会層の購買力に依存しなければならなかった。】。こうしてシュルツェは新アングリカン美学主義の破産を告げドイツ理想主義の優位性をうたうが、【技術は理想主義にとって自己目的ではなく、文化の尺度でもない。しかしそれは、「人間の自然に対する支配」を通して超越的価値の実現に奉仕する。…この点で、シュルツェはヴェーバーのペシミズムとは縁遠い楽観的な帝国主義であった。近代西欧の精神を体現する中産的社会層をあくまでも保持しようとする社会的意志と、帝国主義的権力政治の世界史的闘争に勝ち進むための不可欠の手段として高度技術的産業資本主義を推進しようとする志向、この異質な二つの志向の関係は、すでにこの時代に、両立不可能な矛盾をはらみ始めていた。】。山之内は【倫理はいまや個人の手を離れ、社会におけるシステム的連関の一環節を占める機能とみなされるようになり、管理的・権力的中枢機構によって操作さるべき対象へと位置を移すこととなる。ここに現代社会の成立が告げられる。】とこの章をむすんでいる。
12月2日 『ユリイカ』1999年12月号(特集ミステリ・ルネッサンス)青土社、に(インタヴュー)京極夏彦「小説の構造、版面の唯物論」(聞き手・佐々木敦)。【家の快適さは勿論設計によって保証されるわけですが、そこで生活する時に、表面上は装飾がモノをいうし、家具がなくちゃ暮らせない。…面白さは文章だったり単語の選択だったり、もしかしたら字だったりするんじゃないかと。そこで、「あ、文字面って凄く大事なんだ」と思い至った。日本語は他の言語と比較しても視覚言語としての比重が高いわけです。漢字は本来表意文字だし象形文字でしょう。それにひらがなやカタカナが雑じる。並びを替えるだけで印象はまるで変わるし意味も変わる。そこでつらつら思い出してみると、僕が過去面白いと思った小説は大抵字面が綺麗なんですよ。……僕が小説的にははまりきれなくて、他の楽しみを捜しちゃったものはですね、「あ、字間があきすぎてる」とか「お、ひらがなが多い」とか「こんな漢字までひらいちゃいかんじゃないか」とか、そういうものだった。それで「おお、小説は字面だ」と。……ミステリに限らず、小説は枝葉末節に至るまで作者の意志にそって作り上げられるものでしょう。なのに改行だけは機械任せでいいのか(笑)。改行だって作者の意志でしたいじゃないか。広告に限らず、商業印刷物の場合、どんな文章でもリーダビリティの良し悪しに神経を遣いますよ。小説だけはそれをしないでいいというのはどうだろう。小説なんてものはどんな場合も読まれることを前提としているわけですから、読みにくかろうとなんだろうと、内容だけ良ければいいというのは、どうかなと。少なくとも僕の場合は納得できなかった。まあしょせんテキストはデータでしょという考え方もわからないではないんですが、現状売られるのはデータではなく書籍ですからね。そう思っていたらフォーマットなしでは書けない体質になってしまった(笑)。】
12月1日 『現代思想』1999年12月号(特集・変容する空間)青土社、掲載の山之内靖+岩崎稔+米谷匡史「討議/空間・戦争・資本主義」のなかで、山ノ内靖は【…とりわけ『支配の社会学』で論じられた近代官僚制の問題があるわけです。官僚制というのは人間の社会的組織を管理する技術なわけですね。あれを技術論の枠組みの中に位置づけてみる必要があるだろう。……技術的合理性の問題は他方ではカリスマの問題と結合するとヴェーバーは提起したのです。…技術は同時に神話とか象徴と結びつき、カリスマ的指導者性を呼び込んでウルトラ・ナショナリズム化していく可能性をもつということです。これはまさに二〇世紀的な現象です。……つまり技術の問題が、ベンヤミン的に言えば、アウラを伴う問題として二〇世紀に登場して来るんです。これをみておかなくてはいけないでしょう。伝統的文化のアウラが複製技術によって消え去ってしまうと、そのニヒリズムの状況を埋めるものとして、技術のアウラ化が登場してくる。ベンヤミンはこれをファシズムの文化状況だと見ていますね。】と発言している。
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