読書録 1999年9月後半(敬称略)

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  • 9月30日 ▼INTERNETオウム真理教のページに1999年9月29日付「オウム真理教休眠宣言」。【オウム真理教は、明日9月30日をもちましてここ足立区谷中の本部施設から撤退し、翌10月1日以降、教団としてのすべての対外的な宗教活動を全面的に休止し、暫定的な措置として、破産管財人から使用禁止の通告を受けている教団名「オウム真理教」の名称使用を一時的に停止します。 】。しかし、たとえオウム真理教が「社会的反省」「自己批判」で恭順の意を示そうとも、権力は“批判をかわす狙い”などと称して、存在そのものを否定し追撃するだろう――これが独占資本と権力の冷厳な意思である。▼JCJのページに「人間の尊厳と生きる権利」。【オウム信者や関係施設の立ち退き・追い出し要求の運動や、自治体による住民登録の拒否が広がっている。深夜まで人声などが聞こえる道場だったりすれば、確かに周囲に迷惑を掛けているのかもしれない。だが、住民の要求が子供たちの小学校入学を拒否し、立ち退きを求めるところまでエスカレートし、これに自治体が迎合し、住民登録を拒否したり、登録を抹消したりする事態は、決して正常ではない。……恐ろしいと思うのは、「思想は裁かない」という市民社会の原点を忘れ、極めて感情的な理解の中で、安易に個人や集団にレッテルを張り、一定の思想を取り締まり排除しようとする風潮だ。……ガリレオ・ガリレイの宗教裁判や「セーラムの魔女」の時代に遡らなくてもいい。戸口に「アーリアンの家」と書いたり「英霊の家」のステッカーを張った時代、エリア・カザンの表彰をめぐって今も傷跡を残すマッカーシズムの経験を思い起こすだけで十分ではないか。運動の指導者たちや自治体の首長は「オウムの人たち」に、どこに行って生活せよというのだろうか? われわれの社会は、少なくとも建前では、人種や民族や、性の如何や財産の多寡を問わず、どんな思想信条の持ち主でも、それで差別されず、「人間の尊厳と生きる権利」を保障してきたはずである。オウムであれ何であれ、その信ずる宗教の故に排除されるいわれはないし、そんな偏狭な社会にしてはならないのだ。実はこれも「日本人のオウム」の問題だ。もっと真面目に考え発言しなければならないのではないか。】

  • 9月29日 松葉祥一「安全は国家のものか――予防対抗暴力と抵抗権」〔『現代思想』1999年10月号 掲載〕。【ホッブスが言うように、国家による安全保障は、国家のもたらす「不都合」よりも大きいのだろうか?】と問う松葉は、【国家は、暴力を排除するための暴力を最初にかつ定期的に用いる……この正当化のために要請されるのが「予防対抗暴力…」…の論理……国家の暴力の発顕としての戦争と治安弾圧は、つねに、戦争を根絶するためのやむをえざる戦争、暴力を根絶するためのやむをえざる暴力として正当化される。】【国家は、暴力を独占するだけでなく、安全を、つまり排除すべき暴力とそれに対抗するための正当な暴力を「定義する力」を独占することになる。】とし、【抑止力の名の下の軍備拡大競争と治安弾圧による国内恐怖政治は、例外的な事態ではなく、予防対抗暴力の論理の必然的な帰結なのである。】と正しく指摘している。そして【「定義する力」を、国家の手から市民の手に引き戻す】ものとしての【法を越え……国家や国民の境界を越え……暴力的なものとならざるをえない…抵抗権】を、バリバールを援用しつつ第145国会後の状況における【「いま、ここ」のテーマ】としての抵抗の根拠として提起している。そのとおり、さいきんの情勢は国家の側からの「国民/非国民」の再定義の動きでありオウム対策をかかげた治安管理強化に対しては「人権」一般では抵抗しえず、抵抗と結社の権利を根本にすえた論理でなければならない。松葉は【抵抗は、あらかじめ「法外」に置かれていることを覚悟しなければならない。また、そうした法が日常的で個別的である以上、それに対する抵抗も、日常的で孤独なものとならざるをえないであろう。】とむすんでいる。

  • 9月28日 ジョナサン・グリーン、三川基好訳『辞書の歴史』1999年9月、朝日新聞社。英米を中心とする辞書編纂家たちと、彼らが編纂した辞書を時代を追って描いているジョナサン・グリーンは【一八五七年にリチャード・シェネヴィクス・トレンチが強く訴えたように、辞書編纂家は歴史家であって法の制定者ではない。問題は辞書を使う人々の中に、いまだに後者の役割を演じて欲しいと願う気持ちがあることだ。従来、辞書編纂家は神の役割を、少なくとも司祭の役割を果たすことを期待されてきた。しかしどんなに強く望まれようと、そのような要求に応えられるはずがない。辞書編纂家も文化の一部であり、扱う言語は自分の言葉でもあるのだ。文化とは無縁のところに身を置いて編纂にあたれというのは無理な話だ。ジョンソンやウェブスターのような主観的態度を排するのは可能だし、望ましいことでもある。人間的な部分をすべて捨て去って、完全に中立の理想の辞書を作るのは不可能なことだ。巨大なコンピューター・コーパスも、人間が手を加えて内容を整理しなければならない。ジェルジュ・ルカーチの言う通りだ。辞書編纂家は、作られる辞書と一心同体の存在なのだ。個人の考えが入りこむことをできるだけ少なくすることはできる。しかし、それ以上を望むのは、太陽を追いかけるばかりか、それをつかまえられると信じこむようなものなのである。】とこの大著をむすんでいる。そういう意味で辞書編纂家が完璧を求めることは太陽を追いかけるに等しいということから、原題の“Chasing the sun”はつけられたという。

  • 9月27日 東浩紀「デジタル社会と日本の位置(インタビュー)」〔『MacPower』1999年10月号 掲載〕。「児童ポルノ法、通信傍受法、住民基本台帳法改正、一見バラバラに見える動きは実は一貫した流れの中から出ている」という東は「“監視型権力から検索型権力”という移動が起こっている」と指摘している。【…僕は「盗聴」という言葉を使うべきでないと思っています。「電子的監視」という言葉のほうがベターなんですが、でもよく考えたら「監視」という言葉もたぶんダメだろうと思う。というのは、通信傍受法を契機として起きている出来事は、監視されているということではないわけです。僕が仮に今犯罪を犯しているとして、それが同じ瞬間に監視されている、というリアルタイムの権力ではないわけです。今でもそうですが、電子メールにしてもクレジットカードにしても、…今それが誰かの手に一元的に握られないのは、…それらはどこかでデータベースとして統合されているわけではないからです。これがもしデータベースとして統合されると、今この瞬間を監視されていなくても、あとになって遡行的に今の自分の行動を発見される可能性が出てくる。だから、おそらくここでは“監視型権力から検索型権力”とでもいうような移動が起きていて、検索型権力の限界をいかに定めていくかということに関する議論が必要なのです。……検索型権力の例として警察の「Nシステム」というのがあります。先日、江戸川で女の子が誘拐されるという事件があって、その犯人があっという間に捕まったのはNシステムの活躍によるらしいんです。犯人は痴漢か何かで前科のあった人間なんです。引っ越していたんだけど、警察が調べたらその人物のクルマが東京方面へ向かった形跡があった。それで、すぐその人物を取り調べしたら簡単に犯人であることが分かったということなんです。……デジタル化社会の出現によって、従来と違うタイプの権力が可能になったんだということを人はもっとよく考えるべきだと思う。】

  • 9月26日 『週刊ポスト』1999年10月1日号の矢作俊彦「不用生命排除装置(新ニッポン百景318)」。【九州に、郵便ではなく、犬を入れるポストがあると聞いて、出かけた。…箱には文字をこそげ落とした跡がある。動物愛護団体から抗議を受けるまで、そこにはこう書いてあった。『不用犬箱』…聞いてみると、九州では珍しくも何ともないと言う。…宮崎県には、一九七九年から設置されていた。去年は、三つのポストに千二百頭以上が捨てられた。…これも含めて、九州には百十一ヵ所も存在する。いったいどうして? 業務時間外に犬を置き去りにする飼い主がいるので、当面、必要なのだというのが、当局の答えだ。そして、「不用犬の表示は取り払い、動物の命の大切さも考えて、などの表示を入れるよう指示しております」と、きた。不用犬という言葉がまずかったと、どうやら信じて疑わない様子なのである。その言葉、むろん良くない。…どんな無能な穀潰しの役人だって、市民が「不用人」とレッテルを張ったらどうなのか。そう言い返そうとして、あきらめた。問題はこの箱に平気で犬を捨てる者があとを絶たないことだ。私が子供のころ、犬は箱に入れて軒先に捨てられていた。食べ物が添えられ、「可愛がってください」と書かれていることもあった。そのころは当然、不用犬などという言葉はこの国に存在しなかった。…さらに調べてみると、不用犬という言葉は、一九五四年、私が学校に上がる前から存在していたのである。国が出した「狂犬病予防法に関する通知」の中に「不要犬」として登場するのがはじまりなのだ。…】

  • 9月25日 家辺勝文「ウェブノート」に『デジタルテキストの技法』(1998)・目次の外側 ― その1(09-24付)、目次の外側 ―その2(09-25付)として、それぞれ【「6.2.1 人名と個人のアイデンティティー」に関連した、ニフティ・シェアテキストフォーラム「国境を超えるテキスト」会議室での家辺発言(1997年2月)を抄録】【「3.1.2 文字は孤立していない」に関連して、山片蟠桃『夢ノ代』の文字論を紹介した、ニフティ・シェアテキストフォーラム「国境を超えるテキスト」会議室での家辺発言(1995年5月)を再録】。某メーリングリストでの議論への全面的回答としてだけでなく、全文必読!

  • 9月24日 JCJのページに荻野茂喜「消費者に安全な食品を提供する」。一人で所沢市の西部清掃事業所操業差し止め裁判を起こしたお茶農家の荻野は【くぬぎ山の奥に入ってみると、塩素系の刺激臭を始め木の立ち枯れや廃棄物や灰が積み上げられた産廃場の荒れた様子を目のあたりにして、大変衝撃を受けたんです。もともとこのあたりは川越藩が新田開発に力を入れ、落葉を堆肥にした、生態系を利用した農法を残している三富新田と呼ばれる農家の畑と、ナラやクヌギなどの美しい雑木林が広がっていたんです。それが今では、所沢市などの三市一町に64施設(休廃止21炉)もの産廃処理場が密集しているのですよ。また相続税の問題もあって、農家が土地を売った、そこへ産棄物業者がドンドン入ってきた。……生産者は消費者にきちんとした安全な農産物を提供し、消費者は生産者を補償する、そんな安全保障が必要じゃないかと。オランダやフランスの酪農家の例のように、まず炉を止めて、ちゃんと調査して、農家を補償するというステップをちゃんと踏まなきゃダメなんです。しかし、生活がかかっている同業者から共感を得るのは難しい。】と言い、2月1日のテレビ朝日の野菜報道について【あの報道は、野菜とお茶のデータを比べたり検体数が少ないなど問題はありましたが、実際に高濃度汚染地域の農産物は、明らかにダイオキシン汚染は高く、それに対する措置として、フランスなどの例を出し、農家の補償問題や焼却炉を止めるなどの方向性を提案しているので、所沢の野菜を売れなくするためにしたものでは決してないと思う。趣旨を汲み取っていい方向にいけばいいと思ったんですが。農家とJA所沢市はテレ朝を損害賠償で訴える準備をしており、それを農水大臣が後押ししています。】と指摘、【今年3月下旬に埼玉県が農産物の「安全宣言」をしたということは、産廃を追い出す理由もなくなった。農業を保護すると言いつつ、結果的には農業をダメにしてしまう。検査のサンプルが問題なんです。ダイオキシン類の測定は検体の採取と測定方法、そして平均値化することでごまかしができるのです。平均値をとるのではなく、一番汚染された地域の農産物を測らないと対策にならない。さらにクロスチェックをすべきです。いつか汚染問題を隠しおおせない時期が来たら、県や産地の姿勢が問われてくるのではないでしょうか。】と結んでいる。

  • 9月23日 このほど配本になったのが、小池和夫・府川充男・直井靖・永瀬唯『漢字問題と文字コード』1999年10月、太田出版、A5判352ページ、定価(本体3000円+税)、ISBN4-87233-486-8。小池和夫「JIS第3・第4水準拡張の意義と問題点」、府川充男「当今『漢字問題』鄙見」、永瀬唯「漢字消費者に贈る弁――文字コード排外主義の三つの退嬰」、直井靖「表外漢字字体表試案の読み方試論」、小池和夫「『東京セブンローズ』の文字について」。【文章とは文字を媒体とするコミュニケーションのシステムであり、文章語とは文字で織りあげられた織物に外ならない。……点畫の構造―字体は、実字形としては無数のヴァリエイションを持つ書体・書風の差を超えて文字の情報を交換するシステムの一部に外ならない。随って、まず透明な「文字」ソノモノとしての字体の骨骼が実体的に存在し、それに肉と皮膚、そして衣服を被せるようにして書体と実字形が存在するという「実体主義」的な譬喩の図式それ自体に、恐らくはいささか無理があるのだとも言えよう。……我々が常に立ち還りたいのは本邦近代の〈文字文化〉の伝統や常識の実相である。すると、多様な異体字への字形の揺れや用字法、文体、仮名遣の揺ぎや、時代につれて種々に変遷を遂げてきた和文活字組版の定型の諸相が眼前に現れてくる。そのとき辟けるのは、並列された各字形とコード・ポイントとの一対一的対応に帰結し得るような「透明」な事態ではなく、文字を媒介とした多様で複線的で複雑でもあるコミュニケーションのありようのはずである。かくして我々は再び「字体の事態」本来の複雑さと面白さに新鮮な驚きと共に直面することになるのだ。】と明快に喝破している府川論文をはじめとする必読の論文集。

  • 9月22日 ドキュメントビデオ『沖縄・基地案内』完成上映会&シンポジウム 沖縄からアジアと日本の平和を求めて〔日時:9月26日(日)12:00開場、12:30開会、会場:シニアワーク東京(飯田橋)、一般1500円学生800円〕。シンポジスト:日米のアジア侵略と沖縄民衆の闘い(新崎盛暉)、マスメディアとアジアの平和(富山栄子)、戦後補償運動と「歴史修正主義」との闘い(前田朗)、アジアの平和に逆行する対朝鮮政策(横堀正一)。主催:小川町シネクラブ(03-3818-2328、FAX03-3818-3199)、協賛:沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック新社会党中央本部

  • 9月21日 三省堂『ぶっくれっと』NO.138(1999年9月)に、柳瀬尚紀・米原万里「対談・翻訳と通訳と辞書」。米原は言う。【市場原理にからめとられると、やはり英語がいちばん効率的になっちゃうんですね。…ところが、市場原理を離れると、実はどの民族にも価値がある。どの民族にもおもしろい歴史と文化があるわけで、それを知るためには、それぞれの言語をやらなくちゃいけないんですね。市場経済はこれを省略しているんですよ。効率一辺倒ですから。ところがロシアは、世界中あらゆる国の言語を、それこそ計画経済で、国民に学習させたんです。東京外語大にいたときのことですが、ヒンドゥ−科の学生で、ヒンドゥー語よりもさらに少数民族の言語を勉強しようと思って、その教科書を探したら全然ない。英語圏にもなくて、ロシア語をあたったら初めて、その少数民族の教科書と辞書があったそうです。だから、その言語を勉強するためにロシア語をやったっていう学生がいたんですね。日本というのは、英語経由で発信し英語経由で世界の情報を入れているわけですが、ロシアはそういうやり方をやった。】

  • 9月20日 ビル・トッテンのページに「富の移動(1)」「富の移動(2)」。『Shifting Fortunes(富の移動)』という小冊子から、米国経済の実態を示す統計資料を紹介している。マイクロソフトのビル・ゲイツの正味資産は584億ドルで【米国の総人口は約2億5,000万人で、ゲイツの資産はその45%、つまり1億1,250万人の米国民の資産の合計を上回る。では社会に対するゲイツの貢献度は、1億1,250万人分を上回っているだろうか。上記の富豪リストにはマイクロソフトの3人が含まれるが、彼らが富豪になったのは同社の独占戦略および相続によるものである。米国社会は社会への貢献度に応じて報われる社会であるとよくいわれるが、実際は、独占違反者や社会の寄生虫の方が他の一般労働者よりも多く報われる社会なのである。】

  • 9月19日 現代コリア研究所のページのフラッシュ欄に「泰川核施設の場所特定」と題して【米国は、北朝鮮がジュネーブ合意後も地下施設の中で着々と核開発を続けてきたことを証明する確実な証拠を多数入手しながら、その大部分を隠蔽し続けている。とくに平安北道泰川郡にある秘密核施設に関しては、人造貯水池の島の地下にプルトニウム工場があり、現地から韓国軍が水と土を持ち出し、それを米国DIAが分析して、プルト二ウムの存在を確認しているのにまったく公式情報を出さないでいる。9月13日、この主張をサポートする衛星画像データが公開された。米国のケーブルテレビ局CBN(Christian Broadcasting Network)がニュースとして報じたのだ。】としてその要旨を伝えている。

  • 9月18日 (社)情報処理学会情報規格調査会のページに、第1ステージを終えた文字コード標準体系検討委員会をまとめた「文字コード標準体系検討専門委員会報告書(99-08)」。

  • 9月17日 国際グラフィックアーツ総合機材展IGAS〔平成11年9月20日[月]−24日[金]am.10:00-pm.5:00 入場料金\1,000、東京ビッグサイト(有明・東京国際展示場)〕、招待券あります

  • 9月16日 9月14日、東京・早稲田の日本キリスト教会館で「シンポジウム・オウム問題と破防法改悪問題を考える」が開かれた(既報)。参加した私(前田)は感想と意見をまとめ、電子書簡としてパネリストのひとりである宮崎学さんあてに出した。これが「キツネ目の男」宮崎学のページに掲載された。URLは、http://www.zorro-me.com/miyazaki6/txt/to-readers/990915.html