9月15日 9月14日、東京・早稲田の日本キリスト教会館で「シンポジウム・オウム問題と破防法改悪問題を考える」が開かれた。当日配布資料のひとつに山際永三「オウム事件の意味」あり。「『オウム事件』には、いままでの日本の歴史にはなかった新しい要素が内在していると思われる」という山際は「オウム排斥の意味」として次のように指摘している。【…確かに、1995年までのオウムの幹部たちは、その幹部たち自身の意志によってか、または何者かに利用されてか、犯罪を犯したことは事実だろう。…その犯罪の真の責任者が謎につつまれたまま、その犯罪を知らされていなかった下部の信者・出家者にまで、連帯責任を問う必要があるのだろうか。私は、現代を中世の報復と厳罰の社会に戻すことはしたくない。団体の連帯責任を問うことは、個人の責任を限りなく稀薄にさせる。下部の信者・出家者が、今日も宗教活動を続けようとすること、少なくとも自分たちの修行を続け、日本の社会に生活しようとすることまで、全面否定する必要はないと私は思う。まして、1995年の事件の後オウムをやめていく信者がいるし、逆に新たにオウムの信者になる若者がいて、出家する人さえいるというのである。オウムには、日本の若者を引きつける何かがあるのだ。オウム事件を論評する人々は、好んで「犯罪を実行した幹部たちは、麻原によってマインドコントロールされていたのだ」と言う。しかし、事件後の新たな信者たちをどう説明するのか。私の考えによれば、日本の社会では、「家庭の幸せ」という価値観がすべてにまさる価値観だという「マインドコントロール」が蔓延しすぎている――その価値観に疑問を持つ若者が次から次に現れるのは当然のなりゆきなのである。日本のテレビに流されているコマーシャルフイルムを見れば、私の言う意味が了解されるだろう。そこでは、何かの商品を食べたり飲んだりしさえすれば、家庭は幸せというメッセージがあふれている。それは異常なほどである。その異常に反応し反発する別の異常が現れることも、必然だと思わざるを得ない。オウムは、まさしく現在の日本社会のスケープゴードなのだ。だから、これほどまでに嫌われるのだ。】
9月14日 ▼MSNジャーナルに田口ランディ「通り魔事件と新聞専売所」(1999年9月13日)。「18歳から19歳までに一年間、都内の新聞専売所に住み込みで働いていたからだ」という田口は、通り魔事件とむきあって書いている。【専売所に集まって来る人たちは、どこかほんの少しズレている人が多かった。だけれども私はそれが決して居心地悪くはなかった。……だけれども、まだ深夜ともいえる午前2時半〜3時頃に新聞が届き、3時過ぎには折り込みを始め、4時〜4時半には配達に出る。6時〜7時に帰って来て朝飯を食べ、それから寝ると目が覚めるのは昼だ。そして、茫然としているともう夕刊の準備が始まる。…配達に慣れないと、ただ新聞を配達するために起き上がり、そして飯を食べ、寝るという生活が続く。…そして月末近くなると集金がある。新聞少年たちは、私も含めてある圧迫感の中に生きていたように思う。いつも時間の事を考えている。……入店して3ヶ月くらいで朝の遅刻が目立ちだし、ある日忽然と姿を消す人が多い。まさに通り魔事件の犯人のように。彼は足立区の専売所に勤めていたという。いたって真面目な勤務態度だったが、誰ともしゃべらなかったと所長さんが語っていた。彼がどんな生活をしていたのかが、ぼんやりとだがわかる。あの専売所の独特の新聞のインクの匂い。埃っぽい乱雑さ。専売所近くの古いアパート。何もない部屋。配達から帰って寝て、目が覚めた時に残る疲労感、夕刊の配達の気の重さ。終わるとすぐ、また次の配達のことを考えている。その、妙な圧迫感。犯人に同情はしない。だけれど、東京に出てきて新聞配達を始め、その専売所を黙って辞めた彼の人間像が私の記憶とダブるのだ。若い子たちは専売所から出ていく事ばかり考えていた。そして、専業の従業員をちょっとだけ馬鹿にしていた。こんな所で一生を終わるのは人間のクズやで、とある男の子は言い切った。だけど、今思うと、新聞配達に専念している人が、一番心穏やかに好きなように生きていた。若いって苦しいのは、いつも現状に満足できないからだ。満足できない原因は自分にあるのに、環境にあるんだって思い込んでた。ここは最低だと思っていた。私もそうだった。そして勝手に挫折して、勝手に何かを恨んでばかりいた。どうしたいのかわからない、ただ恨みがつのる。専売所の壁には、いくつもの拳で叩いた窪みがあった。】ぜひ全文を読もう。▼第14回早稲田青空古本祭〔会期:10月1日(金)〜6日(水)※雨天決行 午前10時〜午後7時(最終日午後5時)、会場:穴八幡宮境内(早稲田大学文学部前)、主催:早稲田古書店街連合会〕
9月13日 菅野礼司『科学は「自然」をどう語ってきたか――物理学の論理と自然観』1999年6月、ミネルヴァ書房。菅野は、自然科学と自然観との関係を物理学を主題に検討し【近代化科学の理論は「絶対概念」を骨格として構成されており、二〇世紀の現代科学はそれら絶対概念を崩して「相対概念」で置き換えることにより築かれた。また、同時に、自然観に関しては機械論的自然観に代わりすべてのものを変化・発展のうちに見る進化論的自然観が台頭し、原子論的自然観に対しては階層的自然観が取って代わった。】としたうえで次のようにいう。【人類もこの宇宙における物質の自己組織能力によって、自然自らの進化の過程で生まれたものである。したがって、認識主体である人間も認識対象である自然の一部である。人間の記憶、思考、認識行為といった精神活動もすべて高度に組織化された物質系の活動である、つまりは自然現象の一環としてそのなかに包み込まれる。このようにみると、さらに人間の自然認識としての自然科学も自然自体の自己運動のなかに包摂される。すると「自然科学とは自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映(自己認識)活動」ということができる。この自己反映活動である科学的認識とは一体何であろうか。「もっとも不思議なことは人間が自然を理解できることだ」といった前述のアインシュタインの言葉の意味の深さが改めて理解されるであろう。】
9月11日 平成11年度アジア・アフリカ言語文化研究所公開講座「アジア・アフリカの文字がわかる」。【文字は人類の文化の空間を越えた伝達と、時間を超えた記憶とを支える道具・媒介です。その一方で、文字は簡単に目によって認識されるのみならず、それ自体の美が鑑賞される視覚的対象物でもあります。また、文字は、その表す「ことば」が故に尊ばれ、時に呪術的な意味を込められます。あるいは音としての「ことば」を尊ぶあまりに単なる形として貶められます。書、あるいは文字には日本人なら誰もが関心を寄せ、思い入れを持ち、それぞれ一家言を持っているともいえます。本講座は日本を含む東アジアの文字に留まらず、その向こうに広がるインド系の文字、西アジア・アフリカの文字を、歴史的、文化的、社会制度などの視点から、あるいは情報学的な観点などから多面的に理解することを目的として開講します。】日時:10月9日から11月6日まで毎週土曜日13:00から(全4回) 会場:東京外国語大学3号館3401教室 受講対象者:社会人・学生 募集人員 100名 受講料:7,500円 募集期間:9月24日まで〔先着順受付〕 問合せ先:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所研修・共同利用係〔〒114-8580東京都北区西ケ原4-51-21、TEL03-5974-3680〕
9月10日 聖教新聞学芸部「メディアのページ」の米国メディア時評欄に高濱賛「オウム転入阻止を人権侵害と報道したNYタイムズ紙」。【「カルト(熱狂信者団体)への断ち切れぬ憤りで日本人は個人の権利を侵害」八月二十二日付けの『ニューヨーク・タイムズ』紙は一面で、日本各地の市町村がオウム真理教信徒と分かる住民票転入届を「地域社会の不安を増大させる」として受理していないことや、住民たちの大規模な反オウム・デモ、規制のための特別法制定の動きを取り上げた。……くだんのタイムズ記事を書いたのは、旧日本兵による中国人人肉食い疑惑などの報道でなにかと問題を起こしたN・クリストフ記者の後任、カルビン・シムズ記者。一緒に赴任した同僚のハワード・フレンチ記者とともに米主要記者の東京特派員としては初めてのアフリカ系米国人だ。社会で差別され、偏見を持たれている人々に対する「正義感」が黒人というバックグラウンドからほとばしるものなのかどうか。少なくとも日本の記者たちが横並びで断定してしまっている「盲点」を彼らはとらえようとしていることだけは間違いなさそうだ。】
9月9日 朗文堂のページに「アイガス」にいきませんか?として、国際グラフィックアーツ総合機材展IGAS〔平成11年9月20日[月]−24日[金]am.10:00-pm.5:00入場料金\1,000、東京ビッグサイト(有明・東京国際展示場)〕の紹介記事。【まずリョービイマジクスのブースでは『リョービ書体百花全書』(A4判・112ページ)が圧巻です。ここではリョービの電子活字をもちいて、現役のグラフィックデザイナー34名が参加して、意欲的で大胆な制作品を展開されました。リョービイマジクスの情報システム部(デジタルタイプのコーナー)にいって、名刺をだして、「『リョービ書体百花全書』が欲しい!」と申し出れば、無料で入手できます。/ついでは印刷出版研究所のブースをさがしてください。そこにはできたての『PREMedia 12号』が2,500円ほどで発売されているはずです。『プリメディア12号』には、ファンファーレ・プレスの企画「四六判書籍を斬る!」が、64ページにもおよぶ大特集としてくまれています。ブックデザインにご興味のあるかたなら、ウーンとうなること必定のおもしろい特集です。】
9月8日 「アジアの声」のページが「ハリウッドへのアピール」と題して、アメリカで以前はもっぱら宗教的保守勢力に握られてきた社会的保守主義の中核として注目されるようになったコミュニタリアン(共同体主義)の動向を伝えている。【1999年4月のコロラド州リトルトンで起きた高校銃乱射事件をきっかけに、再びアメリカ国内の銃規制をめぐる議論が活発になっている。「銃の規制」か「自衛の権利」か、という次元とともに重要なのが、「表現の自由」か「表現上の道徳」かという論争である。すでに、1999年6月、クリントン大統領は、映画や音楽、ビデオゲームの広告についての調査や成人映画規定の強化などを指示した。こうした中で、1999年7月21日、過激な暴力・性描写シーンの悪影響を正面から指摘した提言「ハリウッドへのアピール」(An Appeal to Hollywood)がワシントンで発表された。アピールは、……「上品で、だれもが共有しうる価値観を広め、アメリカ的な家族精神を強めることにエネルギーを注ぎ込む一致協力の努力によって、娯楽業界は次の千年にふさわしい米国をつくる力をその内部に秘めている」と業界の勇断を求めた(…)。この提言の署名者には、フォード、カーター両元大統領を含む政治家、コリン・パウエル元統合参謀本部議長や湾岸戦争の英雄、ノーマン・シュワルツコフ大将、学者、宗教関係者、タレントなど56人が名を連ねているが、提言作成を主導したのは、レーガン政権の教育長官で、保守派シンクタンク「エンパワー・アメリカ」の代表、ウィリアム・J・ベネット(William J. Bennett)である。署名者の構成からいえることは、アメリカ社会の崩壊に危機感を抱く左右道徳派が結集したということである。……アピールは、社会に必要な道徳的価値を信奉する立場から、過度な暴力や性描写に反対している。興味深い点が、「アメリカ文化の健全性に対する責任」、「子供を監督する親の責任」という形で、「責任」を重視している点である。まさに、権利と責任の均衡を唱える点がコミュニタリアンの主眼なのである。また、「家庭いっしょに見られるような番組を増やせ」と主張するなど、アピールは家族・家庭の価値観を重視している。アピールを貫くキーワードは、まさに「道徳・責任・家族」である。】
9月7日 JCJのページに横山和雄「戦後に組織をつなげた印刷労働者」。【明治末から昭和にかけて印刷労働運動で活動していたのは、コミュニストであり、アナーキストなんですね。印刷の労働者にはアナーキストが多かった。アナーキストの指導を克服しながら、コミュニストのグループが大きくなって、戦中の一番ひどい弾圧の中でも組織を持ちこたえた。……印刷はあまり戦争に関係ないといわれます。しかし、生産部門としての印刷は、戦後でも三回は戦争に関わっています。朝鮮戦争の時は、4千万枚のビラを作った。ベトナム戦争の時は、「このビラを持ってくれば優遇する」という投降呼びかけのビラを印刷した。湾岸戦争の時は、大日本印刷や凸版印刷で作ったLSIが多く使われた。今度、戦争が起こったら、同じようなことが起こるだろう。戦争になれば政府の発表した声明や方針を雑誌や新聞に報道させる自衛隊の方針が何年も前に出ています。今度の法律で実施されていくと、大本営発表のようなこと繰り返される可能性がある。もちろん昔のように戦争に協力するようなことは、そうそう簡単にはさせない。それが、戦争中も組織をつないできた印刷労働者の誇りであり、文化だろうと思います。】
9月5日 小松美彦「『買ってはいけない』ベストセラー化を支える優生意識――問題は商業主義の表層に留まらない」〔『図書新聞』1999年9月4日付〕。【考えるべきは、その商業主義が購買者の意識のどこに向かっているのか、ひいては『買ってはいけない』の論述姿勢のいかなる部分が私たちのいかなる意識に訴えて購買欲を誘発しているのかということだ。『買ってはいけない』では、危険性を訴える落とし所として、「環境ホルモン」や「精子激減」が少なからず登場する。…『買ってはいけない』のベストセラー化は、執筆者と購買者に相補的な優生意識に支えられており、しかも同書は、私たちの優生意識を強化してはいないか。……その意味で、北原めぐみ「境界撹乱へのバックラッシュと抵抗」(『現代思想』一月号)は必読の快作である。/現在、自身や家族の健康や快楽に関心を集中させる私たちの多くは、「国旗・国歌法」などの諸々の極悪法制定の明日には意識が向かわない。『買ってはいけない』のベストセラー化とは、こうした状況の反映でもあるだろう。そして、そこには優生意識が広く被さっているように思える。国家の軍事的な「安全保障」はいま固まりつつある。その向こうには、優生思想に根差した人口の量と質の観点からする「安全保障」がきっと待っている。】
9月3日 加藤隆『「新約聖書」の誕生』1999年8月、講談社選書メチエ。「なぜ新約聖書は権威あるものとされているのか」「新約聖書が成立するまでになぜ三〇〇年もの時間がかかったのか」という問題意識から加藤は新約聖書の成立経緯について検討し、「テキストを聖なるものとするということ」は「解釈に序列が生じることにな」り「聖なるテキストの存在は、権力を強化する。」と指摘している。【新約聖書の成立の経緯を歴史的に跡づける作業によって、新約聖書の権威がそれほど確固としたものではないと思われる結果が出てくることは、歴史と忘却にかかわる問題の観点から考えてみることができるだろう。人は、個人としても集団としても、さまざまな「忘却」に囲まれて現在の生活を送っている。遠い昔に厳しく対立した者たちの子孫が、いまは血も混ざり合い、文化的にも互いに差異がないような状況で一つの共同体を形成して平和に暮らすといったことは珍しくないだろう。こうした平和や安定は、いわば「忘却」によって支えられているのである。しかし歴史を跡づけるということは、こうした「忘却」の壁の向こう側をのぞくことである。歴史研究の入門書には、私たちの現在のあり方は歴史によって条件づけられているといったことが、よく記されている。確かにその通りだろう。しかし私たちの現在のあり方は、歴史の「忘却」によって成り立っている面もかなり存在する。したがって歴史の研究は、現在の平和や安定にとって、時として危険なことである。「忘れない」こと、「思い出す」ことは、忘れてもよいかもしれない問題を現在化することにつながる可能性があるからである。】
9月1日 ▼『日経ソフトウェア』1999年10月号が「すぐわかる文字コード」を特集し、柳田俊彦「これだけ押さえれば十分、文字コード規格の基礎」、山本哲史「日本語文字列処理のポイント」、山本哲史「文字コード判別機能付きテキスト・ビューアを作る」。▼福田雅史「『新JIS文字集合 最終案』を読む」。
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