読書録 1999年1月後半 (敬称略)

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  • 1月30日 栗原幸夫編集『レヴィジオン〔再審〕』第2輯、1999年1月、社会評論社、が特集「超克と抵抗」。小倉利丸・崎山政毅・米谷匡史・栗原幸夫「座談会・総力戦と抵抗の可能性−戦時変革あるいは生産力理論をめぐって」ほか。座談会補論として小倉利丸「方法について」で、小倉は「読者の問題、あるいはテキストの権力とでも言うべき問題」について「テキストを生み出すというところが問題の終着点なのではなく、むしろそこが問題の出発点……彼らのテキストは、どれだけの読者に受容されたのか…読者とは誰なのか…読者たちはこの知識人たちのテキストをどのように理解したのか」と問題提起し、戦時体制下での知識人の「内心は非転向を貫きつつ、知識人としての仕事を継続したい、あるいはしているのだ、という転向にたいする自己合理化の心理」をめぐるテキスト解釈も「果たして、転向知識人のテキストに接する多くの読者は、このようなアクロバットな読み方を共有していたのだろうか」として、「書かれたものがどのような媒体に掲載されたのか、…読者となる人々は、はたしてこれらのテキストを偽装転向のテキストと読むといったことが可能だったのか」と問いかけ、「テキストの解釈を読者による解釈というメタレベルでも検証しつつ、同時にメディア分析も行うという二重の課題」の必要性を主張している。

  • 1月29日 W3C が CSS の国際化のための新しいドラフト「International Layout in CSS(World Wide Web Consortium Working Draft 27-January-1999)」を公開した。日本語などの縦書きやルビなどを含むもの。

  • 1月28日 『現代思想』1999年2月号、青土社、が特集「部落民とは誰か」。藤田敬一「部落解放運動の現在」など力作14本。「思い込みは人を縛り、しなやかな発想をできなくする」という藤田は自らの『同和はこわい考』(1987年、阿吽社)での差別−被差別の隔絶された関係の絶対化を問い直そうとの提起以降の思索を深めるなかで得た「自分以外の何者をも代表しない」という命題を語り、特別措置法下の30年を振り返って【特別枠としての行政措置としての特別化は、いつしか部落差別は日本における人権問題の最たるものという認識を生み、特別化が自らを特権化する危険性があることへの警戒心を緩めたことは否定できない。特別化と特権化を防ぐには、体験・資格・立場をつねに相対化する必要があったのだが、特別措置要求の大合唱の中で、そんな声はかき消されるほかなかった。しかしいま、ようやくにして「部落民とは何か」をめぐって議論がはじまった】と書いているが、深く共感、この特集自体にエールをおくりたい。

  • 1月26日 ▼1月23日、東京・赤坂区民センターで「安田好弘さんの不当逮捕を考える集会」が開かれた〔主催:安田さんを支援する会・東京〕。「安田弁護士を支援する社長日記」「メディアの辺境地帯」で報告されている。「安田好弘弁護士からのメッセージ」は必読。▼イヴァン・イリイチ、玉野井芳郎・栗原彬 訳『シャドウ・ワーク』1998年5月、岩波書店。「生活のあらゆる局面に埋め込まれている互酬性の型に由来する人間の暮らし」を意味する「ヴァナキュラー」をキーワードにイリイチはいう。【たしかに、エリート言語または標準語の支配的地位は、書くという技術によってつねに強められた。印刷によって、エリート言語の植民地化能力は途方もなく高められた。しかし、印刷が発明されたためにエリート言語がヴァナキュラーな多様性にとって代わるものとなったのだというのは、衰弱した想像力の所産というほかはない。あたかも原爆の発明以後は、超大国だけを主権国としようというようなものである。歴史上、教育の官僚体制によって印刷機を支配的に独占する事例が見られたが、このことは、文章表現に新しい生命を与えたり、無数のヴァナキュラーな形態に新しい文学的機会を与えるために、印刷技術を利用することはありえない、といった論拠となるものではないのである。】

  • 1月25日 和田春樹『北朝鮮−遊撃隊国家の現在』1998年3月、岩波書店。【金正日は万寿台芸術劇場で自分に歓呼する人々を制しながら、申相玉に向かって、「申先生、あれはみんなウソですよ。ウソでやってるんですよ」と語っている。…金正日は世界映画のコレクターであり、映画を通じて世界を知っている。その現実感覚と彼の「劇場国家」としての遊撃隊国家のあいだには深刻なギャップがあり、それが時とともに拡大しているということである。………現在の北朝鮮はある部分では戦争末期の日本に似ている。工場は動かず、食べるものはなく、…本土決戦、本土玉砕と言われれば、それを覚悟していた。自分たちの指導者、天皇を信ずる以外にどうすることもできなかった。それでいて天皇が戦争は終わりだと言えば、それを喜んで受け入れ、天皇を批判することもなく、アメリカの進駐軍を歓迎し、天皇の「人間宣言」を受け入れた。もともと天皇が現人神だなどと思ったことは一度もないのである。天皇政府が国体護持を唯一の条件としてポツダム宣言を受諾したとき、国民が考えたことは、やめられる戦争なら、なぜもっと早くやめなかったのだということだった。国民は指導者の決断を求めていたのである。その日本の状況を思い出せば、現在の謎の国北朝鮮をもっともよく理解できるのは日本人であるように思う。】

  • 1月24日 鈴木忠志・中村雄二郎『劇的言語[増補版]』1999年2月、朝日文庫は1977年白水社版に新対話「『劇的言語』の現在」が増補されたもの。「サリンは理工系主導の現代的な犯罪で、連合赤軍は人文系主導の近代的な犯罪」とする鈴木忠志は【最近は非動物性エネルギーですね。コンピューターに見られるようなシステムとか、科学的な製品、そういうもののほうが、人間を規制する力が非常に強くなって、そのあり方が人間の意識や行為の仕方を規定してくるという社会構造が、はっきりと出てきた……非動物性エネルギーの支配する時代になりますと、逆に共有度が多い部分だけ、人間の共有不能な感覚というのも沈殿していく…情報量が増せば増すほど闇が拡がる】と言い、中村雄二郎は【デジタル文明がなぜ闇を生み出すのかというと、デジタル文明自身が、きわめて普遍的ですべてを照らし出す明るさを持っているからです。…デジタル文明がどんどん進んでいって、アカウンタービリティがなくなると闇がどんどん深まっていく…自分を問い直す訓練がないところで、どんどん世の中がデジタル化してくと、限りなく危ないものが溜まるのじゃないかな。】と言っている。

  • 1月23日 ▼1月22日付『毎日新聞』夕刊「文化」欄に、昨年の12月号で通巻100号を迎えた『デザインの現場』のについて「創刊時の編集長で現在も編集人としてかかわっている田中為芳・取締役第一編集部長」に取材した「作り手にこだわり続け…、『ちょっと先を生きる感じ』で」という記事(桐山正寿)。【最大の変化はコンピューターの普及だった。コンピューターグラフィックスの導入期に先駆的にコンピューターとデザインの関係を特集した。「が、結局、操作してるのは人間だから、コンピューターはツールに過ぎない。『こんなにすごいことができる』ではなく『道具としていかにうまく使えるか』ということが問題」と断言する】。▼安田さんとともに−安田さんを支援する会、きょう、1月23日(土)午後6時、赤坂区民センター(TEL03-5413-2711、東京都港区赤坂4−18−13、地下鉄青山一丁目・赤坂見附駅下車徒歩10分)、主催:安田さんを支援する会(仮称)。関連して、荒井良明読売新聞社会部あて「弁護士 3(1999年1月20日付貴紙朝刊)についての公開質問状」

  • 1月22日 平木敬太郎「一言もの申す」の第39回(1999.1.19)第40回(1999.1.21)「東大明朝は明朝体なのか? 1」「同 2」が、「多言語文字コードに関するプロジェクト全体への批判では決してない」としながらも「東大明朝は、明朝体ではない!」と断じ、「東大明朝が、なぜこのような奇妙なものとして完成しつつあるのかへの、憤り」を表明している。『文字に骨格が存在しない、というのは、骨格とは、書体に依存するものだということだ。東大明朝で採用されているのは、あくまで楷書の骨格であり、隷書や明朝体に適用しても意味がないのだ。例えば、漢字のバイブル「大漢和辭典」の、背表紙の題字の中の「漢」と「辭」は、当の大漢和辭典には収録されていない字形なのである。書き文字とはそういうものだ。』と正しく指摘する平木は『確かに、字典ならば、漢字一文字一文字の点画を、字面を一見しただけで分かるようにすることは、有用だろう…しかし、読むことにおいて、そこまでの正確さが必要なのだろうか?その代償として、組版の見栄えの良さだけでなく、文章を読む際の読み易さをも、そうとうに失うとしても、点画の正確さが必要なのか。まことに、学校の漢字教育に毒された感覚と言わねばならない。書き取り至上主義。楷書、いや、小学校の教科書のために規定された教科書体を、「正しい漢字」と思い込み、印刷物では最も多く使われている明朝体の骨格を、点画が不正確だと言ってしまう、美的感覚の欠如。』といっているが、そのとおり、正しい指摘だ。「一言もの申す」第33回(1998.8.14)「東大明朝批判の不可解」では、「GT明朝に対する批判とは、実は、東京大学、もっといえば学歴社会に対するルサンチマンの噴出ではなかろうか」といって東大明朝批判を「哲学的な観念論」と批判していた平木が今回、「ついに東大明朝のサンプル(平成明朝と比較したもの)を見ることが出来た」うえでのレポートだとのことだが、批判はやはり事実にもとづいておこなうべきだとの好例である。ところで、そのGT明朝、「1998年12月リリース」との発表(1998年6月)はどこへいってしまったのだろうか?

  • 1月21日 『日本経済新聞』1999年1月19日付夕刊「生活家庭」欄に「ゴシック体文字のゆううつ、落ち着きなく、感覚鈍らす…?−利用広がり批判高まる、書体にこだわる動きも」と題した記事。「『ゴシック体文字のはんらんが、人間の感覚を鈍らせ書き文字文化を駆逐しかねない』−−。専門家の間からこんな声が出ている。」という書き出しの同記事は、東京大学教育学部長・佐伯胖(ゆたか)、詩人・原子朗、評論家・紀田順一郎のゴシック体批判コメントをのせるとともに、『「フロッケ展」には、昨年春ごろから個人が造り出した書体作品が目立ち始めた。』こともとりあげている。

  • 1月20日 宮崎学今こそ、「反帝反スタ」の時代が到来したのだ。タイトルについての論議はあとにして、宮崎は「また一段と北朝鮮がらみの動きがでとる」と注意を喚起している。【まず、日本の公安当局が、在日の北朝鮮関係者に一斉に当たりをつけ始めた。…もうひとつは、韓国情報で、ソウルのカネモチがこっそりカネや財産を田舎に移し始めた。…まず、第一の公安の動き…の背景には当然、アメリカの国防長官来日、その前からの協議、そしてアメリカの「ハードランディング路線」と連動した動きである。アメリカ側は…この際一気に「ガイドライン」法案を成立させて「後方支援」体制を整えよう、という意図はあるだろう。…第二の動き、韓国のカネモチの動向というのは注目に値する。どこの国でも、ビンボー人は逃げ出す場所もカネもないわけやが、カネモチはちゃんとそのような場所を当然、確保する。韓国では「別荘」がブームであるし、その「別荘」が有事の際の逃げ場であることは常識や。……どんどんきな臭い「準備態勢」がとられていくなかで、当然、日本の自民党などは、これをキカイに一気に日本のファシズム体制を完成させよう、ともくろんでおる。…ヒットラーは最初の支持を、景気のええ話で中産階級からとりつけて政権を握った。日本はいま「一億中産階級」や。こわいのは北朝鮮の「テポドン」、ではない。この国の「民主主義者」やとわしはおもう。】そして宮崎はいう。【21世紀は日米安保の時代ちゃう。日中安保の時代、「大アジア主義」の時代である。言い換えれば、北朝鮮問題とアメリカ帝国主義の狭間で悩む日本、の時代は終わった。この時代を切り抜ける日本のキーワードは「反帝反スタ」である。…「日本はアメリカと北朝鮮の間で、湾岸戦争時のイスラエルになるでしょう」というのが和田の予言である。湾岸戦争には参加しなかったけど、SAMミサイルがいっぱい降ってきたのやったな。】そのとおり、ただ私は《反帝反修!》という。関連して下からの危険なナショナリズムは昨年12月の高橋哲哉の講演の要約。

  • 1月19日 Newsnet Asia "asian breath"1月19日付は、中国の失業者、過去最高の1600万人へと伝えている。「…労働・社会保障部の専門家はこのほど、今年の都市部の失業者が、都市人口の11%にあたる計約1600万人に達するとの見通しを明らかにした。例年公表される予測失業者数としては、過去最高。昨年の失業者数は、1300万人だった。農村の過剰労働者1億3千万を加えると、中国の失業率は17%に上るという。…」。萬晩報(よろずばんぽう)1月18日付の南田寛太「壮大なる中国の混沌--国営企業の民営化」は、「ひどい例は自分の職場の製品、備品、を『国営企業だから、国家の物は人民の物』と盗んで売り出す」事例を指摘し、「中国5000年の歴史の中では、いつも何百万、何千万人の流民が出てきているが、いまや、朱鎔基総理の「国営企業の株式会社化、民営化」政策は、億を超える流民を生むのではないかと思われる。これは、今後の中国の政治経済のみならず、世界の重大な不安定要素になるのではなかろうか。」と結んでいる。

  • 1月18日 伊豫谷登士翁+酒井直樹+テッサ・モリス=スズキ編『グローバリゼーションのなかのアジア』1998年11月、未來社。伊豫谷登士翁【国民国家を中心とする世界システムは、二度の総力戦を経るなかで、人種差別や性差別に対するラディカルな批判の場を作り上げ、人権をひとつの世界レジームに創りあげてきた。また、グローバル資本に対抗して、説明責任…を通して民主主義という手垢にまみれた制度を再興することが、有効な手段ともなりうるのである。民主主義や人権は、それ自体は、抑圧装置にもなりうる。地域主義や環境運動も、同様に、人々の差異化や差別化を推し進め、グローバル資本のなかに飲み込まれる。…グローバリゼーションが創り出す世界的な差異化に対抗しうる場を国民国家という装置の外にいかに設定しうるのか、あるいは新しい国家装置をつくり出すのか、国家装置に代わる公共空間を構築するのか、課題は残されたままである。】

  • 1月16日 MSNニュース&ジャーナル1月7日付の田中宇「ブラジル発の世界金融危機第3波が起きる?」。【昨年夏にロシアの金融が崩壊して以来「次はブラジルが危ない」という不安が広がった。ブラジル政府はIMFの支援を受けて昨年11月に財政再建を開始し、一時は危機が去ったと思われていた。だがその後、再建計画が達成できない可能性が強まっている。通貨の切り下げなど、南米全体からアメリカ経済にまで打撃を与える事態の発生を懸念する声もある。】▼『週刊エコノミスト』1月19日号(特集・投機と恐慌の経済学)のスティーヴン・ギル「アジア危機とアメリカの世界戦略」では「欧米では、アジア危機の元凶は国家管理の強さにあるとされがちだ。だが、カナダ在住の著名な政治経済学者ギルは、真の“犯人”は米国流の自由主義や米国の世界戦略であると論じる」。他に嶋中雄二・吉川洋「金融技術が発達すればするほど資本主義は危機に陥る」、岩井克人「投機マネーは規制できない、『特権』を享受するだけのアメリカ」など。