1月15日 ▼原裕司「安田弁護士はなぜ逮捕されたのか」〔『週刊金曜日』1998年12月25日号〕▼吉岡洋Hiroshi Yoshioka's SPACE IN CYBERSPACEに「『弱さ』と愛の物語」。ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳、集英社文庫、1998年11月刊)を、「弱さ」とは何か?という問題をめぐる物語としてとりあげ、「『弱さ』とは、本当は能力の比較といった問題ではない。…能力を判定する『公正な』比較の場には、決して姿を現すことがない…不可視なのである。…『弱さ』とは〈言葉を持たないこと〉だ…言葉によってではなく、むしろ言葉の欠如によって、つまり沈黙によってしか、語ることができないということである。」という吉岡は、「強い者とは、沈黙の中にある弱さを見ることができない存在のことである。それは利点なのか、愚鈍なのか?」と問いかけ、「人類が歩を進める『自然の所有者』の道」から退くという【弱さへの道とは、沈黙に対する感性を鍛えることだということもできるだろう。だがそうした訓練は、現代では本当に困難である。人類とその文明の「主流」から退き、弱さの国へと歩み入ること――それは、かつては宗教や哲学、芸術に課されたひとつの役割であった。今は、そうした名前すら、弱さの陣営からは剥奪され、空洞化されている(つまり、宗教も哲学も芸術も、割り切ったもの、解説可能なもの、雄弁なものしか認められていない)。】と書いている。
1月13日 なぜいま安田弁護士問題なのか? 安田弁護士の人柄を称え支援表明をする人びとも少なくない。が「内面の良心」は批評や運動の軸になりえぬ。第一、私は一面識もないが他人事とは思えないのだ。ピンクチラシを刷った咎で印刷業者が逮捕され、これを業界団体が「不祥事だ、もうしません」と声明し、労働組合も右にならえ、という〈清潔なファシズム〉への翼賛化が許せない、これと本質は同じと思う。安田弁護士への不当逮捕(強制執行妨害被疑事件)は、第1に国家権力による組対法(組織犯罪対策法)=平成の治安維持法の先行実施であり、権力による弁護士活動抹殺だ。中坊公平、黒田純吉と「住管機構」は、経済活動に国家権力が介入して行き詰まった後始末と隠蔽のための国策会社である。国民の税金を隠匿!している権力をこそ告発すべきではないか。それができぬから「住管機構」は警視庁が逮捕してから後追い告発したのだ。第2に、経済活動や労働問題などへの民事不介入は労働者庶民の永きたたかいの歴史によってかちとられてきた権利である。かつて激化する小作争議に対して国家権力は一方で小作調停法を公布(1924年7月)、他方で小作人側の弁護士活動の抹殺をはかった。同年11月、香川県の伏石争議では、日農組合員200人は地主の差押えに抗して稲の刈り取りを行い、共同脱穀・管理したが、権力はこれを農民の窃盗という刑事事件として弾圧、前川正一ら24人を起訴、日農顧問弁護士若林三郎は上京途中の列車内で自殺をはかった。歴史の教訓に学ぼう。第3に、安田逮捕は権力による弁護士道の否定であり、総翼賛化への突破口だ。ビッグバンを掲げて、オウムや暴力団、サラ金被害者などの弁護活動はやめよという踏み絵を踏ませようとしている。弁護士が依頼人の思想・信条、職業、門地や事件の内容によって弁護活動をできなくするならファシズムと同じではないか。「捜査機関との連携……刑事事件相当案件を探し出すのも弁護士の仕事の一つ」と公言してはばからぬ黒田らは岡っ引根性に染まった権力の走狗でしかなく、そこには誇りある弁護士の在野精神は微塵もない。【必読URL】宮崎学「中坊『黄門』と法曹大政翼賛会」、社長日記(安田弁護士支援モード)で“無名氏(弁護士と思われる)による批判文書”として紹介されている「黒田純吉論文『住専処理における弁護士の活動』自由と正義98年10月号の検討」
1月12日 エドワード・W・サイード、大橋洋一訳『文化と帝国主義 1』1998年12月、みすず書房。サイードは比較文学の分野から帝国主義を批判する。19世紀の帝国主義本国人の選択肢は【第一の方法は、われを忘れて欣喜雀躍と権力を使用すること…第二の方法は、イデオロギー的合理化をおこない、原住民を支配され管理されるべき民族に還元し再構築すること。…第三の方法は、〈文明化の使命〉をとおして西洋による救出と救済をおこなうこと。思想の専門家たち(宣教師、教師、顧問、学者)ならびに近代化産業とコミュニケーションの専門家たち双方から支援をうけて、後進地域を西洋化するという帝国主義的発想は、世界のいたるところで普遍的地位を獲得したのだが、しかし、マイケル・アダムスらが証明したように、こうした発想には決まって植民地支配が付随していた。第四の方法は、みずからの暴力行為の真実をみないでもすむような状況を確保すること。…第五の方法とは、原住民を、本来の歴史的な場所から引き離したあと、原住民の歴史を帝国主義の歴史の一部として書き換え加工すること。このプロセスは、物語を捏造して、反帝国主義的な試みをくじくことである。つまり帝国を歴史的必然とはみなさず帝国に反対するいかなる試みも不可能にするようなゆるぎなき帝国の存在を強調して、矛盾した過去の記憶を一蹴し、暴力―権力の行使も、異国情緒がもたらす好奇心のなせるわざにすりかえられた―を消去する物語をつくるのである。】
1月11日 家辺勝文の『連載:テキストと情報と情報化 ――「情報公開」を見直す』第2回“『ル・グラン・モーヌ』(1913)または「情報」青春小説”が出た。家辺はアラン・フルニエの小説『ル・グラン・モーヌ』を「青春小説、冒険小説等々である以前に「情報」小説という側面をもっている」として紹介している。【「情報」から組み立てられる青春という寓意は、人間にとって本質的でない、ある種の文学趣味の人生観とばかり言い切れるだろうか? 我々は数多くの体験をしながら生きているが、それに劣らず数多くの「情報」だけから構築される世界の中に生きているのではないだろうか。そしてその「情報」から見えてくる世界が多様に拡散することなく、一つに収束する保証がどこにあるだろうか。収束したとしても、その世界像は虚像かもしれないではないか。これらの対比は「情報」とは何であるかを考える上で一連の重要なポイントになるはずである。 】
1月10日 宮崎学「連載・突破者としての21世紀−塀の中の人に贈るキツネ目の男のメッセージ」〔『問題実話』1999年2月号、桃園書房、掲載〕。「中野会長の復帰問題」では「復帰があった場合に警察権力はどのように動くのか、逆に復帰がなかった場合には、警察権力がどう出るのか。中野問題は警察権力との関係の中で見ていかねばならない。…中野会長の復帰があった場合は、兵庫県警は山口組壊滅にいっきに動く可能性があり、復帰がない場合は、山口組壊滅作戦はとりづらくなるだろう。」と指摘する宮崎は「マスコミ・出版関係の再編」をも予測し、「いままでの大衆の閉塞感というのは、社会的なシステムがキチッと成立していく過程で自分というポジションが小さくなってわからなくなっていくということだったものが、これからは自分の有り様と世の中の落差があまりにあるという閉塞感になっていくだろう。そのような状況では、菅直人が言っている『中道リベラル』という考え方は、政治のリアリティーの中では成立しえない概念になってしまう。できるだけ人に優しい社会を作っていこうというようなことはありえない、それは嘘なんだ、ということがはっきりわかってくる時代になる。」とし、「99年は世紀末のまっ暗闇に入っていく…もう一度自分の置かれているところを見直して、居直って生きていくしかない」と結論づけている。
1月9日 ▼「a batons rompus ウェブノート」で家辺勝文は連載『テキストと情報と情報化 ―― 「情報公開」を見直す』を開始し、第1回は『「情報公開」と「情報」について』。【「情報公開」という用語は、立場が不明確で誤解を招きやすい言葉のように思える。実際に問題になるのは政府機関側からの「情報管理」や「情報提示」であり、情報を求める側からの「情報追求」である。立場を不明確にすることで結局得をするのは、そして損をするのはどちらの側なのか、よくよく考えてみる必要があるだろう。】と明快に指摘する家辺は【「情報」という用語を定義する前に、すでに「情報」とは、ある資料から調査者が何を求めているかによって相対的に変動する概念ではないかと疑われる。そのような用語を使って「情報公開」と言った場合、つまり何がどうなれば「情報公開」ということが起こったとするのかが、きわめてあいまいなままにならざるを得ないだろう。逆に言えば、誰もが自分の立場に都合のいい解釈をしながら「情報公開」についての議論が行われかねないのである。いわゆる「情報公開」について見直していくためには、まず「情報」という用語と概念について吟味する必要がありそうだ。】として【「情報」という用語について洗い直してみる】ことを提起している。連載のつづきが楽しみだ。▼港合同法律事務所「安田弁護士不当逮捕問題について」1月4日付〔将門Webから転載〕。
1月8日 ヴィクトール・クレムペラー、羽田洋・藤平裕之・赤井慧爾・中村元保 訳『第三帝国の言語〈LTI〉』1974年9月、法政大学出版局。「言語は血よりも濃い」というローゼンツヴァイクの言葉を引きながら、クレムペラーはナチの言語の技術を次のように特徴づけている。【これをわたしは、科学、哲学、芸術のどの部門にも応用のできるナチの深層様式と名づける。この様式は、国民の口から読み取られたものではなく、国民によって理解されえないし、理解されるべきではない。この様式はむしろ分離を求める教養人にむりやりのみ込ませるのである。/しかしナチの言語の技術の最高でもっとも特徴的なものが根ざしているのは、教養のあるものとないものとをこのように別々に記帳する点ではなく、二、三片の博学な知識で大衆に荘厳な気持ちを起こさせる点ばかりでもない。本来の業績は、そしてここではゲペルスは無比の大家であるが、種々の様式要素の遠慮会釈のない混合にあり―いや、混合という言葉は充分には当たらない―、……これは冷たいシャワーと熱いシャワーの交替による皮膚刺激のようなものであり、肉体的にもまったく同じく効果の著しいものである。聴衆の感情…この感情は決して静まらず、絶えず引き付けられては突き放され、引き付けられては突き放され、そして批判して理解するのには、呼吸するひまも残っていない。】
1月7日 ▼宮崎学「いよいよキナ臭い朝鮮半島」。「ユーロへの期待」とはすなわち「ドルへの不信」であり「基軸通貨」としてのドルの「隠れた危機を顕在化させてしもた」という宮崎は、「朝鮮半島で戦争が起こる可能性が、だんだんジワジワ高まってきている。……アメリカが不況でこけたら、日本もコケる、日本がこけたら、アジアもこける。中国もこける。そしたら世界中がこける、わけや。ロシア問題でも、どうもならんのに、これはそれどこやないがな。それを救いうる道は、たぶん、これしかないやろ。」と指摘している。「アジアの声」の「市場経済万能主義者の敗北」、「世界銀行の路線転換」などや「MSNニュース&ジャーナル」の田中宇「変質するアメリカの北朝鮮政策」も読んでおきたい。▼人権と報道・連絡会次回定例会「安田好弘弁護士の不当逮捕と報道」1999年1月11日(月)18:00〜、お茶の水・中央大駿河台記念館5階510号、主催:人権と報道・連絡会
1月2日 『読売新聞』1999年1月1日付のスクープ「『写研』が150億円の所得隠し」。【…「写研」(本社・東京都豊島区)が、法人税法違反(脱税)容疑で東京国税局の強制調査(査察)を受け、…社内の地下金庫から約85億円の現金と約25億円の割引金融債が見つかった。査察事件でこれだけの札束や割引債が発見されたのは初めて。同社は1975年ごろから13年間、売り上げを除外して約150億円を社内に蓄財。業績が悪化した92年ごろから、裏金のうち約40億円を正規の経理に戻して架空の利益を計上する粉飾決算を7年間続けていた。】同紙は「『これで全部ですか』『下にもあります』。女性社長は静かに答えた」とか「ワープロやパソコンが普及し始めたうえ、バブルが崩壊して92年以降、業績は急速に落ち込み…」「現金の中に、聖徳太子の肖像が描かれた旧一万円札が交じっていた」などとおもしろおかしく書きたてている。しかし、第1に、中小企業の脱税や粉飾は格別に変わったことではない。少なくない企業が利益を守るためやっていることである。第2に、写研は同紙記事も指摘するとおり、DTP化という時代の変化に応じた経営方針を立て切れなかった自らの経営基盤の弱さを、社内労働者や顧客としての零細写植業者からの収奪(「殿様商売」!)で補おうとして失敗した。結果、人心を失い、少なくない優秀な技術者は涙ながらに退社し、零細写植業者の苦闘は今も続いているのである。第3に、写植・組版・DTP業者はいかに生きるべきか。中小企業にとって真の金城鉄壁は人であり、労働者を中心とし良心的技術者、零細下請業者などの助け合いと連携した力で、生きるために有理有利有節(道理があり、利益があり、節度がある)のたたかいをすすめること、これ以外に生きる道はない。
1月1日 1998年は政治における「有事に備えた自自連立を軸とした総翼賛化」、経済における「物価下落と景気後退の相乗的悪循環すなわちデフレスパイラル」、が共にどんづまりまで進んだ年だった。現下のファシズム(といってよいと思うが)は、画一的な、同一の「顔」ではなく、きわめて“個性的”な「顔」で現れる。例えば「正義」の旗を掲げた中坊公平や黒田純吉、灰谷健次郎、坂村健など、として。宮崎学「1998年とはなんであったのか」は、「後世の歴史家が、この1998年のことをどう評価するのやろか?きっと「歴史の転換点が98年にあった」等々の説明を加える年であったとわしは思う。」といっている。【…わしは、アメリカをはじめとして、世界中すべての国家は、この20年間ですこしだけあった国家としての普遍性を自ら解体してしもたとおもとる。そんな中で、唯一、持続しているのが「市場」ではないのか?…ひとつの例が、12月に起きた安田弁護士の逮捕事件である。不良債権の処理、という金融市場の生き残りのためのパフォーマンスが日本の法曹界にあった普遍性をすべてつき崩した。安田逮捕、という事件はその政治性はもちろんであるが、それよりも何よりも市場の普遍性故に解体が始まったという構造性を見ることができるのではないだろうか?…市場からのファシズム、という、歴史がまだ見ない怪物が急速に地球を覆いつつあるのが98年という年だったのではないやろか?もっとわかりやすいうたら、資本主義国家は共産圏が存在したからまあ、努力もし頑張りしてきよったんやけど、それがなくなったら、限りない欲望に自らを食い尽くすような形で自壊していっとる。】
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