10月31日 『現代思想』11月号(vol.26,no.13)青土社刊、が「サイエンス・ウォーズ」を特集、読み応えがある。「普遍性のバックラッシュ」で金森修はいう。【多様な周辺が自らを限定的な特殊性として定位し、中心の横暴や専制に対して異議申立てをしようとする場合、中心が前面に押し出す普遍性や共通性を、偽装された普遍性、つまり本当は中心という名の「特殊な周辺」にしか関与しないものなのに、それを中心以外の至るところで妥当するものであるかのように提示された偽りの普遍性として見るという判断は、いったいどの程度まで正しいといえるのだろうか。中心と普遍とが、周辺群のなかから支配的に突出した特殊な周辺としての中心、特殊な個別としての普遍として把握されねばならないと考える発想は、いったいどの程度まで妥当性請求をしうるのか。】
10月30日 ●丸山真男・加藤周一『翻訳と日本の近代』1998年10月、岩波新書。加藤の「明治の初期の日本人は世界でもっとも歴史的感覚が鋭かった」「現在の日本の歴史関心の低さははなはだしい」という問いかけに対して、丸山は「第一の原因が漢学の衰退にあるとすると、第二の原因は学校制度と受験にある…歴史感覚と何ら関係のないことを一生懸命暗記するうちに、みんな歴史はきらいになっちゃう」と答えている。●川俣晶+XKP普及部会『Windows NT日本語処理ガイドブック』1998年10月、Windows NT漢字処理技術協議会。【日本語に限定して、シフトJISではなくUnicodeを使用した場合、以下のメリットが生じます。・JIS X 0212補助漢字に相当する文字も使用できる。・外字領域が1880文字から6400文字に拡大する。】
10月25日 ●鈴木貞美『日本の「文学」概念』1998年10月、作品社刊。「文学」という言葉が言語芸術を意味する概念として定着したのはいつからか。鈴木は英語や中国語の「文学」、日本における「文学」の歴史、訳語としての「文学」……、と丹念にたどり、「反戦運動さえ組織できずに、ずるずると戦争の泥沼に引きずり込まれてしまったのは『近代的自我』が確立していなかったからだ、と反省」するという「近代的自我」史観を批判し、「近代化=西欧化」および対立軸としての「反近代=伝統主義」という図式の無効を宣言している。そして「文学史」の再編として代わるべき概念、「他者を感動させる言葉の芸」という「文芸史」を提起している。新鮮だったのは「文学に何ができるか?」という問いが貫かれているからであろう。●10月22日付『読売新聞』に読売書法会創立15周年記念シンポ「これからの書を展望する」の模様が見開きで掲載されている。「文字はたんなる伝達の手段ではない。そこには言葉の霊的な力が込められている」(白川静)、「漢字とは字の成り立ちから言って、縦に書くもの」「『縦書き』の防波堤に」(大岡信)、「書というものには全部声が入っていたと見るべきなんですよ。有声の書としての王羲之、空海と見た方がいい」(松岡正剛)。
10月13日 ●トッパン生活文化研究室IMUSE展第8回「デジタル環境でのアートディレクション−DTPに対するアートディレクターの方法論と実際」(相波恵/太田浩司・宮崎光弘/佐藤直樹/鈴木一誌/MATCH/松嶋和実/小林牧)、会期:1998年10月8日(木)〜12月4日(金)〔土・日・祝は休〕10:00-12:00、13:00-17:00、千代田区神田神保町3-29共同ビル1F 電話03-5275-1657●宮崎学「突破者としての21世紀」〔『問題実話』11月号掲載〕。宮崎は、いま、ヤクザが変質してきており、【市民社会の虚構とヤクザ社会の虚構は同質のものであり、市民社会の中でいま起きているわけのわからない犯罪と、ヤクザ社会の中で起きている同一組織内の主導権争いというのは同質のものである】と指摘している。
10月12日 鵜飼哲『償いのアルケオロジー』1997年10月、河出書房新社刊。藤岡らとの闘いのなかで鵜飼は除京植からの「肯定的な日本人像というものがないと、日本のいわゆる国民的な主体性をすべて右派の方に持っていかれてしまうのではないか」という問題提起をうけて、『アリランの歌』におけるキム・サンの証言を挙げている。1919年当時、日本の共産主義運動は「朝鮮人その他外国の同志を差別することがなくて、実に国際的な気質を持っている」というのだ。しかし1923年、関東大震災に続く虐殺によって信頼は破壊される。鵜飼は「19年のキム・サンの証言を信じることは、23年に破壊されたこの信用の回復に歴史的責任を負うという要請を必然的に含むはずです」と提起している。
10月11日 ジャン・ジョゼフ・グー、土田知則訳『言語の金使い−文学と経済学におけるリアリズムの解体』1998年9月、新曜社刊。グーは経済における金本位性の消滅と事物を完全に表象できるという支えを失った言語とを対比し、「言語と貨幣(…記号と商品)との相同性」を明らかにしている。【具体化された一般等価物がもはや存在しなくなると、理念的あるいは想像的な機能が、交換を超えた超越性を取り戻す。一方、自律的になった交換主義的機能は、形式主義的論理や代用貨幣−浮動する交換=兌換不可能なシニフィアン−の操作に全面的に委ねられたままである。したがって、もはや理性による形式化−銀行やコンピューターがその最も顕著な政治的示現形態と言えるが−に対立しうるのは、疎外された交換によっては媒介されない、「絶対的」で「初源的」な意味作用の探求をおいてほかにない】
10月10日 承前。『文藝』鈴木一誌インタビュー。1.転倒する危機感、2.文字へではなくページへ、3.ノイズを回避する凡庸、4.引用と劣化【あらゆる表象の状態を変えるというのは、それを劣化だととらえる他者がいると思わなければならない。あらゆるプロセスには、ある判断と解釈が介在して、それを劣化と呼ぶということは、判断と解釈という人間の行為一般を抑圧することになりますよね。軽々しく劣化と言うべきではない。引用の背後に自分は隠れ、批評性をやりすごしてしまう。結局、自分がする引用は劣化していないと思っているんでしょうね】、5.ヴァーチャルな権力【包摂という知的な操作は、個別の事例を大原則に収容していくわけだから、体系性がないと無理なのでしょうね。体系がないから要素に還元し、体系がない包摂という全体性に向かう作業ができない。でも体系がないというのを体系にしようとしているとも言える。坂村さんが漢字データベースに関して、「コンピュータにやらせるぐらい私情をはさまないのがいい」のだが「BTRON以外でこれをまともに扱えるコンピュータはありません」とおっしゃっている。コンピュータそのものを透明な装置だと措定しようとしている。コンピュータこそ使う人しだいなんじゃないですか】
10月9日 『文藝』1998年冬号、河出書房新社刊、が“小特集・「文字コード問題」とは何か”。インタビュー鈴木一誌+ききて金井久美子「透明性は批評を封殺する−言葉のもうひとつの現場から」、柴田忠男「漢字は燃えているか?−最近の漢字をめぐる動きと東大明朝」、鈴木一誌「『六万四千漢字』への批評、あるいは問いかけ−『テクストは文字の集合』か?」。他に丹生谷貴志「文藝時評"98」も「六万四千漢字」に言及している。必読!必携!
10月8日 小森陽一『〈ゆらぎ〉の日本文学』NHKブックス、1998年9月、日本放送出版協会刊。ナショナリズムの再検討。小森は【重要なのは、「日本」−「日本人」−「日本語」−「日本文化」の結合が、あたかも自明な統一体のように錯覚され、自らの存在が、その統一体を構成する属性であるかのようにひとたび認識されてしまうと、それは非常に強力な差別と排除の思想と言説を生み出す装置になることを、いま、あらためて自覚し直すこと】という。本筋そのものでない端々の「一九九五年……過剰なまでの宮沢賢治ブームは、あたかも阪神大震災とオウム真理教事件の悪夢からの、国民的な逃亡であるかのような観さえ呈していた」というような小森の記述にも共感!
10月6日 『日本語学』98年10月号は「特集・文字の歴史と現在」。田村毅「六万四千漢字と検索システム」、佐藤栄作「漢字字体とは何か」、當山日出夫「情報交換用文字セットについて−情報文字論に立場から−」など。田村は「私自身は漢字の専門家ではな」い、との恒例の前口上の後、「予想される批判や反論に繰り返し強調しておくと、われわれは漢字使用に混乱をもたらそうとしているのではなく、既存の規格に反対しているわけでもない。……漢字のあるがままの姿を可能な限り現在から過去にさかのぼってとらえること、そのためには将来あり得べき日本語テクスト・データベース構築に必要と思われる漢字フォントを、今のうちに可能な限り用意」するのだ、という。かくして第一次資料の収集という方針は霧散し、エレメント組み合わせによる“あり得るはずの”“すべての”文字収集へと「純化」?したが、これを煽っているのが坂村健「どんな少数言語にも対応、トロン方式の言語処理」〔朝日新聞の科学ニュース誌『SCIaS(サイアス)』10月16日号「特集・地球言語の時代」掲載〕。曰く「私は漢字の数が多い少ないとか、どの漢字を選ぶべきだとか、興味はない……コンピュータ科学者の立場から、事実上無限に文字を区別することも、世界中の言語を載せることも、技術的に可能なのだということを提案している」。「骨」のある!?懲りないセールスマン!この人、進歩がないね。他に西垣通「地球規模のネットワークにのって世界を駆けめぐる諸言語」ほか。
10月2日 吉岡洋『〈思想〉の現在形 −複雑系、電脳空間、アフォーダンス』講談社選書メチエ、1997年8月、講談社刊。「テクノロジーvs.言語文化という敵対関係」は「表層」にすぎず、「言語がすでにしてテクノロジーで」「言語とテクノロジーとは、連続したもの」という吉岡は【意味作用の不安定性こそが、文字言語の大きな可能性を開いた】という。【テクノロジーをその原理的形式において考えてみるなら、それは行為の手続きを形式的に外部化すること……言語の発生、とりわけ文字言語の発生は、記録による知識の外部化という意味をもっていた……言語として外部化することによって、情報は物質的に固定可能になる。と同時に、意味は直接的明証性を失って不安定になり、翻訳や解釈といった複雑なプロセスに開かれたものとなるのである。この意味作用の不安定性こそが、文字言語の大きな可能性を開いた】【テクノロジーは、言語のまったくの外部からやってきた侵入者ではない。むしろ近代的テクノロジーの方が、言語のなかから派生してきたのである。……いってみればテクノロジーという形をとおして、言語はみずからのより深い本質を、わたしたちの前に明らかにしつつあるともいえるのである。】なお序章は吉岡のWebページで公開されている。
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