9月15日 岩瀬達哉『新聞が面白くない理由』1998年6月、講談社刊。【「記者クラブ」の運営費を各公的機関に負担させ、商品としての新聞を製作したのち、それをさらに税金で買わせ、「記者クラブ」に配布させ】るという、トンデもない日本の新聞社の実態(巻末に30ページ!もの便宜利益供与一覧表あり)など、事実にもとづく告発からは、新聞はけっして公器などでなく「私器」だと改めて教えられる。また大手新聞社のなかで朝日だけが校閲部を完全に廃止する方針だということを、私ははじめて知った。文字と組版の立場からいえば、校閲(校正)をなくしてよい製品ができるはずはないから、朝日って最低、救えないと思う。実はこの本、『創』9月号、同10月号や『噂の真相』などで、本多勝一・疋田桂一郎らと岩瀬達哉との対立の問題として知り、注目しつづけてきたのだが、《ものを観る眼、感じる心》からいって、私をして岩瀬支持と言わしめるに十分な本であった。
9月14日 9月18日(金)から10月25日(日)まで『「バベルの図書館」文字/書物/メディア』が開催される。10:00-18:00(月曜休館)、NTTインターコミュニケーションセンター(東京都新宿区西新宿3-20-2東京オペラシティタワー4F、京王新線初台駅東口から徒歩2分)、入場料800円。【われわれは知識や情報をため込めばため込むほどかえってバベル的迷宮にはまり込んでしまう――ボルヘスの作品は図書館や書物から、データ・ベースやワールド・ワイド・ウエッブなど現代のメディアの問題にまで、様々に想像力を飛翔させてくれます。この展覧会はボルヘスの作品に直接追従するものではありませんが、情報のバベルともいうべき現代において、文字とか書物とか、あるいは映像などのメディアがなにをなしうるのか、あるいはなしえないのかを探ってみようとするものです。ただし、文字や書物の伝統を少しだけずらせた視点から眺めてみようとしている人たちの作品を中心にしています。直線的に引き継いでゆくのではなく、わずかに脱線してみようとするときに力になってくれるのは諧謔の精神ではないでしょうか。】【……徐冰の本は、糸で綴じられていかにも漢籍の姿をしていますが、決して読むことはできません。存在しない文字で印刷されているからですが、それらの文字が一見いかにも漢字にみえるのが可笑しいのです。この「新しい漢字」を四千字も作り出した無用の努力には微笑で、そして同じく漢字を共用する日本人としてはいささかの苦笑で応じるほかないでしょう。そして最近の作品ではアルファベットを漢字もどきに書き表す方式を発明して、欧文を漢字化するという倒錯的システムを展開……】(案内チラシから)
9月12日 直井靖「PDFと字体−Acrobatで何ができるの?今後の可能性は?」が『PREMedia』10号(1998年10月、印刷出版研究所)の特集「PDFのグウな活用」のなかで、字体問題を扱っている。【わたしたちは、日常、いろいろ工夫しながら検索しているし、いつだってそれが完全である保証なんかない。……現実はノイズだらけです。文字コードの問題になると、どうしてみんな自分自身のニーズとかけ離れた非常に特殊な例を挙げてまで「完全性」を求めるのか? 山の彼方には理想の文字コードの国があるんでしょうかね?】直井は、第21期国語審議会試案をCIDフォントの字体切り換え機能でどの程度再現できるかを実地検証したものを図示し、Adobe Acrobat日本語版の次期バージョンでサポートされる日本語フォントのエンベッドへの期待、さらにアドビの次期グリフセットAdobe-Japan1-3の可能性についても述べており、必読。
9月10日 ●読書録の熱心な読者の方から9月9日付記事に関連して「狆」とは何か、という質問をいただいた。私の座右の書、竹内好編訳『魯迅評論集』1981年、岩波文庫、から引用して答えとしたい。【ぼろを着たものが通りかかると、狆ころはキャンキャン吠える。しかし、かならずしも飼主が命じたり、けしかけたからではない。狆ころは、しばしば飼主よりもやかまし屋である。】さいごの文章は、尾坂徳司訳の1963年、青木文庫版、だと【チンコロは往々にしてその飼主よりもやかましい】となっているが、やはり竹内訳のほうがよいと私は思う。●「半月城通信」で天皇と戦争責任(7月12日から8月2日まで計3回)が掲載されている。
9月9日 加藤弘一や島田雅彦、坂村健らにあらわれた「文字観」に対する批判は、今後も「狆はことに水中に打ち落としてさらに追い打たねばならない」という立場で続ける。これが私の態度だ。だれのため何のためを問い続けねばならない。マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』1998年、岩波文庫、を読む。【意味をそなえた人間の行為につき、思考を凝らして、その究極の要素を抽出しようとすると、どんな場合にもまず、そうした行為が「目的」と「手段」の範疇に結びついていることが分かる。われわれがあるものを具体的に意欲するのは、「そのもの自体の価値のため」か、それとも、究極において意欲されたものに役立つ手段としてか、どちらかである。……科学的考察の対象となりうるのは、目的が与えられたばあい、手段が、どの程度適しているか、という問いに答えること……もしある考えられた目的を達成する可能性が与えられているように見えるばあい、そのさい必要とされる手段を適用することが、あらゆる出来事のあらゆる連関をとおして、もくろまれた目的のありうべき達成のほかに、いかなる結果をもたらすか】そうだ。だがしかしヴェーバーは最後に言う。【科学は、かれを助けて、あらゆる行為、したがって当然、事情によっては行為しないこともまた、それぞれの帰結において、特定の価値への加担を意味し、したがって通例……他の諸価値にたいしては敵対することになる、という関係を、意識させることはできる。しかし、選択をくだすのは、意欲する人間の課題である】と。
9月8日 『群像』1998年10月号(講談社刊)「批評季評」の芳川泰久「文字・物語・物自体」は、いま起こりつつある情報論的パラダイムシフトを取り上げ、東大明朝についてもふれている。【……単に、使わない数万もの文字数が恒常的にパソコンの日本語ソフトやワープロに組み込まれたら、文字選択が異様に煩瑣になるだろうと、危惧の方が先に立つ。率直に言って、「GT明朝」の推進者の一人である坂村健のように「あらゆる文字を区別しコード化する」という欲望が理解できない。それは、文字の欲望の怖さを知らないからか、それとも承知の上でのことなのだろうか。】と問う芳川は、建畠晢「『耳なし』芳一異聞」の、文字の支配を受け入れたエリートである和尚が芳一の身体に般若心経の文字を書いたときに耳だけを忘れたのは、実はそれが文字にとっての不要のものゆえ、という異聞を引き、「あらゆる文字を区別しコード化」して所有するという不穏な権力性に対峙するものとして「文字の欲望の及ばない」「何ら文字を排除はしていない」「文字に対して無限に開かれている」文盲の象徴としての盲人である芳一の存在に着目する。【「GT明朝」の問題点は、六万四千字の選択の体系性と規則性の基準がなんら示されないことで、それは、ルールを共有させないでゲームへの参加を強要するに等しく、そのとき発生するのは、ルールを所有する者の権力である。】とした芳川は、丹生谷貴志「『名づけ得ぬもの』と『語り得ぬもの』」の、「名もなき花が…」と口にした侍従に「昭和天皇」が「名もなき花などありません」と叱責したという話に思いをつなぐ。【文字という花を想起してみるなら、「あらゆる文字を区別しコード化する」者とは、ほとんどだれにも使用されたことのない文字を指して「コードなき文字が……」と疑問を口にする人間に対して、「コードなき文字などありません」と答える者のことだ。…】この丹生谷の言が説得力を持つのは【「すべてのものが微細な細部にいたるまで、名づけられてあることに固執する」ものとしての「天皇」の傍らに、「名づけ得ぬもの」「物自体」を置いて思考する】からだ、という。そのとおり! もっとも己が世界の中心にいると信じて疑うこともない莫迦どもは、自らの権力性が見つめられていることにはさいごまで「鈍感」なのだろうが……。
9月7日 酒井直樹「丸山眞男の陥穽−ナショナリズム、レイシズム、ヒューマニズム」(『大航海』No.24、1998年10月、新書館)。『日本政治思想史研究』をとりあげながら、日本植民地体制下にあった朝鮮人がなぜ「朝鮮人だって日本人だ」という主体化の論理にすがらざるを得なかったかを、丸山は見ていなかったと批判する。純粋の日本人と「不純な日本人のなり損ない」の間にはたえず本来的な日本人や日本文化を求める運動が起こり、その「同じこと」への要求が差別を生む、人種主義と人間主義とは共犯関係にあるのではないかと酒井は問題を提起している。ここから酒井は自由主義史観を批判する。【歴史の否認には、当事者が不当な告発の被害者になっているという、自己憐愍の意識が隠れています。……忘れてしまいたい過去に直面することに失敗したときにはああいう反応は必ず出てきます。なぜなら、過去に直面することには、自分たちとは違った人々に直面することが必ず含まれているからです。……しかし、そのような過去を否認することは、一定の人々を排除すること……国民主義は必ず普遍主義的な人間主義の契機を含みますが、同時に国民主義は排除の運動そのものですから、その排除の機制はこのような過去を否認するためにも動員される……国民主義と人種主義の連帯という視座をもたないとき、理想的なリベラルな理念を誠実に追求した人でも、簡単に自由主義史観的なレトリックに取り込まれてしまう】私は同意する。関連URL:自由主義史観という開き直り史観に抗議
9月6日 山口昭『債権者会議』1998年8月、太田出版刊。「事実をそのままにして、倒産の実像を伝えたい」という意思から人名まですべて実名という、会社倒産のすさまじい事実の記録である。かつて青木雄二の名作『ナニワ金融道』(講談社)の読後の感想のなかに、東欧の人びとはこれを読んでから資本主義に行くかどうか決めるべきだったという投稿があったが、それにならっていえば「自由な資本主義の勝利」を饒舌に語る人びとは本書を読んで、“商品経済が支配的な”社会の“支配階級の思想が支配的な”社会の恐ろしさを考えてみるべきだ、といいたい(もっとも直接の経験を味わわざるをえなかった私にとっては決して二度と考えたくも感じたくもない世界だが)。資本主義は行き着くところまで行った。昨今の政官財の傍若無人の反社会的行為は枚挙に暇なく、連続する毒物事件は内的に腐朽したこの社会の闇を照らし出している。
9月5日 9月4日付『WIRED NEWS』によると、米マイクロソフト社の社長スティーブ・バルマーが9月2日、シーボルド会議で語ったところによると、同社は『Windows NT』で、パブリッシング市場におけるシェアを伸ばそうとしているという。とはいってもニュースの“締めくくり”は【……だが、マックに忠実な聴衆はまだ懐疑的だった。「マイクロソフト社が、クロスプラットフォームのインターネットベースの標準を保証するという自社の立場をあそこまで徹底的に述べるのはなかなか興味深いことだ」と、匿名の、ある開発者は言う。しかしこの開発者は、Windows以外のプラットフォームを使っている開発者が、マイクロソフト社の技術を使おうと思ったときに必要となるツールを、マイクロソフト社は提供していないと語った。】となっているが。
9月4日 9月21、22日「国語施策懇談会」が「漢字字体」をテーマに(「言葉遣い、敬意表現」と併せて)、東京・赤坂の国際交流基金国際会議場で開催される。「漢字字体」のほうは22日午前に意見発表(鳥飼浩二[文筆業]、森治郎[朝日新聞社総合研究センター])。午後にパネルディスカッション「表外漢字字体表の在り方」(伊藤英俊氏[NECオフィスシステム]、小林一仁[桜美林大、国語審議会委員]、豊島正之[東京外大、JCS委員]、中原尚道[元大修館書店編集部]、中村卓一[読売新聞社編集局校閲部]、司会:水谷修[名古屋外国語大、国語審議会委員])。 参加費無料。申し込み方法など詳細は「池田証寿のページ」に紹介されている。
9月1日 ●JAGAT(日本印刷技術協会)のページに「テキスト&グラフィックス研究会」の会報86号から、として「文字は天から降ってこない」、「期待されるフォント利用の高度化」が載っている。とくに前者は日本文藝家協会の要望書に対するまっとうな批判である。【活字も写植の文字セットも最初から今の形で存在していたのではなく、要望があるごとに追加整理されてきたのである。……本を作るという作業側であらかじめ文字を完璧に用意しておくことはなかったが、求められれば作るという態度は一貫し……このことについて、出版社も著者も異論を唱えたことは過去にはなかった。……JISで打てない漢字があることは、1978年に官報でこの規格が公表されて以降自明であり、誰でも外字を作ってしのいでいる。このことがどうして20年経った今、要望になるのだろうか?……普及したあとで発言があることは、実は社会や文化を語っているのではなく、「文芸家」は自分の本作りにしか関心がないことを示しているのではないだろうか。新聞社でもCO-59からCO-77など文字コードの制約の上で仕事をしており、制約があったからといって新聞社が日本の文化をないがしろにしていると非難されたことはなかった。……JISがJIS以外のものに基準を示さないのは当たり前であり、非難は見当はずれである。……もし一つの軸に同心円的に要求の段階があるのなら、国なり公共の仕事として、順次規格を拡大していけばよい。しかし実際は分野の異なる要求を混ぜ合わせるわけにはいかない。……これを読んで改めて感じるのは、情報化が本質的な問題を孕んでいないことであり、かつての活字や写植と同様に具体的な文字の要望を挙げることが先決である……】●『日経ビジネス』8月31日号が「世界経済 暴風域に」を特集し、「世界経済はいま、恐慌のとばくちに立っている」という「有事」の危機感が語られている。しかし物価下落と景気後退の相乗的悪循環(デフレスパイラル)は法則的なものであり、国家が経済介入すれども危機は避けることは不可能なのである。
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