|
日本的前衛とアジアの大衆 #3/3
|
五 |
一九一三年,内田が序文を書いている黒龍会刊行の『対支策断案』は,辛亥革命の状況について,中国の統一は不可能であり,日本としては「支那分割の大勢」に対応すべきであると主張した。それによれば,まず南満州と東蒙古地域での日本の統治を確立し,満蒙問題を解決したならば,続いて「北守南進」策をとって,揚子江流域に経営を拡大し,対中貿易の指導権を握るようにしなければならないとされた。内田は,ここでそれまでの中国の「保全」から「分割」へと立場を転換させている。内田は,南満州と東蒙古に日本の保護国となる「独立政府」を作ることを,当時の首相の山本権兵衛に申し入れている。さらに同じ年の十月に刊行された『支那観』において内田は,彼の中国分割案の根拠ともいうべき見解を示している。内田によれば,中国では「自家を中心として其の政権慾を逞しうする凶漢に匪ずんば自家の私利私福のためには如何なる羞恥をも忍受するを辞せざるの険民」が社会成員の実態であり,彼らは「国家の何物たるを解し,憲法の何物たるを解し,民権の何物たるを解し,自由の何物たるを解し」ていないのだった。中国に対する権益支配を主張した文において「民権」とか「自由」という言葉が使われているのは,いささか噴飯ものだが,そのような中国に対して内田は,「専ら高圧的手段を取り,酷烈に我が勢力を扶植」することという露骨な侵略構想を提案している。内田らにとっては中国の革命ではなく,日本の権益追求のみが問題だったことははっきりしているが,しかし,中国の革命派からすれば,革命を利用せんとする簒奪的な内田らの立場は,にもかかわらず内田の側においては,つまり日本の側においては民族独立の革命でもあったのである。
日本における民族独立とアジア侵略が一つのものとならざるをえなかったのは,日本がアジアの中で先進的に近代国家となったことの結果である。そのような日本にとっての最重要課題は,帝国主義時代の欧米列強の中での日本の独立であり,存続であった。近代国家として自己を確立した日本にとって,アジアは,反欧米のアジアとして独立した日本によって啓蒙されるべき前近代的未開に等しかったことは「支那の救済」を言う内田の中国観においても明らかである。そのような日本の主観が可能なのは,日本こそが唯一の独立アジアであり,独立アジアの「祖国」という観念があったからである。近代国家として独立しながら,なおかつアジアであるという二重性の内容は,すでに概観した反西欧的近代としてのドイツ的近代の本質として抽出し得るものであり,日本はドイツ的な反欧米的(対欧米独立的)近代として,独立アジアである自己を形成したのである。ということは日本にとっての独立アジアとは,ドイツ的アジアなのであり,そして日本がアジアに要求したものは,ドイツ的アジア=日本を範とする反欧米的近代としての自己形成だった。それは日本版「中華」思想によるアジアの啓蒙であると同時に,日本への連帯の強要だった(1)。アジア主義は,その先兵にほかならなかったが,そこには日本サイドからすれば,帝国主義の「包囲」下にあった旧ソ連のスターリン時代の一国社会主義の世界戦略に似たものを,見て取ることが出来るだろう。欧米の帝国主義に対してアジアの独立とそのための連帯を主張するアジア主義にとって,最初の近代国家日本は,その自己意識においてアジアの反欧米的独立闘争の「参謀本部」であり,民族独立の「革命国家」にして,運動を指導する前衛「党」的存在であったと言えるだろう。内田は「吾人にして,若し支那四百州,四億人を救済すべき天職あるものとせば,吾人はまた人道の上に於て,ロシア一億三千万人に対し,開導の労を執らんが為めに,半臂を分かつも亦可ならず耶」(『露西亜論』)と,日本の役割について述べている。内田によれば日本は「君子民族」であり,「世界文明の上に貢献すべき」ものである「大洋的天然の宗教」と「智仁勇の人道」が備わっていたが,それをもって「二十世紀の世界を改造して,完備満圓なる世界となし,更に狭量なる人種上の黄白的区別を打壊して,兵気を日月の光に消散せしめば,吾人が先王建国の精神は,於是事実上,世界を征服せるなり,天下を統一せるなり」と言う。内田の構想は,まず「日韓の合併」を達成し,次いで「満蒙に於ける鞏固なる地歩」を確立し,最終的には,日・中・朝の三国が一つとなった「大東合邦即ち亜細亜連邦」を組織することだった。
アジアとはまず,アジア独立の前衛党である日本に指導される大衆であり,そしてその運動は,日本を独立アジアの「祖国」とするコミンテルンのような拡大路線となる。コミンテルンのいうインターナショナルが,社会主義の「祖国」ソ連を中心とした世界の衛星国化とすれば,日本の第二次世界大戦期の大東亜共栄圏構想に至るまでのアジア共栄の思想は,日本版のアジア・インターナショナルと言えるだろう。スターリン主義の由来が,社会主義の「一国化」と帝国主義による包囲にあるとすれば,日本の置かれていた状況は,民族独立の「一国」状況と欧米帝国主義の包囲的重圧であった。このような包囲的重圧の対決的顕現が,日本の第二次世界大戦参加直前の所謂「ABCD包囲網」にほかならなかった。第二次世界大戦のアジア地域戦は,一つの側面においては,まさに「侵略」としての啓蒙であり,アジアの独立化=日本化のための啓蒙戦争だったと言えよう。と同時に戦争という総動員状況においては,資源という「軍資金」の確保が不可欠となる。すなわち,アジアからすれば,植民地支配であり,侵略であるが,日本からすれば,反欧米的独立のための長期戦向けの陣地確保と,石油をはじめとする資源等の「軍資金」調達作戦だったと言えるだろう。そして,そもそもこのような「啓蒙」と「軍資金調達」が近代日本のアジア主義の内実にほかならなかった。このようなことは,される側からすれば,相手が日本であろうとどこであろうと,その内容は「侵略」や「収奪」にすぎないことはいうまでもない。しかしこの構造は,ある意味では啓蒙として始まる近代においては普遍的とも言えるものであり,それを批判し,超えていく思想は。まだ現れていない。
- (1)
第二次世界大戦期のフランスの対独協力派(コラボ)の作家だったドリュ・ラ・ロシェルは,戦前期の思想遍歴を綴ったとされる小説『ジル』の末尾で,スペイン内戦に参加したファランヘ党側の人物に「ひとつの思想のヘゲモニーは,いつだってひとつの国のヘゲモニーと表裏一体をなしている」と語らせているが,この立場からすれば,近代的啓蒙は,フランスのイデオロギー的支配ということになる。「啓蒙」を同時に「侵略」として体験したのがナポレオン軍に占領されたドイツだった。ドイツでは学生の義勇兵を中心に「侵略者」フランスに対する「解放(自由)戦争」が展開されるが,啓蒙=侵略としてのフランスに対する抵抗は,反啓蒙の先鋒という結果を導きだしている。啓蒙=侵略に対する,解放(自由)としての啓蒙の獲得が近代ドイツの課題となるが,それが可能となったのは,すでに述べたように第一次世界大戦の敗北によるヴィルヘルム帝国の崩壊後の国民ボルシェヴィズムにおいてだった。それの意味するところは,対抗性による,近代=啓蒙=侵略からの「偏差」である。ドイツは,その反西欧的独立性の偏差を持ち,それを基準とした近代日本は,さらにアジア的独立性の偏差を有したといえる。そして日本は,アジアに対して日本的偏差を要求したのである。 〈戻る〉
|
付 |
第二次世界大戦は,いうまでもなく,日独伊を中心とする枢軸国家群と,米英ソ中を中心とした連合国国家群との戦いであった。対日,対独の主要二戦線において統合的な作戦司令部を形成した連合国側に対して,枢軸国側の同盟は,潜水艦による「深海の使者」的交流という戦争のエピソード以上の意味を与えられていないのが現状だろう。
日独の同盟については,政治・外交史の方面での考察はあるものの,それがはらむ思想については,これまでまったく注視されることはなかったといっていいだろう。それは,本土決戦と共に戦後の考察において欠落していた戦争の一つの側面でもあった。というのも,この両者は,戦後とは異なる内容で,戦争の「その後」を示すため,戦後的視点にとっては封印しておかなければならなかったからである。たとえば,日独枢軸は,戦争期における「海外盟邦」の問題を提起しており,それは戦後に対する亡命による戦争継続の思想を示している。また,本土決戦は,戦後の存在論的不在の思想を提示するだろう。それらは戦争の周辺的出来事であり,回避された現実だったが,実は,そこにこそ日本の戦争の現実が書き込まれているのである。しかし,これらを封印して素通りしたことにより,戦後は,ついに戦争を経験しえず,したがって戦争を思想的に問題とすることは出来なかった。そしてそうであるがゆえに戦後は,戦争の否定にすら到達しておらず,戦後の実態はつねに前戦争にしかすぎないのである。
このような戦後の性格が明らかになったのは,戦後批判の運動でもあった六〇年代末から七〇年にかけての闘争においてだろう。あの運動については,様々な総括が可能であり,今なお十分にはなされていないが,その最終局面において革命戦争という内容で「戦争」が呼号され,「軍」の創設が主張されたことを看過してはならない。戦争と軍とは戦後が否定してきたものであり,あの運動は,それらを浮上させることで,戦後否定の戦争を対置したのである。しかもそれは,戦後に対する戦前回帰的な戦争(大東亜戦争肯定論的な戦争)とは異なり,戦後以後を内在させた戦争でもあった(1)。それは,対極にいた三島由紀夫の場合にもいえるだろう。左翼の革命戦争と革命の軍隊に対して独自の英霊神学と能動的ニヒリズムと紙一重の文化防衛論に基づいた三島もまた,そのための軍思想を提出したのだった(2)。この浮上した「戦争」と「軍」は,周知のように一方は,自決という一人本土決戦として,他方は,革命の枢軸である「海外盟邦」への亡命による徹底抗戦となり,この戦後列島の市民社会からは姿を消した。しかし姿を消したということは,問題が消滅したり,解消したことを意味しはしない。むしろ,姿を消したものは,歴史の深層と連帯し,つねに対極の当事者である現実をトータルに相対化しているのである。その意味では,日本の戦争は,まだ思想とはなっていないと言えよう。
- (1)戦後の民主主義を経験した反戦後の運動という側面において,私は,六〇年代末から七〇年にかけての全共闘・諸党派の運動は,理論的にはマルクス主義やアナキズムの言葉が用いられたが,本質的にはプレ・ファシズム的なものだったと考えている。そしてこのプレ・ファシズム性こそが,この運動の最大の思想的遺産でもある。つまりファシズムの自己肯定を経過しない思想は,この運動以降には到達出来ないということである。ファシズムの自己経験のない反ファシズムは,最悪のファシズムの前身でしかないだろう。 〈戻る〉
- (2)三島の文化防衛論には,守るべき文化の実体などはなく,守るという形態(フォルム)が文化として刻印されるのである。また,彼の軍思想は,自衛隊の国軍化とは異なる,文化の親衛隊路線だったといえる。このあたりについては,拙稿「テロルの政治と空間・三島由紀夫の場合」(本誌,一九七五年九月号),同「蓮田善明・三島由紀夫と現在の系譜」(『東大陸』一九九三年第三号)を参照されたい。 〈戻る〉
(おわり)
|
Jump to
|
[Top Page] [#1/3] [#2/3] #3/3
|
| ご意見をお待ちしております。 |
電子メールにてお寄せください。
前田年昭 MAEDA Toshiaki
[E-mail] t-mae@@linelabo.com |
|