|
日本的前衛とアジアの大衆 #2/3
|
三 |
アジア主義の出発点は,それまでの封建的秩序から近代的な国家意識に目覚めた日本の,アジアの現実に対する認識にあったことは言うまでもない。彼らが認識した現実は,欧米諸国に蹂躙されるアジアの姿であり,そしてそれに対する「抵抗」と「対抗」が民族のサバイバル戦略として模索される。このような認識が可能になったことは,近代的主体としての日本があるということだろう。したがってアジア主義は,この近代的主体つまりは近代国家としての日本の性格に大きく制約されていると言える。
明治維新がいかなる革命だったかについては様々な見方があるだろうが,明治維新により誕生した日本は,明らかに民族独立を志向する革命国家の様相を有していた。独立国家日本は,にもかかわらず不平等条約に制約された半人前の国家にすぎず,しかも強大な欧米列強のアジア支配の現実の中において,その独立的存在がつねに脅かされていた。アジア主義の主内容であるアジア連帯の思想は,このような現実に対する認識を背景とするが,見落としてはならないのは,脱日本的な宮崎滔天の場合はともかく,日本中心的な,それゆえ侵略的とされる頭山満や内田良平の場合において,アルキメデスの点になっているのは,民族独立の革命国家である日本であることである。その意味において,彼らの侵略的アジア主義は,露骨なショーヴィズムを覗かせているにもかかわらず,その日本的主観性においては革命的でさえあったのである。
民族独立の革命国家日本のおかれていた状況は,弱小であるにもかかわらず,単独で独立を維持し,欧米の帝国主義勢力の権益抗争の中において彼らに対抗しなければならないところにあった。その結果,革命日本の民族独立の闘争は,対抗的帝国主義とならざるをえなかったといえよう。
一九二四年,神戸高等女学校の講堂において行われた講演で孫文は,日本について「西方覇道の手先」となるか「東方王道の牙城」になるかと述べた。日本の展開は,明らかに孫文の言う「西方覇道」の方にあったが,しかし,当時の日本に「東方王道」は,その始まりからどれだけ可能だったと言えるだろうか。そもそも独立した近代国家という現実そのものが「西方覇道」ではないのか。
孫文が,その中国革命への模索において,日本をいわば「革命の後方基地」と見ていたことは知られている。その意味では孫文にとっての中国革命には,どの程度あてになるかはともかく日本という支援者がいたわけである。それは革命の「独立採算性」が不可能だとしても借金をする当てがあることでもあるだろう。ところが日本の場合は,ともかくも自力単独で民族の独立を達成し,さらにそれを維持していかなければならなかった。つまり日本には周囲に対等な自力独立の同盟国はなかったのである。西方覇道が帝国主義であり,そして帝国主義が,近代国家の現実とすれば,日本に西方覇道以外の方途は可能だったのだろうか。自力独立の同盟国もないまま日本が東方王道を選択していたならば,日本は独立国家としての存在を脅かされる状態になっていたのではないだろうか。その是非はともかく,当時の日本はそのように認識していた。しかしながら日本が欧米帝国主義と同様の帝国主義路線をとったとしても,また日本が「脱亜入欧」路線をとったとしても,日本がアジアの一国であることは無視されてはならないし,そのことが欧米の帝国主義とは異なる日本の帝国主義の独自性となっていることは見落とされてはならないだろう。すなわち日本は,対外的には帝国主義だったとしても,その主観的な自己意識は革命だったのである。孫文からすれば帝国主義的侵略にすぎないものが,頭山満や内田良平には民族独立の革命なのである。このような相違は何も孫文と頭山や内田の間にあるだけではなく,近代における日本と中国の間にも存在した違いだったと言ってもいいだろう。日本側の錯誤や,頭山や内田らの虚偽性を指摘するのは容易だが,問題は,日本の非と,中国の是を言い立てることではないばかりか,むしろこのような日本と中国の認識の相違は,頭山や内田の立場,さらには近代日本の対外的行為を,ただ「侵略」と断じ,批判してみたところで,それが正当であるにもかかわらず,抽象的な正しさを超えないことを示している。
問題は,頭山や内田,あるいは日本の侵略の実証や侵略批判もさることながら,単にそれを指摘し,批判するだけでは,思想としては,日本の侵略にさえ到達出来ないのではないかということである。なぜならば,同じく侵略とはいえ,欧米の場合と,アジアである日本の場合とでは異なるからだ。欧米は,アジアに対して全面的な支配と加害の当事者だが,日本の場合は,対欧米的には,アジアとして被支配的・被害的であり,アジアに対してはドイツ的近代として支配的・加害的という二重性を持っているからである。それゆえ,日本の侵略を欧米の場合と同様のものとみる視点は,日本的侵略の特異性を見ないことになり,そして日本の侵略を一般化し,批判を集中することにおいて,当人たちがどれほど主観的に良心的だとしても,欧米の侵略を無自覚的に,あるいは結果的に肯定してしまっているのえある。
問題は,日本の侵略が,なにゆえに,またどのような内容で革命として主観化されるのかということである。
|
四 |
たとえば,頭山満と並ぶアジア主義者の頭目的人物とされる黒龍会の内田良平の場合を見てみよう。彼は一八九八年から一八九九年に東亜同文会の『東亜時論』の第一号と第二号に発表した「興清策」と題する論文の中で,列強の中国侵出を詳細に分析しており,日本にとっての最大の敵を帝政ロシアであると見ていた。内田にとっては,日清戦争後の三国干渉以来,帝政ロシアこそ日本の宿敵であり,彼の対アジアつまり対中方針は,すべて帝政ロシアの中国侵出に対する危機意識から導きだされており,「興清策」は,それを集中的に述べたものだった。その中で内田が強調していることは,帝政ロシアの中国侵略に対する抵抗,清朝の腐敗した指導者の親ロシア政策に対する抵抗,中国の政治的・社会的変革の推進,日本と中国の連盟の四点だった。内田の認識するところでは,日本のみで帝政ロシアと対抗するのは難しく,さりとて清朝はあてには出来なかった。そこで内田は,中国の改革派に期待を寄せることになる。
このような内田の立場は,当時の孫文とほぼ共通していたことはすでに多く指摘されている。そして辛亥革命が起きるや内田は,いち早く革命を高く評価し,革命支援の活動も着手しているが,彼は必ずしも無前提的に中国の革命派を支持したわけではなかった。「興清策」においては,反清朝の改革派に期待を寄せていたが,日露戦争後,内田は清朝の存続の方に傾いている。内田にとっては,対ロシア的陣形の形成のために満州を日本の支配下に置くことが眼目であり,彼が中国の改革派に期待したり,孫文と接近したのもそのためだった。そのため内田にとっては,満州が手に入るならば,相手は清朝でも中国革命派でもかまわなかったのである。たとえば『東亜月報』(一九〇八年四月黒龍会創刊)に掲載された内田の「東亜時務弁」(この文の実際の筆者は権藤成卿とされている)によれば,清は国内的には,満と漢の勢力が政治的に対立し,国外からはイギリス,フランス,ドイツなどの侵略を受けており,日本は,清との関係において経済,軍事面で相託する必要があるとされた。一方,孫文の方も,満州の「経営」問題を日本との交渉手段として使用しており,一時の内田と孫文の一致も,この満州の件での合意によるとされている。
辛亥革命は周知のように武昌蜂起に始まるが,内田はすぐさま北一輝や清藤幸七郎ら黒龍会の人間を中国に送り,情報収集や革命派との直接的な連絡をとらせている。その一方で内田は黒龍会の『内外時事月函』に「支那改造論」「支那革命調停案」を書き,中国革命を高く評価した。それによれば「今回の革命動乱に至ては義和団のごとく,一時突発的の乱に非ずして永久的継続の性質を帯びる国民的革命」にほかならず,「支那の革命は第二十世紀に於ける世界変局の最も大なるものなり。第十八世紀に於ける仏国の革命が欧州大陸の変局を促したると等しく,支那の革命は亜細亜諸邦の変局を促し,其結果,世界機運の消長に影響すること少小ならざるべし。」
このような内田の辛亥革命への評価は宮崎滔天と比べても,いささかも劣るところはないだろう。辛亥革命により生まれた新しい局面についての内田の見解は次のようなものだった。各国が中国の共和政治建設に強力するよう動き,中国分割を制止させ,各国と協議して革命派と清朝の調停者となって戦いの終結をはかり,清朝皇帝を奉天に退かせて社稷を保持させ,武昌にて国民会議を招集し,全国的な秩序を維持し,革命派は門戸開放,機会均等,外国の既得権の擁護を宣言する。この過程において日本は,次のような権利を主張すべきとされた。満州における勢力の確定,「日清提携」経済の基礎を確立すべく華北・華中・華南の利益基礎を扶植し,対中貿易を拡大し,中国に対して政治,経済,軍事,教育,技術の各部門の人員や技術を供給する。これらを見れば,内田の観点が,「興清策」に戻っていると同時に,日本の在中権益の拡大がポイントだったことが分かる。
趙軍『大アジア主義と中国』は,辛亥革命に際しての内田の革命支援の様々な活動にふれ,「もしそれが本当に中国革命のために行った活動なら,彼はおそらく辛亥革命の一大功労者になっただろう」と述べている。内田は,医療チームを編成して中国に派遣し,革命派の負傷兵の看護活動を行わせ,また革命への干渉のための出兵の気配を見せていた重臣や軍部に対して,彼が関与した浪人会,有隣会,善隣同志会などの組織を通じて出兵反対運動を展開し,さらには革命派のための武器供給にさえ奔走しているのである。にもかかわらず,後に孫文が記した中国革命を支援した日本の志士の中に内田や黒龍会の人々の名前はなかった。
その理由は,いうまでもなく,孫文の側からすれば,内田は何ら中国革命の「友」ではなく,日本の「利害」にのみ狂奔しているにすぎなかったからである。
→#3/3へつづく
|
Jump to
|
[Top Page] [#1/3] #2/3 [#3/3]
|
| ご意見をお待ちしております。 |
電子メールにてお寄せください。
前田年昭 MAEDA Toshiaki
[E-mail] t-mae@@linelabo.com |
|