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日本的前衛とアジアの大衆
アジア主義の革命と戦争
千 坂 恭 二
『情況』第2期第8巻第7号 1997年8・9月合併号、情況出版 に掲載されたものを著者の許諾を得、誤植を訂正して転載
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序 |
近代日本には「アジア主義」と呼ばれるものがあったことは知られている。一つの思想というには漠然としており,また運動として見ても,民間の革命運動から国家の謀略活動まで広狭の幅があり,これまたとらえどころがない。
アジア主義にはこれまで,二つの顔が指摘されてきた。いうまでもなく一つは,西欧列強の支配に対する解放のためのアジア連帯の思想としての顔であり,もう一つは,日本の帝国主義的なアジア侵略のイデオロギー的先兵の顔である。前者の代表としては,宮崎滔天があげられ,さらには孫文の立場も加えられるだろうし,後者の場合は,玄洋社の頭山満や黒龍会の内田良平などがあげられる。そして断わるまでもなく,大抵の場合,前者の宮崎滔天には好意的,肯定的であり,逆に後者の頭山満や内田良平については,批判的であるのが通例のようだ。しかし,このような区別や評価と,それによって,どれだけ事態を把握し得るかは別問題とも言える。かつて竹内好が「近代国家の形成と膨張主義とは不可分であって,そのこと自体には是非もないだろう」(「日本のアジア主義」竹内好評論集・三)と述べ,「そもそも『侵略』と『連帯』を具合的情況において区別できるかどうか」という問題を提起したことは知られている。それに従えば,宮崎滔天と頭山満や内田良平についても,截然と一方は,アジア連帯的で,他方は,アジア侵略的だったと断言出来ないことになる。いや,かりに断言出来るとしても,そのような断言から,いったい何が出てくるというのだろうか。せいぜいが頭山や内田の路線は駄目だという教訓話だけではないだろうか。教訓は確かに忘れられてはならないものであり,忘れかけた頃には強調されなければならない。しかし教訓は現実の出し殻であり,それによっては新しい茶を入れることが出来ないことも確かである。
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一 |
アジア主義に見られるアジアの連帯か侵略かという二つの顔は,たんにアジア主義と呼ばれる一つの思想なり運動だけにまつわるものではなく,むしろ「脱亜入欧」路線をとったアジアとしての近代日本の歩みの縮図であり,その最終的形態は,いうまでもなく第二次世界大戦として現れた。戦争当初の日本の東南アジアへの作戦は,欧米の植民地支配からのアジアの解放というプロパガンダを従えていたことは知られている。しかしながらその実態は,アジア解放どころか支配者が西欧列強から日本に替わったにすぎず,態のいい,そしてより露骨な侵略であり収奪だったとされている。ところで日本の戦争をそのようなアジア侵略とするならばアメリカの対日反攻は,何になるのだろうか。日本の行為が侵略だったとすれば,アメリカを中心とする連合国の対日作戦の展開は,侵略者日本からのアジアの解放なのだろうか。
たとえば,戦後,日本占領の最高司令官だったマッカーサーが,戦争初期に日本軍の攻撃によりフィリピンから追われたことは,例の「アイ・シャル・リターン」の言葉と共にあまりにも有名だ。そして数年後,マッカーサーとアメリカ軍は,レイテ湾で日本海軍の反撃を頓挫させ,フィリピンに戻り,マッカーサーは歌舞伎役者よろしく,くだんの言葉を繰り返している。このマッカーサー率いるアメリカ軍のフィリピン奪回は何なのか。日本軍の侵略と圧制的な支配からのフィリピンの解放なのだろうか。第二次世界大戦を,全体主義に対する民主主義の戦いであり,ファシズムに対する自由主義の戦いと捉えるならば,全体主義にしてファシズムの日本を撃退したアメリカの行為は,当然,民主主義と自由の旗印の下に位置しよう。しかし,民主主義や自由を手にしたのは誰なのか。なるほど戦後,フィリピンは独立することになる。とはいえ,はっきりしていることは,その後の経過はどうであれ,アメリカは,自分たちの植民地における利権回復を意図していたということである。つまり,彼らのいう民主主義や自由には,アジアは含まれていない。アジア解放の題目はともあれ,日本が意図していたことは,対米戦の持久戦的戦線維持のための戦争工場としての基地だったとすれば,日米共々,フィリピンの独立など眼中になかったことになる。とはいえ,歴史は彼らの意図を超えて進展したといえよう。
戦争の実体は,欧米の先進的帝国主義と,後発の日本帝国主義の「植民地争奪戦」にすぎないとすれば,この対立した二つの帝国主義に対するものがアジアであり,そして帝国主義の植民地支配に対するアジアの状況は「民族の独立」「アジア解放」となる。しかしながらアジアは,そうした独立や解放の可能性を,どこから獲得したのだろうか。
再度,日本のフィリピン攻略に話を戻すならば,この時,日本軍はコレヒドール島の要塞に立て籠もるアメリカ軍に圧倒的な重砲撃を加え,同要塞を陥落させている。歩兵突撃を第一とした日本陸軍にも,重砲撃をする能力があった珍しいケースと思われるが,当時の記録映像は,両手を挙げて降伏の姿勢をする長身のアメリカ兵の捕虜の群れと,彼らに指図する背の低い日本兵の姿が映しだされている。このような映像が,どれだけアジアの人々の目に触れたかは分からないが,この映像は,映されている内容において,ある意味で革命的といわざるをえない。というのも,アジア人が欧米支配者に勝利し,アジア人の前に屈服している欧米支配者たちの姿があるからである。
かつて孫文は,とある講演で日露戦争の時,スエズ運河を通過する際に,日本の海軍がロシアのバルティック艦隊を撃滅したニュースに感激したアラブ人から「日本人か」と訊ねられた時のことに触れる機会があった。その時,孫文は,次のようなアラブ人の言葉を紹介している。「われわれはたったいま,ひじょうによいニュースを手に入れた。聞くところによると,日本は,ロシアが新たにヨーロッパから派遣した海軍を全滅させたそうだ。いったい,このニュースは正確なのだろうか。しかもわれわれは運河の両側に住んでいて,いつもロシアの負傷兵がつぎつぎと船でヨーロッパに送還されるのを見た。これは,きっと,ロシアが戦争に負けたことの現れだろう。これまでわれわれ東方の有色民族は,いつも西方民族の圧迫を被り,苦痛を受けていて,頭をもたげる日はないと考えていた。このたび日本がロシアを破ったということは,東方の民族が西方の民族を打ち破ったことだと,われわれは考えていた。日本人が勝ったということは,自分たちが勝ったのと同じだと,われわれは考える。」(「大アジア主義」人類の知的遺産六三『孫文』)
フィリピンで日本軍に降伏するアメリカ軍の姿を映しだした映像は,孫文が遭遇したアラブ人に似たような感情を,それを見た人々に与えただろうと思われる。むろんそれらは単なるプロパガンダにすぎず,まもなく人々は,日本の言う「アジア解放」の実態を知るようになる。しかしプロパガンダは,その当事者である日本が意図したものを超えた影響を人々に及ぼし,歴史もまた,日本の意図を超えて展開していくことになる。あえて言うならば,日本の意図が「解放」を餌にしたアジアの支配と収奪だったならば,アジアは日本の意図を超えて,日本が与えた餌を現実にすることになったといえよう。その意味で誤解を恐れずに言えば,第二次世界大戦のアジア・太平洋地域戦は,結果としては,そしてアジアの側においては解放戦争だろう。ただし,誤解を恐れずにと言ったのは,良い意味でも悪い意味でも,このように言うと当然のことのようにそれぞれに正反対的な誤解が生じるだろうからだ。まず,アジア解放戦争だったと言えば,一方の人々は同意され,逆に別の側の人たちからは批判の的にされよう。しかし,私は,これまで言われてきたようなアジア解放論には,いささかも与する者ではない。ただし同じ理由から反対の従来までのアジア侵略論にも同意しないことを付け加えておきたい。というのも,これまでの解放論にしろ侵略論にしろ,そこに見られたものは共通して日本の戦争指導の意識に還元して行われる歴史評価だったからである。これまでの解放論は,日本は「本当はアジア解放」を目的としていたのだという感傷主義以上のものではないし,逆に侵略論は,当時の日本の占領政策の実態その他のドキュメントやアジアの人々の証言から,侵略であるとする実証主義にすぎない。私は何も感傷主義や実証主義を否定するわけではない。それらには,何ほどかの,さらには圧倒的なドキュメント的事実があることを否定しない。日本の中には心底からアジア解放のために戦った人たちもいるかもしれないし,逆に,日本が,最近いわれている「慰安婦」問題のような行為から,各種の資源や資産の収奪,さらには無数の残虐行為を行ったことも事実だろう。ドキュメント的事実だけを言えば,後者の度合の方がはるかに高く,どう見ても解放などとは言えないだろう。
しかし,あえて言うならば,それらのドキュメント的事実と歴史的評価は,切り離して考える必要があるのではないかということである。ドキュメントが当事者の介在するものであり,そこでは当事者の意識が重要であり,その意味ではドキュメントは啓蒙的正しさを含んでいる。そしてそうであるかぎり,歴史は,ドキュメントの終焉後に始まると言えるのではないだろうか。なぜなら歴史は,当事者の意識には還元されない意味の次元を開くからであり,そのことからすれば,方法における意識還元主義ということにおいて,感傷主義的解放論も,実証主義的侵略論も,はっきり言えばさほどの大差はなく,むしろ相互補完構造をなしているとさえ言えるようにも思われる。
私が,アジア解放と言う場合,それは日本の戦争指導の意識にも,アジアの人々の意識にも還元されるものではない。アジア解放とは,それぞれの当事者の意識や,そのような意識の総和を超えた結果なのであり,アジアが手にした現実にほかならない。それゆえ,このようなアジア解放観は,いうまでもないことだが,ドキュメント的な事実レベルの日本の戦争行為をいささかも免罪したりはしないだろう。しかし,歴史的評価ということからすれば,そこにもまたそれなりの意味はあるわけであり,それはヘーゲル的に言えば,アジアが解放を現実とするための否定的媒介だということである。そしてこの否定的媒介のアジア侵略の自己意識は,対欧米戦のための資源という「軍資金」の調達の「M作戦」と見ることが出来るのである。
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二 |
近代日本を見る場合,重要なタームは,アジアと並んでドイツだろう。一見,およそ無関係に見えるこの二つのものは,にもかかわらず表裏的に一対の構造を持っているのである。第二次世界大戦期においては,ドイツとは,日本にとっての「近代」を意味した。それはアングロ・サクソンの「敵」性近代に対して,「味方」的近代を意味しており,その内実は,現実の同盟国のドイツから国内の転向マルクス主義者までを含む。それは世界を支配するアングロ・サクソン的な普遍的近代に対する対抗的な党派的近代と言えようが,熊本神風連的な純国粋派がどのように言おうとも,このような対抗的・ドイツ的な近代によって日本は,欧米に対する独立存在としての武装を精神的にも現実的にも可能としたのである。アジアへの軍事展開はそれによって可能となるのであり,日本のアジアへの関りは,このようなドイツに媒介されているのである。
このことは,近代国家日本の出発点における「脱亜入欧」的選択を見れば明かだろう。アジアという「村」から飛び出した日本が赴いた「都市」は,アングロ・サクソンでもフランスでもなく,プロイセン・ドイツにほかならなかった。アジアを捨てた日本は,ドイツにおいて近代的な「自己意識」や「主体性」を獲得することになる。したがって日本の近代はドイツ的偏差を含んでいるわけだが,ならばそのドイツにおける近代はどのような状況にあったのか。日本におけるアジアを見る前に,その前提であり,立脚点でもあるドイツについて一瞥することは不可欠である。
周知のようにドイツにおいては近代市民革命が勝利することなく,その近代は,封建勢力のヘゲモニー下に,近代の前夜としての国民的な絶対王政に対して,超国民的な帝政と国民空間の和解として成立した。その結果,ドイツの近代は,後発の近代とされ,イギリスやフランスをモデルにした近代一般に対する「ドイツ特有の道」が言われてきた(1)。マルクス=エンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』で批判的に指摘しているドイツ思想の後進的状況などもその現れであり,そのようなドイツの後発性は,観念的な超先進性と,「西欧に抵抗するドイツ」という理念を形成した。この理念は,ドイツが初めて総力戦的に西欧と戦った第一次世界大戦において「商人と英雄」(ゾンバルト),「市民と戦士」(エルンスト・ユンガー)という内容で姿を現すが,それはドイツにおいては,西欧超出の問題となり,西欧近代からすれば,たとえば侵攻してくるドイツ軍をフランスが「フン族」と呼んだことに見られるように「ヨーロッパのアジア人」としてのドイツ問題となる。ちなみにヨーロッパの指導権を争うドイツとフランスにおいては,自己より東方に位置するものは「アジア」となり,西方に位置するものは「アフリカ」となる。ドイツにとっては,東欧やロシアは「アジア」の先兵であり,フランスは「アフリカ」の延長となるが,フランスからすれば,ドイツこそ「アジア」の前哨であり,長らくイスラムの後ウマイア朝が支配していたスペインが「アフリカ」の出店になる。これは,東方からのヨーロッパ侵入者がモンゴルであり,西方からの侵入者が北アフリカ経由でスペインに入ったイスラムのサラセン勢力だったことによるといえよう。
ともあれ「ヨーロッパのアジア人」の問題は,ロシアよりも,より西欧(フランス)に近いドイツにおいて先鋭な形で現れることになり,それはプロイセン・ドイツ帝国時代は,前近代的・帝国臣民的な反資本の問題となるが,第一次世界大戦敗北による封建制の解体後は,近代的・国民的な反西欧性となり,その典型として「国民(民族)ボルシェヴィズム」があげられるだろう。それは「西欧に抵抗するドイツ」理念の近代的形態であり,歴史的にはワイマール時代に登場している。狭義のものとしては,エルンスト・ユンガーの革命的ナショナリズムの社会主義的分派展開ともされるエルンスト・ニーキッシュの思想があげられるが,より広くメラー・ファン・デン・ブルックその他の「保守革命」と総称される右翼の革命派の一般的傾向でもあり,さらにはドイツ革命の際に「国民共産主義(Nationalkommunismus)」を標榜し,ドイツ・オーストリアの「併合」による大ドイツ・レーテを主張したドイツ共産党ハンブルク地区のハインリヒ・ラウフェンベルクやフリッツ・ヴォルフハイムらのグループ(後に国民共産主義ドイツ労働者党)や,カール・ラデックをスポークスマンとしたコミンテルンのドイツ革命派右翼との統一戦線路線として現れている。それは,第一次世界大戦後の新しい世代のナショナリストの感情であり,またドイツに橋頭保を形成せんとしたコミンテルンの戦略でもあり,また,「プロレタリア・ナショナリズム」とでもいうべき状況にあったドイツの時代精神でもあった(2)。
このような国民ボルシェヴィズムにおいて看過出来ないのは,その反西欧の立場において,アジア・アフリカなどの解放運動に連帯していることだろう。オットー=エルンスト・シュッデコップは,六〇年代に著した国民ボルシェヴィズムの詳細な歴史書の序文において,国民ボルシェヴィズム(それはとりもなおさず,「ナチスの先駆」ともされる右翼の革命思想になるが)の現代性として,その「第三世界」の解放思想をあげている(3)。解放や独立という事態が近代の範疇に属すならば,国民ボルシェヴィズムこそ非欧米世界の独立を代表する思想であり,「西欧に抵抗するドイツ」こそ,非欧米世界の独立と解放の先頭に位置していたと言えよう。
日本が明治期に近代として選択したのは,このような反西欧的なドイツの近代にほかならなかった。このことは,とりもなおさず,日本の近代が,それ自体において反西欧的であり,反近代的な要因を,その底に持っていたことを意味する。そしてこの点において,近代と民族をめぐる問題は,欧米と国粋,西欧傾斜と日本回帰,近代と反近代の二元論ではなく,「西欧的近代」「ドイツ的近代(反近代的近代)」「国粋的反近代」の三者に分かれることになろう。ところがこれまでの近代日本に関する考察においては,ドイツ的近代は,西欧的近代の一変種とされたにすぎず,そればかりか,ドイツ的近代は,西欧的近代からは,その反近代性が批判され,逆に国粋的反近代からは,その近代性から排撃の的とされた。しかしながら,日本の近代の中枢にあり,近代を支えたのは,対西欧的な対抗性の内に独自の自己近代を志向するドイツ的近代だったのであり,第二次世界大戦もまた,ドイツ的近代によってのみ可能だったといえる。いうまでもなく欧米的近代は従属路線となり,国粋的反近代は自滅路線にしかならず,ドイツ的近代のみが抵抗路線を可能としたのである。
このようなドイツ的近代は,国内的には,所謂「士族的近代」に相当しよう。西欧的近代に相当するのは,商人的・平民的近代だが,そうだとすれば,個別的にはドイツに対する関心や知的受容などなくても,あるいは現実のドイツに対して反対感情を持っていようとも,士族的であれば,無自覚なドイツであることを意味する。
近代は,教育,官僚制,法秩序の整備にあるとすれば,日本の近代において教員,公務員,警察官となったのは,「読み書き」が出来,「組織」序列の中にあり,「武術」の心得のある士族層にほかならなかった。また,アジア主義の総本山ともいうべき玄洋社は,周知のように福岡士族を中心にしている。士族であるアジア主義者にとって,アジアとは,反欧米の平民であり,彼らが指導する対象たる大衆だったのである。
- (1)「ドイツ特有の道」については,D.ブラックボーン/J.イリー『現代歴史叙述の神話』(窪田幸男訳,晃洋書房,一九八三年)における批判があるが,ここではふれない。 〈戻る〉
- (2)国民ボルシェヴィズム的なワイマール期のドイツ右翼については,拙稿「ドイツ・ナショナリズムの史的状況」(『東大陸』創刊号,一九九一年),同(平野和男)「エルンスト・ユンガーとナチズム」上・中・下(『ミネルヴァの梟(立命館大学学生論集)』一九九六年―九七年,一号,二号,三号)を参照されたい。 〈戻る〉
- (3)Otto-Emst Schuddekopf : Nationalbolschewismus in Deutschland 1918-1933. Frankfurt/M. 1972. 〈戻る〉
→#2/3へつづく
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